見出し画像

短編:練習05

穏やかな雨が降っていた。霧のようにやわらかく寄り集まってようやく水滴になるほどのかすかな雨が伊佐木の傘の上へも降り注ぐ。駅のホームで電車を待つ乗客は皆屋根のある場所に集まっていて覆いのない場所は閑散としていた。空を覆う雲は分厚いが意外なほどに明るい。伊佐木は肌寒さも感じなかった。
そのうちに線路の上へ鯨が滑り込む。一時呼吸が浅くなるが、背筋を正し努めて冷静さを取り戻そうとする。傘の持ち手をしっかりと握り、頷くように瞬きを繰り返す。
やがて肉の壁のような巨体の下に線路が、さらにその下に敷かれた砂利が目に入ってくる。線路の隙間から生える雑草の太い茎。青い匂いが漂ってきそうだった。やがて乱れていた心音が徐々に落ち着いてくる。
線路の上に鯨はいない。
伊佐木がそう確信した途端、何もかも引き摺り霧散させるがごとく銀の車体が飛び込んできた。皮膚が震えるほどの轟音、駅へ滑り込み減速していようとも感じる人間を積んだ車体の重み。伊佐木は何事もなかったかのような顔で他の乗客共々電車へと乗り込む。

サポートいただけると助かります。やる気や、今度買う駄菓子に繋がります。