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論理による自由と、物語による自由

 なぜ私たちには物語が必要なのだろうか。なぜ論理やファクトの積み重ねだけでは生きていけないのだろうか。

 研究成果とか、賢者による思索の体系を吸収しているだけでは、自分の中に余白がなくなっていくのはなんでだろうと、真剣に考えてみる気になったのは、短期間に学術書を詰め込みすぎて、文面を眺めているだけで吐き気が襲ってくるようになったからだ。

 ああ、なんて、たいした頭脳じゃないないんだろう。それでも本という人類の知の結晶からは離れる気が起きず、知性を隙のないジグソーパズルのように組み上げることに疲れたら、エッセイや、フィクションに逃避する時間が増えた。タイミングよく習い事の先生が村上春樹のエッセイ『村上さんのところ』を貸してくれた。村上春樹が読者からの質問メールにどんどん答えていく形式で、いっそう物語を作り出すことについて襟を正された。

 私は世に言う「村上主義者(村上さんが、ハルキストよりこっちをつかってくれと言うもので)」ではない。1Q84を読んで「村上春樹はしばらく遠ざかろう」と思った方だけれど、エッセイに書かれていることは、とてもすんなり受け止められた。『村上さんのところ』はだいたい十年ほどまえの企画らしく、当時でも還暦を越していたはずの村上春樹は、お爺さんぽくもおじさんぽくもなく、村上春樹そのもので裏切られることがない。


論文か物語か

 このテーマは書という氷山の下に横たわっている眠れる幻獣のような気がしている。私はどうせ文章を書く。書くからには健闘したい。じゃあ、なぜ論文じゃないのか。物語なのか。ルポルタージュじゃないのか。

 同じような壁というか谷というか分水嶺について語られたいくつかの作品がある。

ムン・ジヒョク 『私たちが橋を渡るとき』

 韓国のアート・カルチャーを紹介する雑誌KOREANA2023年冬号をたまたま手に取り(これも勉強に疲れた息抜きだった)掲載されていたムン・ジヒョクの作品とインタビューを読んだ。彼はその当時大学に通いながら小説を書いてはいたがまだ何者でもなかった。論文を書くと「小説のようだ」と言われ、小説を書くと「論文のようだ」と言われたそうな。


マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ (2015年アメリカ)

 男性に精子を提供してもらってシングルマザーとして子育てをしたいと願う女性、マギーを主人公にした映画だが、私が印象に残っているのは彼女といっとき結婚生活を持つことになる男性ジョンについてである。
 彼は文化人類学者でありながら小説を書きたいと願い実行する。しかし、書き上がった小説を元妻に読ませたところ、「論文ぽい」と言われてしまうのだった。


 真面目に文章制作に挑む前は、論文大陸と小説大陸は北極と南極ぐらいかけはなれていて交錯することはないと思っていたけれど、うっかりすると、作者自体気がつかないうちに境界線を跨いでしまう曖昧なものなのかもしれない。

 いやファンタジーを書いてるかぎりそれはないだろうとか思いつつ、読者を「説得する」という意味では限りなく似ていやしないかと思うのだ。

 でも、なぜ、人間は創作の世界に自分を置くことによって癒しを得るのか。やってることは読書という同じ行為なのに。科学的な示唆だって、ときには物語以上に刺激的だったりするのに。

ストーリーは時に、論文以上に問題意識をあぶり出す

 「物語の力ってすごい」と思った日のことをよく覚えている。

 20代終盤。私は友達と部屋でご飯を食べながら、映画を流していた。適当に流し見してもストーリーを追えるエンターテイメント作品で、アメリカではない、とある国で制作されたものだった。

 私はある程度大人になっていたはずが、制作国に対して偏見に近い感情を持っていた。映画の内容もぼかしておくが、日本のコンプラ的に取り扱われなそうな人的ミスで大惨事が起こってさあ大変、というような内容だった。

 映画が進むにつれて、友達とのおしゃべりよりも、映画のストーリーの方が気になっていった。内容としてはあくまでエンターテインメントなので起承転結の波を超えて無事に終わったのだが、視聴後、私の制作国に対する心境は真逆になり、リスペクトを持つようになっていた。

 作品のクオリティに対する賛辞というより、映画の持っている、問題意識と正直さに感動した。この作品を作った人たちも、不完全な人間であり、不完全であることを隠そうとしない人たちなんだと思うと、心を開くことができた。

 フィクションには人の心を短時間で変えて開けるほどの説得力がある。これがそのまま私が物語の力を信じる根拠になっている。


ジャンルは曖昧なものである

 村上春樹は自分の文学を「大衆文学だとは思っていない。読者にある程度の咀嚼力を求めるから」と『村上さんのところ』で言っていた。しかし同時に文学におけるジャンルは曖昧なものだとも言っている。

 一つ言えるのは、物語は論文的なアプローチも実験的にできるかもしれないけど、論文は物語になれないということだ。

 私は、論文を書くような大先生から、脳内に張り巡らせた知的探究の揺らぎのような作品がときに紡ぎ出されるのを目の当たりにすると、稀な鳥の羽を拾ったような、羽衣の端切れをもらったような、ありがたーい気持ちになる。そのひとひらだけで空は飛べないのに、手のひらの上に無重力の風が吹く。



 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。


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