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こんな人になりたくないなあ、と思っている人物像

最近思っている。
かまってちゃんにだけはなりたくないな、って。
話すためにちょっとずつ嫌がられながら、こっち見てこっち見てと思っているタイプ。
もちろんこの表現の中に極端な面があるってことはわかっているけど。

誰しも自分が大事である。
病気自慢というのを聞いたことがある。
おそらくは身体の中のどこか不調を見つけて、というより気になって、それを大きく言う人。どちらが不幸かという不幸自慢とも並んで、正直面倒くさい。

私は高校時代、自分のことしか言わない、とよく部活で一緒だったS美に言われていた。進学校に行っているのに、あまりに内向きな考え方をしていたのだろう。競争意識はないし、神経質だし、もしも最も良い表現をするなら繊細だった。最近では自分の繊細さなど、文学にでも使えるなら、あるいは生徒の変化に敏感であったり、他の人への思いやりとして使えるなら認めるが、自分に対しての繊細さなど、くそくらえである。

大学に進み、そこでも私は自分のことばかり言っていたように思う。周りと違う、と自分の中では顕著に思われることをもっていたから、それを主張してしかるべきとでも思っていたのだろう。
でも、事情なんて誰にでもある。

その相対化が初めてできたのが大学時代で、いったい自分の事情が、周りの人にどうして関係がありえようか?ということに突如として気付いた。

それからは人のために役立つことだけを考え、自分のことを考えないように努めた。
学校現場というのはそういう点、便利である。
人のためにするのが仕事であるから。

教材研究、会議、書類を書くこと。部活動、常時絡んでいた図書館。そして寮での生徒と同じ場での生活。

自分のことにかまけていられない生活がとんでもなく自分の成長に役立った。というより精神衛生上、良かった。

とりあえず人のために役に立っておけば、ありがとうと言われ、そして自分はそこに置いての存在意義があることになる。
かくして、自分というもののアイデンティティーは確立へと向かって行った。

が、結婚した夫の職場は、私がworkerだとしたら、思い切りlaborな仕事だった。
というか、彼はそういう人だ。
自分の生活のために仕事をするか、やりがいが大事か。
もちろん、やりがいばかりを求めて生活できなければ、漱石先生が『それから』の中で主人公代助を評していた、高等遊民ということになり、はなはだ迷惑な、というか自己満足の人種になってしまう。

家庭生活も営めない人が、社会のためと言っても、それはちゃんちゃら可笑しいということになる。
同じく一緒に過ごす人たちの競争意識は素晴らしかったし、いつもマウントの取り合い。ご自分が勝てればいいが、負けるような話になると、相手を思い切り非難する。疲れる場所だった。

人のことを考えて生きていると、自分のことに関心をもつことが少なくなって、私の場合、非常に健康的だった。内面に向かっても、私の場合、あまりよいことにならない。

で、である。
私を見てもらうのは、あまり得意ではない。
チヤホヤされたくもない。
それよりも、働かせてほしい。
私の方なんて見てほしくない。
これは真ん中っ子特有のものだろうか?

その昔結婚を控えて、周りが私のことをあれこれ言うのが苦手で仕方がなかった。

こんなお祝いをあげようと思っているの。
送別会、しようよ!
一度だけでいいから家に遊びに来て・・・。

そんな、自分を注目されることが異様に嫌いだった。

今でもそうである。
何か自分の中の不調があっても、私は自分で処理したい。
誰にも何も言わずに、いや、どこに行くくらいは言うだろうし、なぜかということも言うだろう。
でも、そのことに関心を持たれることがあまり好きではない。

というか、それをしてもらうべき人にはよい。
でもしてもらうべき人ではない場合、本当に嫌である。

昔、夫が風邪で高熱を出している私を置いて、子どもたち二人を実家に連れて行ってくれた。
あまりに熱が高くて、これでは長引くな、と思ったので、電話したら、お風呂に行っていた夫のところにお義父さんが服のまま浴場に行って、私を病院へ連れて行くようにと伝えてくださったのは、本当に嬉しかった。

姑が、夫に、

私、これだけしかご飯食べられなくて・・・。

と言って、両手の指で小さな丸を作ったとき、私はその物言いにゾッとした。夫は男性で、姑は、可愛い女性ぶっていた。

私はあれだけは嫌だと思う。
息子に女性を出すなんて。

とはいえ、私を可愛い女の子の気持ちにさせてくれたのは、息子である。
それまでついぞ感じたことのない、可愛い気持ちを抱かせてくれたのは息子である。
人のことは言えないのだろうか?

いやいやちょっと違うと思う。
私は良いことは言っても、自分が大変ということを子どもたちに言ったことはない。
娘の担任の先生が、

お母さんの弱い部分を見せてあげるのも教育だと思います。

と言ってくださったくらいに。
でも、私にはできない。

できることなら、自分のことなどそうそう言わずに、できるなら颯爽とあの世に行きたい。
最後の最後まで、人のために役立って、最後の一瞬まで働きとおして、できるなら、何も子孫には遺さず、西郷南洲よろしく。

児孫に美田を遺さず

の気持ちで、財産などいい。徳を残したいと思う。

とはいえ、周りのかまってちゃんを見ていると、ときどき嫌になる。
いいやん。それくらい。
そんなに自分のこと、心配?その間にちょっとはどうしたら人の役に立てるか考えてみたら?と言いたいときもある。

自分のことばかりに関心のある姿は、正直醜いときがある。
人のことを考える姿は気品がある。
気品のある人に私はなりたい。(笑)

かつてセンター試験の過去問で、河合隼雄さんの論を読んだが、自分が社会に貢献しているという実感が、その人に気品をもたらすらしい。

誰それにどう思われている、ということを気にして、誰かに好かれていると信じている人って、正直おめでたいと思う。
ニッコリ笑って話しているように見えても、その実内面で何を考えているかなんてわからない。

そもそもよく思われていて、いったい何がいいことがあろうか?
嫌われてでも何か役に立っている方がいいではないか。


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