映画 『PERFECT DAYS』ネタバレあり5000字レビュー
土曜日に映画館で『 PERFECT DAYS 』を観てきた。
この映画について個人的に感じたことを冷めないうちに書き留めておきたい、そんなふうに思わされる映画だった。
しかしこの映画を他人である私たちが「しあわせ」と括るには少々違和感がある。いつでも中立派でいたい私はそんなふうに思います。
※以下ネタバレを含みます
ひとりの他人の生活に感じるリアル
役所広司(以下敬称略)演じる平山は都内の数カ所のトイレを掃除して回るトイレ清掃員。彼の簡素かつ美しくルーティン化された日々の連続が淡々とスクリーンに映し出される。
この映画が面白いのかつまらないのか…
それって本当に“ 観る人による ”。
決して安易には「いい映画だったので是非!!」とおすすめできる作品ではないかもしれないが、私個人的には観てよかったと思う。
派手な演出がある訳ではないけれど、逆に息遣いすら感じられる映画館に観に行くべき作品とも言える。いま迷っている方はとりあえず映画館で2時間、ひとりの他人の人生にじっくり心を重ね合わせる体験をしてみてほしい。
さて、作品タイトルを検索するとサジェストでも出てくる「つまらない」と感じられる側についてだが、これもまったくもって自然なことだと思う。わかる。
というのも、私は今アラフォーでちょうど “若い側”と“若くない側”の間にいるからだ。
物語が終わっても人生は続いていく
この映画を見てふと考えたことのひとつが、まず「人生においての大きなイベントは序盤で終わる」ということ。
これって当然義務教育で習う訳でもなく、みなそれぞれのタイミングでぼんやりと気づいていく。
劇中では淡々と「いつもの」日々を送る平山と対照的な存在として同僚の男タカシが登場するが、彼はまだ圧倒的に若者の側。生々しい煩悩に翻弄され、人生を主体的に生きている。彼の生活は、愚かでありながらもギラつき…というか、輝きを持っているようにも見える。
対する平山はただひっそりと、同じ世界で息づきながらもガラスを隔てて傍観しているかのような存在である。今ちょうど微妙な年代である私には、若さゆえ周りへの配慮にまで余裕のないタカシにも、それさえも愛おしく包み込むように微笑む平山にも、どちらの側にも自身を重ねて見ていた。
タカシは平山について「無口だから何考えてるかわかんない」と言う。彼が自分の人生の延長線上にも平山がいるのだと感じられるようになるにはまだ、もう少しかかるだろう。
タカシと同じように、自分の人生に照らし合わせるような経験や感情がまだない者にとってはこの映画には何もないように、退屈に感じられると思う。
なにか目に見えた教示や名言があるのでもなく、刺激的なアトラクションでもない。若い頃の私がこの映画を観たとして、最後まで集中して観られたかどうか自信はない。
新しい出会いや恋愛、結婚。就職や出産、新しい文化への反射的な迎合など、華やかで刺激的なことはすべて自分に関係することだった。しかし次第にそういったキラキラしたものはすべて下の世代のためのものに感じ、ゆっくりと遠ざかってゆく。
社会そのものが積極的に若い世代向けに作られているために、うっすらと放置されていくような感覚を我々は徐々に抱いてゆくのではないか。それを受け入れる人、耐えられない人、様々かと思うが、平山は圧倒的前者。
というより自らそういったものから退き、他人から見たら退屈な日常を営む一人の凡人。決してスポットの当たらない圧倒的な普通の人、それが平山なのである。
私たちはすこしずつ響き合う
選ばれた主人公などではなく、身近にいるような普通の人である平山。しかし逆をいえば、平山ぐらい控えめに慎ましやかに生きていたとて誰にも影響を与えないことは不可能だ。
平山の本棚から姪のニコが選んだ本は彼女の中で生きていくだろうし、同僚タカシの気になる女子であるアヤは平山の古いカセットテープを気に入った。タカシは借りた金を返すことは忘れても、平山に金を貸してもらったことはいつか思い出すかもしれない。
行きつけの店でいつも居合わせる誰かにも、鏡の脇に挟まれた紙片のやり取りで平山と◯×ゲームをした見知らぬ誰かの記憶にも、誰ともわからない平山の存在はきっと残り続ける。
一見なんの意味も成さないような断片的なつながりが、すこしずつ変化を与え合って喜びや悲しみが生まれる。
…これってまんま、役所広司出演のあのCMシリーズの映画版なのではないか。そんなことを思ったりもした。
みんな違ってみんな普通である
刺激的なものに溢れ、なにが刺激的なのかさえ曖昧になってしまった昨今、まるで人生は視覚的に美しくドラマティックな物語に溢れているように錯覚しがちだ。
しかし悲しいかな、たいていの人の生涯は平坦で凡庸である。特に何者かにはなれず、目立った功績を残さず、ありふれた毎日を送り、ベタな感情を抱き、そして時期が来ればその生を終える。
輝いているように見える人の生活にも光と影はあり、結局はみな同じように朝起き食事をし排泄をし、眠る。その繰り返しの中に生きている。
だれもが自分の物語の主人公ではあるが、この世界の主人公ではない。
映画といえば主人公の身にさまざまな展開が起こり、最後になんらかの結論が示されることが多い。しかし劇中の平山の日々には劇的な展開は何も起こらない。結論も出ない。
これってとてもリアルなことで、前章でも書いたように劇的な展開が向こうからやってくる機会が与えられるのは若い頃のみ。順番的に与える側に回り、あとは自分で動かさない限り同じような日々が死ぬまで続いてゆく。
平山の日々にも嬉しくなったり驚いたり、悲しくなったり…といったわずかな起伏は訪れるが、それもなにか爪痕を残す訳でもなく穏やかに完結し、さらりと目の前を通り過ぎ、また元に戻る。まるで風が木々を揺らすようなこと。
それって残酷ながら、ものすごくリアルなのだ。だからこそ、スクリーンに映し出される平山のちいさな暮らしに私たちは深く共感する。
平山はいつもお昼休憩にサンドイッチを買い、いつも同じ公園の同じベンチに腰掛ける。その隣ではたいてい同じ女性が昼食をとっており、ときおり目が合って会釈をしたりするものの特に会話が生まれることはない。
もし平山が彼女と同じぐらいの若者であれば自然となんらかの関係が生まれ、恋が芽生えたりと発展してゆくこともあるのだろうが…平山の物語では何も起こらない。
すでに若くない私たちの日常では、こういったことのほうが多いのではないだろうか。出来事にはすべて、なにか意味があるのだろうか。いや、もともと個人の人生に意味など用意されていないのだ。
そういった突き放すようなメッセージも滲ませた、大人のための映画である。
多くが語られない余白に感じること
映画が始まると、シャッシャッと外を履くほうきの音で誰かの1日が始まってゆく。
主人公とおぼしき男はその音で目を覚まし、外の天気を確認する。その後ドタドタと階段を降り、シャコシャコと歯磨きをし、支度をしたら外の自販機でガシャンとコーヒーを買い、仕事道具の積まれた車に乗り込みブルンとエンジンを掛ける。
慣れた手つきでサッサッとトイレ内のゴミを回収し素早くキュッキュッと便器や壁を磨く所作の美しさに、最初は「ほぉ〜」と見入ってしまうかもしれない。
しかし、ほとんど台詞もないままに2日目3日目…と進んでいく頃「おいおい!?」と多くの人が感じ始めるのではないだろうか。
もしかしてこのままなにもなく終わるのか。淡々とした映画なのだと覚悟して来た私も、このあたりで少し不安になった。
彼が1日を終え布団に入るとき、夢のようなシーンが差し込まれる。決まってモノクロの抽象的な映像で、快とも不快とも示されない曖昧なもの。それが過ぎればまた何事もなかったかのように次の朝が始まる。
彼は寡黙なので自分を語らない。彼の世界にも行きつけの呑み屋や馴染みと顔を合わせる銭湯はあるが、そこで彼の感情や過去についてなど、一切語られることはない。
物語の中盤で姪のニコが突如平山を訪ねてくる出来事があり、それに伴って平山の過去を想像させるような仕掛けはある。しかし明言はされない。
この余白こそが、この映画の基本スタンスだ。
彼の過去に何があったのだろうかと、観客はそれぞれの人生を参照し、思い思いに想像することが許されている。
ニコの母親が迎えに来た夜、ひとりになった部屋で人知れず流す彼の涙の意味を、私たちは同じように、たったひとりで噛み締める。
役所広司という奇跡の存在
この作品は平山の勤めるトイレにまつわるプロジェクト『THE TOKYO TOILET』ありきで始まった映画なのだという。
しかし役所広司無しでこの「地味な」映画が成立しただろうか。いや、しないだろう。
映画はもちろんのこと、たった数秒の短いCMでさえ彼の存在感は光る。缶コーヒーのCMで人生の味わいを感じさせ、ガソリンスタンドのCMでは制服姿で乗客に向かってただサービス内容を伝える姿に、つい見入ってしまう。
実際には全然その辺にいる人なんかではなくスタイルに恵まれ顔立ちも整った俳優なのだが、それを感じさせないような親しみ深い佇まい。
先ほど書いた涙のシーンが観客の胸を打つのは彼の芝居の自然さによるものだ。ただ泣くだけ、ひとこと言うだけ、立っているだけ、その中に過去の厚みや言葉にできない感情を表現してしまう。
平山という人間に命を吹き込む作業がなんなく遂げられているのは、やはり役所広司の人格、人生経験が伴って実現した奇跡だと思う。
その眼差し、発さない言葉に、私たちは共感し自らの人生をも重ねる。人という存在の繊細さ、そして生きている限り「幸せ」という幻を追い続けてしまうことの難しさにあらためて想いを馳せる。
ラストシーンで画面いっぱいに映し出されるなんとも言えない彼の表情に抑えようのない感情が溢れ出すのは、私たちもまた同じ日々を生きる同じ一人の人間だからだろう。
人生を豊かにする“友達”とは
この映画を観終えた瞬間に言いようのない感情が涙として流れ落ちたが、その理由のひとつに絶望にも似た予感があったことをここに白状する。
平山は毎日車に乗る時カセットテープを一本選んで掛ける。新しい曲はなく、どれも1960年代の洋楽ばかりだが、その中から気分によって音楽をセレクトし、慰めや励ましを受ける。
休みの日には決まった古書店に行き、気になった本を1冊選ぶ。店主のひとくちコメントを聞き流しながら代金を払い、毎晩寝る前に少しずつ読む。
昼食のときに座るベンチから眺める木に軽く挨拶をし、毎日1枚だけ写真を撮る。持ち帰れそうな幼芽をみつければ、黙認する管理者に目配せをし丁寧に持ち帰り育てる。
撮った写真はいつもの写真店に持ち込み現像に出す。撮りきったフィルムを差し出し新しいフィルムと現像された写真を受け取り、帰宅する。写真は1枚1枚選定し、気に入ったものだけラベリングされた缶にコレクションしてゆく。
…といった具合に、決して人と馴れ合わない静かな暮らしを送る平山の生活にも、彩りを与える存在は随所に散りばめられている。
これって、みんな“友達”と言ってもいいのではないだろうか。
歳を重ねるほどに感じるのが、なにもかも「人それぞれ」だということ。みな子どもの頃のようにシンプルな世界には生きてはおらず、背負っているものや過去などバックグラウンドが同じ人間などいない。私達は根本的に誰とも分かり合えない。
若い頃のように濃密に共有し合う関わりではなく、点で接するようなコントロールされた落ち着きのある関わり。その心地よさにいつしか気づく時が来る。
植物は何も言わずとも確かに生きているし、本や音楽に触れることはだれかの心に触れる営みだ。店とは金銭をやり取りする関係ではあるが、支え支えられる金銭以上の相互関係にある。
前置きが大変長くなってしまったが…!
この章のはじめに示した私の「絶望」とは、歳を重ねてもなお嬉しかったり悲しかったりといった感情の波立ちからは逃れることができず、忘れたい過去は薄れつつもシミのようにいつまでも消えることはない、それが人間なのだ、と明かされたように感じたことだ。
平山の仕事ぶりや余暇の過ごし方にまで及ぶ小気味よくシステマティックな動きは、余計な感情を挟まないため、思念を振り払う動作にも思えた。
一時的に虚しさから目を逸らしてくれる享楽に多くの人が溺れやすいのも、長い人生の性質を思えば自然なことだ。人の生さえもただの景色として俯瞰して捉えれば、そこには良いも悪いもない。ただただ個人的な尺度においての完全不完全があるだけ。
だれにでも、他者から見たら共感に値しないような些細な出来事にどうしようもなく胸が締め付けられる夜がある。誰にも理解されない微妙な喜びがある。怒りに溢れてしまう瞬間がある。
そんなとき私たちは慰めを、または共感を、ただ暖かに受け入れてくれる存在を必要とする。
いま同居する家族がいる者も、友達に囲まれた賑やかな暮らしを送っている者も、長い人生最後の時まで安定した状態が続くとは限らない。
「人は一人で生まれ、一人で死んでゆく」
そう、日ごろ目を背けたい事実だが、私たちが歩くこの道はもともと孤独とともにある道なのである。
幸せでもあり孤独でもある生き方
だれにも深く依存することなく日々を送る平山は安定した独自のルーティンを持ち、己の感情のコントロールも自己完結できる“孤独上手”だ。しかしそんな平山にさえ、どうしようもない瞬間はたびたび訪れるのだ。
きっと、そんな時の支えは多ければ多いほどいい。少しずつもたれかかって、重心の安定を図っていける。そういったバランスを取る繰り返しが、実は人生全体における地味かつ奥深いメインテーマなのではないだろうか。私たちはこの映画でそのヒントを見出し、気づかぬうちに励まされている。
冒頭で触れた「しあわせ」について彼の生き方はどうなのかと結論づけるならば「幸せでもあり孤独でもある」そんなところではないか。
その上で、彼は着実に日々を送っている。その迷いのない姿に共感する私たちも同様に、幸せかつ孤独だ。だれだってそうなのだ。
この映画には、ほのかな絶望とともに喜びや友といった希望も日常の隅々に持つことができるのだと示されていることも、忘れないでいたい。
映画は面白いか面白くないか、決してその2種類ではない。それは人の生きる道にも似ている。
ここまで読んでしまった『PERFECT DAYS』未視聴のあなたは、自分なら彼の生活からなにを読み取るか、ぜひ試してみてほしい。
すでに映画を観たあなたはもう、私の友の一人だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?