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指切りと天秤

 夕暮れ時の路地裏は、表通りよりも一足先に宵闇の中へ沈みこもうとしていた。頭上に聳えるコンクリートの壁は、橙色の光に染められていたが、弦の立っている道の上は、すでに青みがかった影が淀んでいた。
 どこをどう歩いてここまで来たのか、記憶が定かではない。珍しく定時に仕事を切り上げることができ、古びたオフィスビルの重い扉を押し開けたところまでは憶えているが、果たしてその後、どのような道を歩いたのか。
 連日の残業と、弦の遅い帰りを待つ妻の冷ややかな視線とで、ここひと月で、心身ともにすっかり疲弊していた。仕事場を出た後も、頭が逆上せたようになっていた。
 こんな薄汚い路地にふらふらと迷い込んでしまったのも、きっとそのせいに違いない。
 弦は我に返って、くるりと踵を返そうとした。
「……何だ、あれ?」
 半分表通りに向かい掛かった弦の視界の端に、何やら煌々と輝くものがあった。
 捻った体をもう一度路地の奥に向けると、突き当りのところに行燈が灯っていて、その脇に、古びた平屋がひっそりと佇んでいた。
 風雨の染みが目立つ板壁や、苔生した瓦屋根、引き戸の両脇に立つ角の摩耗した石柱を見ても、その平屋は相当の築年数だとわかる。しかし、しっかり手入れの行き届いた生垣や、綺麗に張り直されている障子からは、神妙な雰囲気を感じるのであった。
 コンクリートと室外機だけで彩られた、灰色の世界の中で、平屋の軒下に灯る行灯は、蛍火のように赤々と光をはなっていたのである。
 どうしてついさっきまで気づかなかったのか。弦は怪訝に首を捻りつつ、誘われるかのように行燈の光に惹きつけられていった。
「いらっしゃいませ」
 引き戸を開けた弦を出迎えたのは、スーツに身を包んだ初老の男であった。白髪混じりではあるが、しっかりと整えられた髪も相まって、格式高い店に入ってしまったのだと思った。弦は自分がここにいるのが、急に場違いに思われてきて、曖昧な笑みと共に立ち去ろうとした。
 しかし、男がすかさず言葉を継いだので、弦は結局その場に根を張ったように動けなくなってしまった。
「糸の館へようこそ。ここは、当館の主であられるアヤ様とアミ様による魔術ショーをご覧いただくことのできる、唯一の場所でございます。いやはや、お客様は幸運でございます。今や世界を股にかけてご活躍なさる、我らが主様たちの魔術をその目で、直にご覧になることができるのですから……。さあ、会場の方へご案内致しましょう」
 そう言って、男は靴を脱ぐよう弦に合図し、店の奥へと先導した。
 長い、板張りの廊下を突き当たったところで男は足を止めた。二人の目の前には、赤地に見事な白薔薇が描かれた襖があった。
 男は襖にぴたりと頬を寄せると、静かな、しかしその中にはっきりと聞こえるような声で言った。
「お客様を一名、お連れ致しました」
「どうぞ、お入りになっていただいて」
 冷ややかな声が返ってくる。それに続いて、
「今日初めてのお客様ね」
 とはしゃぐような声も聞こえてきた。
 男は弦に恭しく頭を下げ、襖に手を掛けた。
「では、お客様。ごゆっくり、お寛ぎくださいませ」
 その声に続いて、襖が静かに開かれた。
 畳の間に踏み込むと、襖がカタリと閉まったのを背に聞いた。
「どうぞ、奥へお進みなってくださいまし」
 奥ゆかしい声に誘われ、弦は御簾を潜った。
「ようこそ、お越しくださいました」
 部屋の奥で待っていたのは、二人の少女だった。容姿は瓜二つだが、髪型がアシンメトリーになっていて、それぞれが立っている側の髪を肩口まで伸ばしていた。
 向かって右側の少女が頭を下げる。
「見ての通り、私たちは双子でございます。私は姉のアヤ」
 左側の少女がにこりと笑みを浮かべて、右手を上げる。
「はいはい! 妹のアミ! ようこそ、お客様! ささ、座って!」
「アミ、はしたないですよ。気持ちはわかりますが、はしゃぐのはおやめなさい」
「お姉様はお堅いのね。ほらほら、お客様! 早く早く!」
 アミの勢いに押されるままに、弦は木製の椅子に腰を下ろした。
 弦と双子の間には、畳の敷き詰められたこの部屋には不相応な黒いテーブルが置かれていた。
 双子の異様な雰囲気に圧倒され、弦はテーブルに映る彼女らの虚像に目を落とした。
「……」
「さて、お客様。魔術、といっても大仰な仕掛けを使ったものではございません。同胞には、そういったやり口の魔術を好む者も多くおりますが、そうした趣向の魔術は私たちの好みではございませんの。その辺りはご了承いただけますか?」
「は、はあ……そりゃあ」
 わけもわからないまま返事をすると、双子はそれぞれ違った笑みを浮かべた。
「それでは、私たちの魔術を披露いたしますわね。両手をテーブルの上に置いてくださる?」
 弦はおずおずと、アヤの指示に従う。
 艶のあるテーブルの天板はゾッとするほど冷たく、どこか暗い倉庫から持ってきたばかりのようだった。その手のそれぞれに、双子が触れる。か細い指先がするり、と掌の下に滑り込み、まるで割れ物を扱うような慎重さで持ち上げた。
 その所作に弦は思わず息を漏らす。
「浮世は果てなき欲の世界。されども全ては得られない。二兎追う者は全てを失い、一兎を得ても渇きに喘ぐ」
「……?」
 アヤが突然、呪文のようなものを唱え始めた。弦が怪訝に片眉を上げると、次いで隣のアミの唇も妖しげに動く。
「されど我らは約束しましょう。いずれか選べば与えましょう。いずれか選べば頂きましょう。交わす契りは赤い糸。掛けて、結んで、引き給え」
 そう唱えながら、二人は弦の両方の小指に、赤い糸を結んでいく。輪っかを作って、その中に小指を通すと、きゅっときつく結んでしまった。
「おい……」
 不安を感じて、少し苛立たしげに小指を立てて見せると、アヤが自分の小指を見せて言った。
「安心してください、旦那様。私たちの小指にも、ほうら、きちんと結んでありますから。私たちは運命共同体。いずれか選べば、いずれかが得られますもの」
 アヤの言うことの半分も理解できないまま、弦は憮然と両手をまたテーブルの上に置いた。
 アミが一呼吸置いて、テーブルの上に身を乗り出した。
「さて! じゃあ、始めようか。旦那様? 私たちどちらかを選んでくださる?」
「選ぶ?」
「そう。私たち二人のうちで、どちらかを選ぶの」
「選ぶって……どうやって……」
 目の前にいる双子は、口調と髪型を除けばほとんど同じように見える。町中で出会ったとして、どちらか見分けろと言われたら絶対に無理だ。
 そんな二人をどんな基準で選べと言うのか。そんな弦の疑問を察したのか、アヤが自分の小指に結ばれた糸を愛おしげに撫でながら言った。
「そうですね……例えば、一生添い遂げるなら、どちらを選びます?」
「添い遂げる、だって?」
 突拍子もないことを言い出すアヤに、弦はさすがに呆れてしまう。生憎、一生添い遂げる相手はすでに弦にはいる。
 そう思って、嘲りに鼻を鳴らしそうになって、弦は胸の奥にささくれのようなものがあることに気づく。そして、脳裡に今朝自分を背中で見送る妻の、冷たい視線であった。
「……」
「さあ、どっちを選ぶの?」
 アミが楽しそうに弦の選択を急かした。彼女の口調や仕草は、近頃入社してきたばかりの後輩の姿を彷彿とさせた。ここひと月ほど、自分が教育係として一緒に仕事をしていた女子社員だ。小柄で、控えめで、しかし仕事熱心な――いわゆる〝いい子〟だった。
 教育係として相談を受けるうちに、あるとき気の迷いが生じた。それから何度か逢瀬を重ねている。正直に言えば、彼女と関係を持つたびに、歩む人生を誤ったのではないかと思えてくる。
 選ぶべきは彼女だったのではないか。待つべきだったのではないか。周りの圧に押されて、結婚を早まったことを本気で後悔する自分がいた。
 対して、アヤの上品な雰囲気からは、妻との堅実で退屈な時間が思い出された。死ぬまでこんな時間が延々と繰り返されるのだと思うと、ぞっとしてしまうのだ。
「……君だ」
 弦はどこか後ろめたさを感じながら、アミと繋がった左手を掲げた。彼女はにっこりと笑みを浮かべて、やったーと声を上げた。立ち上がった拍子に椅子が倒れた。しかし、アミはそれに気づいていないのか、姉の方を見て勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「仕方がありませんね。今回は貴女の勝ちと致しましょう。それでは、旦那様。私はここでお暇致します。貴方の、小指と一緒に――」
 そう言い残すと、アヤの体がどろどろと崩れ始めた。最初は何かの錯覚かと思ったのだが、実際に彼女の体が熱された蝋のように溶けている。
「ひっ――」
 弦が悲鳴を上げて立ち上がった。左手はアミの小指と繋がっているために、テーブルの上でぴんと張り詰めた。不可解なのはアヤの小指と繋がれた右手に、何の引っ掛かりもないことだった。
 恐る恐る右手に目をやって、弦は息を呑んだ。自分の右手もアヤの体と同じように、ドロドロに溶けているのだ。
「う、わあ、あああああああああああ!」
 やっとのことで叫ぶと、左手の小指からも糸が外れ、弦はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
 畳と言えど、何の抵抗もなく頭をぶつければそれなりの衝撃になったのだろう。あるいは、脳を激しく揺さぶられたからだろうか。
 椅子ごとひっくり返ったまま、弦は白目を剥いて気を失ってしまったのであった。
 そんな彼を覗き込む二つの影は、声を掛けるでもなく、静かに見下ろしているだけである。

 *   *   *

 無機質な電子音の連続に、弦は暗い意識の淵から浮上した。見慣れた寝室の天井を見上げ、さっきまで見ていたであろう夢の光景を思い出す。
 やけに現実味を帯びた夢だった、と身震いする。そして、アレが夢であったことに安堵した。隣ではまだ、妻が呑気な寝息を立てている。彼女の寝ている姿が一番魅力的だと思う。割りと綺麗めな顔立ちをしているのだから、起きなければ満点だと内心独り言ちながら、弦はベッドから抜け出した。悪夢にうなされたせいか、喉が渇いて仕方がなかった。
 キッチンまで来ると、適当なコップを手に取って水を注ぐ。そして、それを一気に呷ったとき、右手の小指の根元に何かをきつく結んだような痕が、くっきりと赤くなって残っていることに気づいた。
 選べば与えましょう――選べば頂きましょう――。
 何かの気配に弦は振り返る。しかし、そこには開けっ放しにしていたドアが、風もないのに微かに揺れて、か細く鳴いているだけであった。

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