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みちづれ

 早朝の山道は濃い霧に満ちていた。山の麓で目指すべき頂を見上げたときは、まだ藍色だった空も、今は日の光によって乳白色に変わりつつあった。とはいっても、生い茂る木々の肌や一寸先すら見通せない霧はまだ青みがかったままだ。
 喜一郎は不意に襲ってきた、後ろを振り返りたい衝動を抑え、シャベルを杖代わりにして、ぬかるんだ山道を下っていった。今朝方着替えたカーキのズボンは、朝露ですっかり膝まで濡れてしまっていた。
 腕時計をちらりと見遣ると、五時を過ぎようとしていた。麓には車を停めている。不審な車だと通報される前に早く移動させなければならない。喜一郎は漏れる吐息に声を乗せ、気合を入れた。
 慣れない道を歩いたせいか、太腿の裏が鈍い痛みを持ち始めていた。背中も筋を違えたのだろう。伸びをしようと背筋を伸ばすと、鋭い痛みが走るのだった。
 今年で四十七になる。職場では「まだまだこれからだな」と上司に揶揄いまじりに言われるが、それでも少し長い距離を歩けば、三日後に筋肉痛が襲ってくる始末である。
 今もまた、体の声なき悲鳴に、若くはないのだと痛感するのだった。
 泥濘に沈んだシャベルを持ち上げるのも辛くなってきた。ここいらで少し休息をしようか、そう逡巡したときであった。
「おじさんも迷子かい?」
 やけに馴れ馴れしい声に足を止める。
「最近じゃ迷子も珍しくなったというのに」
 声のした足元に目を向ける。小学生低学年ほどの男の子が立っていた。少年は口元に笑みを貼り付けて、喜一郎を見上げた。吸い込まれそうなほど澄んだ目をしていた。
「怪訝な顔をするんだね。無理もないか。こんな場所に、それにこんな時間に、子供が一人。訝るのも当然か」
「名前は何て言うんだい? お母さんか、お父さんは?」
「心配には及びませんよ」
 大人びた声が返ってくる。
「両親には行先も告げているので。日が上る頃には帰るという約束なのです」
 普通、逆なんじゃないのか? 喜一郎は眉根を寄せて少年を見つめた。日が沈むまでには帰っておいで、と母親が口酸っぱくして言っていたのを思い出す。そう言えば、妻の清江も子供たちに同じようなことを言っていたな、とついでのように思い出す。
「恐らく僕たちの行先は同じでしょう? 見たところ、下山途中のようだ」
「あ、ああ……その通りだよ」
「お互い、一人では何かと退屈ではないですか? 低山といえど、この泥濘の中を歩くのはなかなかに骨が折れる。共に歩く仲間がいれば、気も紛れるというもの。嫌でなければ、麓までご一緒しても?」
「とんでもない。もちろん、一緒に行こう」
 この時間帯に子供に出会うことは奇妙なことこの上ないが、少年のいうこともごもっともである。正直言えば、くたびれて心も折れそうになっていたところだ。
「それでは、行きましょうか」
 少年が先を行く。喜一郎はその小さくも頼もしい背中を追った。
「どうしてまた、こんな山なんかにおいでなさったのです? ここには大したものもないでしょうに」
 同じことを質問したかったが、馴れ馴れしいわりに少年は口を割りそうな雰囲気ではなかった。喜一郎は荒い呼吸を整えてから、途切れ途切れに答えた。
「大切なものを隠しにきたんだよ」
「大切なもの?」
 朝露に濡れる背の高い草を踏み越えようとして、しばし躊躇ってから、喜一郎は結局、それを横倒しにして泥濘を踏んだ。新しい雫がズボンに染み、ひんやりと脛を冷やす。
「……ああ。大切なものだ」
「そんなことを簡単にしゃべってしまっても?」
「しゃべったところで見つかりゃしないだろうよ。これだけ鬱蒼としてるんだ。それに、埋めてきたからな」
「ほう、埋めてきた。宝石か何か……宝箱でしょうか?」
「いやいや。そんなたいそうなもんじゃないさ。人によっちゃ、死ぬまで傍に置いとくもんだが、そうだな……俺は耐えられなかったね」
「……耐えられなかった? それは、その高価さに? それとも美しさに?」
「ははははは! だったらよかったんだがなあ……。維持するにも金が掛かるんだ。俺には過ぎた宝物だったらしい。だから、埋めてきたんだ」
「なるほど……」
 少年は考え込むように黙ってしまった。喜一郎は暴れ回る心臓を押さえつけるように、胸に手をやった。胸骨の内側から、心臓が掌を押した。
 こくり、と固唾を呑むと、少年が言った。
「放っておくと、醜く、歪んでいく、ということですか?」
「醜く……まあ、そうだな。肥って、たるんで……腐っていく、とも言えるか」
「腐る? 食べ物ですか?」
「いやいや……食い物じゃないさ」
「おかしいな。話を聞く限り、非常に高価な食べ物かと踏んでいたのですが」
「食い物なら腐らねえうちに喰っちまえばいい話だろ」
「ああ、そうか……これは失敬。僕は大きな勘違いをしてしまいました」
 少年は自嘲気味に言って、ぴたりと足を止める。ゆっくり振り返る少年はやはり、口元に笑みを湛えていた。しかし、目元は見えないので、本当に笑っているのかは判然としない。
 その不気味な立ち姿に、喜一郎は思わず後退った。子供とは思えない不気味さを背に、少年が一歩こちらに近づいてくる。僅かに遅れて、喜一郎はまた一歩、後退る。
「失敬、失敬。うっかり貴方を同族か何かと勘違いしてしまいました。というのも、貴方から何とも甘美な、血の臭いが漂ってくるものですから……」
「――っ!」
 少年の、笑みに歪んだ口元から、人のそれとは違う、大きな犬歯が覗いた。次いで開いたその咢の奥には、深い深い闇が淀んでいた。
 喜一郎の喉がか細く鳴いた。悲鳴にも鳴らない吐息を小刻みに繰り返し、固くなった体を無理やりに動かし、踵を返す。
「あ……ああ……清江……何で、お前……」
 霧の中に、浮かび上がるようにして清江が立っていた。昨日、口論したときのままの、寝間着姿で笑っていた。しかし、その笑みもすぐに消え、清江とは似ても似つかぬ、恐ろしい形相に変貌する。いくつも牙が並んだ口が開き、喜一郎の身の丈を遥かに超える大きさに広がった。
 ぺたり、と尻餅をついた彼の背中で、静かに声が聞こえた。
「いただきます」
 迫る咢が喜一郎を呑み込み、音もなく閉じた。
 彼を喰らったのは、怨念か、はたまた鬼か。

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