2024年の注目展覧会! 鳥文斎栄之の生涯と作品を特集します(年表付き)
Himashunです。
先日、2025年の大河ドラマに江戸時代の版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)を主人公にした「べらぼう」が決定しました。
蔦屋重三郎は「江戸のメディア王」と呼ばれ、出版業界に君臨する敏腕社長でした。浮世絵師を代表する喜多川歌麿や狂歌で有名な山東京伝を見出したことでも知られます。
蔦屋重三郎は横浜流星さんが、喜多川歌麿は染谷翔太さんが演じられるそうです。
武将や大名を主役に据えた大河ドラマは多い印象ですが、今回は江戸の町人にスポットライトが当たります。果たしてヒット作になるのでしょうか、楽しみです。
ところで、蔦重(蔦屋重三郎)と相方・喜多川歌麿にはライバルとなる版元と浮世絵師がいたのはご存じでしょうか。
それが和泉屋市兵衛、そして鳥文斎栄之です。
この両者は浮世絵黄金時代にあって、しのぎを削りあっていました。
で、今回取り上げたい話題はこの歌麿のライバル・鳥文斎栄之なのです。
1、来年史上初の鳥文斎栄之を取り上げた展覧会が開催!
鳥文斎栄之、これは「ちょうぶんさい・えいし」と読みます。
その名を聞いたことはありますでしょうか?
彼の名はマイナーなものとして存じ上げている方もいらっしゃるはず。
いわゆる「六大浮世絵師=鈴木春信・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重」、そして最近にわかに人気を集める末期浮世絵の歌川国芳・月岡芳年・河鍋暁斎らは展覧会で大盛況。
一方現在傍流とされるそれ以外の絵師たち(岩佐又兵衛や菱川師宣は除く)は研究が進まない・展覧会に出ない・スポットライトが当たらないの「3ない」状態です。
その代表格が鳥文斎栄之といってもよいのではないでしょうか。
つまりだいぶ不遇な絵師なわけですね。
でもそんな「3ない」状態に来年けりがつくかもしれません。
というのも、2024年、ついに待望の鳥文斎栄之を取り上げた一大特別展が開催されるからです!
その名も「サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展」。なぜこういう副題なのかは後で説明いたします。
会場は千葉市の中心部にある千葉市美術館。これまでも鈴木春信や鳥居清長、喜多川歌麿を取り上げた一大展覧会を開催しています。
会期は正月中の1月6日から3月3日まで。前期と後期で展示される作品が変わります。
今からぜひ見に行きたい!と思われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし鳥文斎栄之は中々文献が見つかりにくい絵師です。下調べをするのも大変だと思います。
そこで今回は、私Himashunなりの視点を加えつつ鳥文斎栄之を包括的に一望できるようにネットや私の蔵書などの情報を整理してみました。
その内容は、
・辞書で鳥文斎栄之を調べたらどう書かれているか、ポイントを解説
・栄之があこがれた鳥居清長、そしてライバルの喜多川歌麿を比較
・作品を中心にした栄之の年表を見、そこから代表作を解説
の三点です。
2、辞書解説を見てみよう、気になるギモン点を解消!
まずは鳥文斎栄之自身のことについてアプローチしていきましょう。
やはり作品を知るには、その作者や時代背景について知っていなければなりませんので。
彼についてはWikipediaにも記事が載っていますが、けっこうカチカチで長い記事なので、あえて年表形式でまとめるにとどめます。
むしろ辞書・事典のほうが簡潔な説明になっているので、そちらを見ていきましょう。
私が見た中では、ニッポニカが包括的ながら踏み込んだ内容になっているので、そちらを載せてみました。ご覧ください。
いかがでしょうか。
解説としてはかなり難しめで専門的です。ただ重要な点はきちっと入っているので押さえておきましょう。
まず「旗本」の生まれ、つまり武士身分ということ。武士として生まれた栄之は浮世絵師になってしまうのです。これが展覧会の副題にあった「サムライ、浮世絵師になる!」の意味です。武士身分から浮世絵師になった人物としては酒井抱一(姫路藩主の弟)、渓斎英泉(下級武士)が高名です。
次に「家督」を譲って「隠居」してしまった点。ちなみにこれは栄之34歳(数え年)のことです。いったい何があったのでしょう。穏やかではなさそうです。とは言え何かやらかしたというよりは、浮世絵三昧をしたかったためもあるでしょう。
あとは画風についても言及されています。「鳥居清長」を慕いつつも「独自の画風」を作り上げたことが書かれています。鳥居清長は「江戸のヴィーナス」と呼ばれることもある8頭身美人を好んで描きました。栄之は清長に私淑(直接指導を受けていないがその絵を模範とすること)しつつも、その真似にとどまらない自分だけの画風を確立したということが伺えます。
最後に「肉筆画に優れ」と描かれていますが、実は栄之は浮世絵師としては珍しく、肉筆画の方が専門であり、そのキャリアとしていた時期が長い絵師なのです。全盛期の43歳から死の74歳まで、栄之は一貫して肉筆画を制作し続けました。これには彼の武士という出自が大きく関わっていまして、後で詳しく取り上げます。
ちなみに個人的に一番「?」だったのが、栄之が喜多川歌麿にも影響を与えていた、という記述。
歌麿は作品が膨大すぎて、果たして影響関係などわかるのだろうかと思いつつも調べてみました。
すると、今回の鳥文斎栄之展の企画担当者の一人である染谷美穂先生の論文にこんなことが書かれていました。
孫引きになってしまいますが、フランスの権威ある小説賞「ゴンクール賞」の由来であるエドモン・ド・ゴンクールは慧眼にも歌麿がその画業の「末期」において鳥文斎栄之の画風に近寄っていることを指摘しています。そして小林忠氏はそれを歌麿の代表連作「青楼十二時」だと推定しています。
歌麿が影響を受けた栄之の作品というのは、「青楼芸者撰」という三枚続の錦絵のこと。東京国立博物館にあって重要文化財にも指定されています。
歌麿を栄之の圧倒的上位とみる風潮は130年前・ジャポニズム全盛のパリですでに存在していましたが、一方ゴンクールはその博識でもって栄之と歌麿が相互影響を与えていたことを示唆しているのはまったく驚くべきことですね!
3、特徴比較!栄之VS清長、そして栄之VS歌麿
ここからは二人の浮世絵師との比較を通じて、鳥文斎栄之の画風の特徴を探っていきましょう。
比較するのは栄之の私淑した鳥居清長、そしてライバルであった喜多川歌麿です。
比較って重要ですよね。例えば日本絵画の最高峰・伊藤若冲もそうです。若冲が好きすぎて≪動植綵絵≫を何度も見に行ったという方もおられると思います。でも若冲はすごすぎて逆に分からないという意見もあるでしょう。そういう時は若冲よりちょっと下手だけど別の意味ですごい画人だったり(与謝蕪村)、若冲と交流のあった同時代の画人(丸山応挙や池大雅)と比較して論じられると説得力が増すもの。
栄之に関して言えば、自分は彼の作品を「なんとなく歌麿っぽい」とか「清長に似すぎている」とか思っていたのですが、ちゃんと比較したら、やっぱり全然違ってました。
ではどんな風に違うのでしょうか?
まずは清長と栄之を比較しましょう。
これはけっこうよくよく見ないと難しいですし、Himashun的に気づいたことですので、異論はあるかと思われます。
まずなんといっても出自の違いが両者のモチーフや描き方を決定的に変えています。
栄之は旗本出身の武士です。浮世絵師になっても、その矜持を持ち続けたことは画業に大きく反映されているのです。栄之の美人画は表情に乏しいとされますが、それは上品さの裏返しです。また、彼の育った武士階級の女性は感情を表に出さないのを美徳としていたのでしょう。「紅嫌い」と呼ばれる赤色を用いない錦絵もまた栄之の育ちの良さから来る美意識を反映しています。
一方清長は日本橋の貸本屋の出身。下町の町人として生まれた清長は慣れ親しんだ江戸の文物を描くことに長じていました。花見に行く武家女性、麻を紡いだまま居眠りする女性、神社にお参りに行く一家、墨田川のランドスケープなど、清長は目に映る景色を時に滑稽さも交えながら描きました。清長の浮世絵には外の空気感が目いっぱい詰め込まれているような気がします。
確かに栄之の描く絵には清長に私淑した跡が多く見受けられます。8頭身をさらに引き延ばした12頭身美人、面長のバリエーションに乏しい顔貌表現、川での船遊びというモチーフなどなど。それでも清長の浮世絵はどこか内向的で、もの静けさが漂っています。何か、女性の見えない美(内面性、言動、趣味趣向など)をそっとひも解いて見せるような瞬間に立ち会っているような気が私にはします。
一方、喜多川歌麿と比較した場合にはどのような栄之像が見えてくるでしょうか?先の染谷美穂先生の別の論文にヒントを得て考えてみます。
キーワードは描く女性の「ジャンル」です。
栄之が描く女性はほぼアッパークラスです。町娘にしても茶道を習わせられるほどお金持ちですし、芸者は歌麿のように「てっぽう」女を描くようなことはまずありません。また表情や感情といったものも控えめです。これは歌麿の画風との差別化を図る戦略であると同時に栄之自身の美意識の表れであり、上流階級の顧客からの需要でもあったのです。
歌麿はというと、先の「てっぽう」から太閤秀吉の正室・北政所すらも書いて見せました。とにかく彼は書いてよいものは何でも描いてやる!の精神でした。そしてその表情にも注目。春画では襲われた女性が醜悪な顔で老人と格闘するさまが描かれ、山姥と金太郎を描いた絵では、おどろおどろしい顔立ちで本来描かれるはずの山姥が慈悲深げな美女として表現されています。
栄之と歌麿は同時代を二分する美人画のライバル同士。やはりすみ分けを図ることによって生き残りを図ろうという互いの戦略もここからは見え隠れしますね。
その後歌麿は検閲ギリギリの錦絵を制作し続けお上に目をつけられた結果、手鎖の刑で謹慎となり、絵師生命を絶たれてしまいます。一方で栄之は錦絵制作からは手を引くものの、多くの秀逸な弟子に自分の画風を継がせ、パトロンにも恵まれて74歳という長寿でもってこの世を去りました。長い目で見たら栄之の戦略の方が安牌だったのでしょうか。
4、年表からアプローチ。栄之の代表作品は?
作者、画風を知ったところで、いよいよ作品についても紹介していきましょう。
まずはこちらの、作品を軸にした年表をご覧ください。
こうしてみると、栄之の画業は三つに大別することができます。
①修業時代(10代~34歳 )
~家督を譲って隠居~
②錦絵時代(34歳~43歳)
~寛政の改革による弾圧逃れ~
③肉筆画時代(43歳~74歳)
浮世絵、というと皆さん思い浮かべるのは「錦絵」と呼ばれる多色刷りの版画のことでしょう。実際浮世絵の大半はこの錦絵でありますから。
しかし栄之はその画業において錦絵を制作したのは10年ちょい。一方肉筆画は30年以上にわたって描いています。
私は栄之の錦絵と肉筆画、現存数はどっちが多いだろう?と考えています。栄之の浮世絵は海外に多く流出したために全貌がわからないんです。でも私は今のところ肉筆画の方が多いかも、と思っています。
栄之は肉筆画を描き自分の地位を高めることを求めていましたし、1800年に後桜町上皇に自ら描いた肉筆画をお褒めいただいたのも天に昇るような嬉しさだったでしょう。そうなるとやはり栄之の中では肉筆画より錦絵を劣ったものと見なしていたでしょう。
こんな話もあります。浮世絵業界を寛政の改革で弾圧した松平定信。彼も絵を習っており、当時江戸で流行の南蘋風の絵を若いころ描いて配っていたそう。しかし後年自らの筆の拙いのを恥じてお金を払って回収に回ったとのこと。アーティストは自分の気に入らぬ絵はわざわざ破棄するために、パトロンに懇願して譲ってもらうという話がよくあります。栄之は自分の錦絵を後年どう思っていたのでしょう?そう邪推してしまいます。
さて、いよいよ栄之の作品を見ていきましょう。2024年の千葉市美術館で開催される栄之展の出品予定作品が中心となります。
まずは彼の代表作にして、歌麿晩年の傑作≪青楼十二時≫に影響を与えた≪青楼芸者撰≫から紹介していきましょう。
12頭身とも称される、過剰に引き延ばされた背丈の女性が一人扇子を顎に当てて立っています。人体の描かれ方としてはアンバランスですが、大人びた風情が感じられます。
芸者の顔立ちは面長で清長風。おっとりとした品の良さが感じられます。
衣には縦縞の文様が施され、衣の輪郭線の強い縦線の表現と相まって、動的な印象を持ちます。芸者自身の静とは対照的です。
背景は白地で、黒の小物入れには柏紋が刻まれています。
紅色を用いず、代わりに上品で控えめな桃色が扇子や裾、襟のあたりに配色されています。そのほかにも深緑、紫、黄といった色を配して、少ない色で高貴な風情を醸し出しています。
こちらはボストンからの里帰りとなる三枚続の作品です。
川に浮かんだ屋根付きの船には9人の人物が乗っています。それぞれ舞を舞ったり鼓を打ったり、お酒を飲んだりと思い思いに楽しんでいます。
船は真横を向いており、川の向きと平行になっています。また9人も全員こちら側を向いていて、説明的ながらも分かりやすい絵となっているでしょう。
とりわけ目が行くのが船の頭で舞を舞う女性。振袖ですから未婚の女性なのでしょうが、羽織のように着られた水色に鶴の紋の入った服が気になります。格好良く男性的に見栄を切るポージングは歌舞伎を思わせます。
よく見ると皆さん羽織を着ています。ご存じの通り、江戸時代に女性は羽織を着てはいけませんでした。ただ例外的に芸者衆だけが着てよかったそう。やはり芸者が描かれているのですね。
後ろの景色には神社の鳥居が見えます。川向うに鳥居、というのはたいてい墨田川の向こうの三囲神社、ということになります。この場面もそうかもしれません。
お次は高位の芸者と二人の禿を描いた錦絵。
体自体は左を向きながらも、顔は右を向くという見栄切りのようなポーズです。
重ね着の枚数や肩の紋を描くために、少々首回りが説明的な描写になっているのが惜しまれます。ただ一方で人体表現を無視した、うねるような衣紋表現は力強く活気に満ちています。
芸者の羽織には鯉に笹があしらわれています。この組み合わせは中国では家内安全など吉祥を意味する柄だそう。また、芸者の帯には唐草に百合の紋が、そして禿の着物の振袖には七宝紋がそれぞれ刻印されています。
この作品は1785年ごろのものとされ、栄之30歳の相当初期の画業に当たります。
こちらは茶の湯をする島田髷の女性。
女性は棗という抹茶を入れる器を袱紗で清めているところ。右に女性が、左には茶道具や切られた炉が配されています。
女性の着物は紫と桃色を基調としており、帯は深緑という落ち着きのあるファッションです。また袖や裾の桜・楓文様や袖から見える絞り文様は可愛らしさも感じさせます。
先ほどの《若那初模様 丁子屋 いそ山 きちじ たきじ》と比べると、肩や襟の部分の処理はより自然な線でなされています。このことからも栄之が後年画の技量を高めたことが伺えます。
また女性が平面に対し右肩上がりに描かれているのも特徴的。ともすれば静かになりすぎな場面において、ちょっとした躍動感を演出していると私は感じます。
肉筆画も一点だけ紹介。
相当初期の肉筆画《朝顔美人図》です。
縦長の掛け軸となっていまして、上部右には簾、釣舟の花入れに朝顔が生けられ、下部左には帯の結び目を前に寛ぐ芸者が描かれます。
画面内には様々な花のモチーフが。朝顔はもちろん、うちわにはススキ、着物の裾にはセキチクと思わしき花が。すだれや雲の演出と相まって涼しい気配を感じさせます。
配色としては、まだ肉筆画業初期なのもあってか、多くは色を用いません。着物の紺色が暗色の割に重苦しい印象を与えないのは、まるで滝の流れ落ちるような帯の衣文描写と涼し気な水色のおかげでしょう。
芸者は左腕を地につき右腕を胸元にやり、左ひざを曲げるなど難しいポージングをしていますが、自然かつ流れるような巧みな筆遣いで描かれています。裾の末広がりな様や襟の上品にはだけた様子の破綻ない描写にも栄之の技量の高さが伺えます。
最後に紹介するのは、栄之の代表作といってもよいでしょう、《畧六花撰 喜撰法師》です。
錦絵画業最終盤に描かれたと思わしきこの浮世絵、芸者の上半身を切り取った大首絵となっています。
両手に源氏貝を手にする芸者はどこか少し笑みを浮かべるような様子。少々乱れ髪になっていますが、上品な艶がありますね。
黒い羽織をまとった彼女はいかにも玄人っぽさがあるものの、襟の桃色や紫はどこか軽快であり、不思議と親しみやすさを覚えます。首筋のあたりはこの角度からだと開いており、芸者の色白さが協調されるのがなんとなくセクシーです。
かんざしの直線や着物の襟の曲線は交差するかのように×状に見えるので、芸者のほほえみと相まってにぎやかさも演出しているでしょう。
構図も色彩も完璧なこの傑作、もし栄之の絵を一枚だけ見ることになったら、この作品を狙ってみたいです。
いかがでしたでしょうか?
栄之のこと、基礎情報、もしくは新視点な情報が手に入ったなら幸いです。
もし鳥文斎栄之の作品を見てみたい!という気持ちになったら…。
ぜひ2024年冬の千葉市美術館で開催される「鳥文斎栄之展」を見に行ってください!
実物を見るということは、またさまざまな新情報を得るきっかけになるので。
私も来年になるのが待ちきれません!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
以上Himashunより、鳥文斎栄之の記事でした。
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