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火乃絵のロクジュウゴ航海日誌〈scrap log〉第三百六十八-七十二日 2022.1.1-5

しばらく更新できていませんでしたが、手書きで毎日書いているうちの、今年の元日から五日ぶんを途中まで掲載します。いずれすべて掲載することになるかもしれませんが、とりあえず雰囲気だけでも!

文庫規格で打ち込んでいるので、以下はそのままのコピペです。お好きなほうでお読みください。(なお、体裁はpdfのほうが正しいものとなります。)

第三百六十八日(霜月廿九日)2022.1.1

グレゴリオ暦の年が明けた、霜月もきょうで焉(お)わる。―

明け方、旧広告塔の屋上で辻と初日の出を拝んだあと、天祖神社のアマテラスさんにあいさつに行った、

押入で目を覚まし、ホロライブ6期生と、5期生の桃鈴ねねさんのお正月衣装のお披露目配信をみて、すき屋でまぐろ丼とお新香とお味噌汁セットを頼む、

再度押入、フッサールの『危機』を読んでいるうちに夢を見た(―夢日記に記す、)。目が覚めるとDELTAYAΔ.さんがひさ〴〵に歌枠をやっていたので聴く、

                 ⁂

声なのだ、毎日のように聴いているとわからなくなるが、久々に耳にしたとき、その持ち主にまつわるあらゆる感情がいちどきに《空間温度》する。

そして、声は…

                絶対

                                  だ、

                 ⁂

……買い出しの後、勝島運河でボーっとして、還って来てこれを綴っている、じつはこの日誌、2021.11.23の第三百廿九日までしか書いていない、最初の一ヶ月を過ぎてからしだいに追いつかなくなり、どの時点だかで30日ビハインドがあたりまえとなった、―節目にあやかって、きょうからはコンタンポラリィにもどしてやっていくことゝしよう、

ほとんど主にといっていゝが、いちどやるといったからにはやりきりたい。11/24-
12/31のぶんも忘れないうちに書き切るつもりだ、〝Let's go Crazy!〟とこれだけいって来たのだから、キチガイになって書いてゆくしかない、

これが何になるんだか分からないが、もはや火乃絵にそんなことを考える権利はない、
(活動のきろくとするにはあまりに情報に欠けるし、主観に尽きる、ふつう日誌に書
くよなことが書かれてなく、どうでもいゝようなことばかりつゞられてある、―これは何だ? 火乃絵だってわからない!)

とにかくやり続けること、それだけだ。―

                ⁂

だんだん飽きてくる、退屈だ、もう外(オモテ)に出すこともない、

だから、だからこそ、

逸脱が始まる。

つまんない、しんどい、めんどい、

巫山戯ちゃお ! 

Prrrrrrr! ―

       *        *        *        

午前2じ14ぷん、きょう書くべきことは書いたとおもうが、ひざ〴〵のオン。タイムで航海日誌に訪れてみて、〝まだ書きたい〟という欲求がのこっている、日誌は今2021.11.23の~65th 10th anniversary~ヨヨコウ9(+1)代ブンジツ大パーティーの前夜祭をまえに停まっているが、明日が来るかなんてわからない(これはほんとうのことだ、)記述がないあいだのことに少し手を出してみようか、

たった一日だけの活動、それだのに魔乃アロエさんのことはずいぶん前から知っているようにおもう、ジカンのもんだいではないのだ、―いきなり脱線するが、これを書きながらDELTAYAΔ.さんの今日の歌枠をきゝなおしているからだ、

〝自分に素直になればいい〟―その時、書きたいことを書く、

そんな一日をおくりたい、この日誌の読者は、えん〳〵とつゞくこの記録をおそらくは半ば鬱鬱としたキモチで読み進めていることだろう、けれど火乃絵には今日という日しかない、いやもう太陽が沈んでからというもの、こんな月がないよな夜はどこまでつゞくかもわからない。一日なんてものはぶっ飛んじまった、

                ⁑

大パをもって、火乃絵はいちねんめを燃え切ったとおもっていた、けれど「ロスタイム」のあとに「ライフ・オブ・パブロ」があったように、自己評価のおくれてやって来るだろうもうひとつの祭があった、

すれっからしのとこから半ば不本意なかたちでもういちど着火したあとには長い闇黒を辿ることになる、―しばしばの迷走もしよう。

けれどその迷走も、こゝに来る迄の火乃絵のぜんぶなのだから、今日もあえて遂行する。―

祭のあと、一週かん内臓をこわしていた。職質もうけた、なにかしらCrazy! を索めていた、実家でのせいかつではじめに手に取ったのはマルキ・ド・サドの『閨房の哲学』だった、この本はひさ〴〵に出遇ったボロボロにしてやりたいしょもつとなったが、きおくのかぎりさいきんでそんなふうにおもったのは、カール・マルクスの『経=哲草稿』(岩波文庫)とマキァヴェッリの『君主論』(同前。)とあと、もしかしたらメルロ=ポンティの『シーニュ 精選』(ちくま学芸文庫)くらいのものだ、

  ドルマンセ (ウージェニーに接吻し、なでまわしながら)べっぴんさん、これまでしてきたことを話すなんてつまらないことさ。それより今、私がしたいと思っていることを一から十まで、君に体験してもらうほうがどれだけいいことか。

これを火乃絵のロクジュウゴ航海日誌のエピグラフとしようか、

               ⁑

なんとかサンオウに還って来た、いつもの押入―これは閨房のなかの小部屋、独房のようなものか。サイゼリヤ(喫茶店としてつかっている)ではなく、この室にとぢ籠りたい、眠るたび釈迢空の『死者の書』の男のように岩室のうちで目醒めるのだ、独房のような、墓のような、密室のような、そんな函が欲求されていた、

だから(と、いまならいえるが)手元にあった鶴見俊輔の『埴谷雄高』をイッキに読み下し(ヨミクダシ)ていた、とくに冒頭の一篇「虚無主義の形成」は一九五九年の空気がとぢ込められているようで、転向ということについて「なるほどこれは2013年のことだな」と合点がいった、火乃絵は外で、68thのあいつらは内にあって―と、こゝであえて68thというのは、先日サンオウに尋ねてきた高橋脩にこのことを伝えてやりたいとおもっているからであるが、文実における転向をいちばんに味わったのは66th、とりわけ井原・貝沼・さいとうの三人だ。

とはいえいかなる体験も、それをわがものとしないかぎり、己のものには若かない、自らの裡に転向があったというのがなによりの発見である。

いまふと転向に〝ブレ〟とルビを振りたくなった(いまだにこの語からは中村先生の声音がする)、しかしそれだけではいゝきれない何かだ。
〝―薔薇、屈辱、自同律―/つづめて云えば俺はこれだけ。〟
この二行は、あの感じが分かるものにはよく分かる。イミではなくて、こう書くしかないところへのあの追い詰められ方、青春のにおいだ。

「ココロRΔIN_STOP;)」を聴きながら、井原と行った橋本を思い出している、おれとおまえはもういちどはなしがしたい。―

                ⁑

批評言語のモードに這入ったので、ちょっとまえに買ってあった安藤礼二の『光の曼荼羅―日本文学論』を読み始めた、いつかの白石火乃絵【STAFF Note】【サンオウ通信】で『死霊』を声に出しつゝ、ふと『死者の書』と『ドグラ・マグラ』を交互によみ始めたのだが、数日後、新宿の紀伊國屋書店で手にとった鶴見の本で、『死霊』と『死者の書』と『ドグラマグラ』がいっしょに語られているのをみて奇異なかんじがした。さらに後日、立川のジュンク堂に立ち寄ったとき、折口学者とおもっていた安藤のやけに分厚い文庫本があるなとおもい、目次をみると、埴谷と探偵小説と折口をつないでいるのでおどろいた、祭のあとのひきこもり部屋が、出発の前日に用意されていたのだ、それは事件に出て来るのではない〈殺人事件〉という一つの密室であった。

『光の曼荼羅』には南方熊楠も出てくるが、火乃絵にだいじなのは空海で、折口のもうひとつの「死者の書」の主人公の片方もまた空海なのだ。2021年にムイシキにやっていた読書がたしかにマンダラを描きはじめている? いぶかしくおもって2016年に青山ブックセンターで入手した中沢新一の『雪片曲線論』をしたの押入の奥からひっぱり出していた。―

空海・熊楠、現代音楽家のジョン・ケージの茸から始まり、雪の結晶とインヴェーダー・ゲームが出て来るのは知っていた。中沢新一、この名前をきいたのは2013年の訊問においてだった、もしかしたらじんし(﹅﹅﹅)先生から担任の後藤先生がきいてくれたのかもしれない(こゝらへんのはなしは転向体験も交えていづれゆっくりとしよう、)ひのえはウッドストックの方向だったから、文化人類学をすゝめたのだろう、たぶん実家の書斎のひきだしにまだこの名前の書かれた紙片があるとおもう、

この人が好きでなかった、疑わしかった。オウム教団の聖典とも目される『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』、火乃絵の額にある〝1995〟の刻印にはこの書物も含まれている、なにより橙いろの『雪片曲線論』の文庫本は、あの日たしかに語り掛けてきた。いくら胡散臭かろうが、あの感じ(﹅﹅﹅﹅)を否定することは例の規定に反する、ようやくを向かい合ったが、そこにエピクロスとスピノザとマルクスの名が並んでいるのにはやはりおどろいた、―こゝにもつながるのか、おもえばソ連崩壊以後、赤い装丁の本は日本では少ないから(外国のことはよくわからない、)1995チルドレンの火乃絵の眼にはどこかいよう(﹅﹅﹅)に映ったのだろう、昨今の『資本論』再読のムードはまだなかった2016年(本屋通いの習慣によってそこらへんの肌感覚はつちかわれている、)この橙色がマルクスとの出遇いの兆しだったのかもしれない。火乃絵は2020年のエピクロスと2021年の空海をひとつにしたかったから、非常に注意ぶかく読んだ。―結論。構造主義やポスト・モダンといゝならわせる人人の本は、思想としての責任を取ることのできない文章で書かれてある。それは知的操作のけっかを示すのみであり、にもかゝわらず、哲学と縁を切った現代科学でさえなく、―火乃絵が中沢新一の文章からかんじたのは、ひとりのオウム青年の灰いろのキョムであった。

かれらと火乃絵たちの唯一といっていゝちがいは、ブンジツと出遇っているか否かだ、―

いちぶでは「構造主義の父」ともよばれるアルチュセールはそうではない、徹頭徹尾、全責任がじぶんに還ってくる文章で書いている。中沢新一にないものをひとことでいえば自己批判ということに尽きる。

2018―2019の火乃絵は、たぶん中沢新一の灰いろが分かる。けれど火乃絵には2020年がある、

そこで自己批判ということをアルチュセールから、そして埴谷雄高から(あえて吉本さんとはいわない、)教わった火乃絵は、灰いろからも明るいカオスのえなじいをひき出せるミトコンドリアだ、

 ―気象、のっぺらぽう、キノコ―
つづめて云えば……これだけ。

そして、ここから先は探偵の出番だ、

  と云うのは、四百年の昔から纏綿(てんめん)としていて、臼杵(うすき)耶蘇会神学校(ジエスイツトセミナリオ)以来の神聖家族と云われる降(ふり)矢(や)木(ぎ)の館に、突如真黒い風みたいな毒殺者の彷徨が始まったからであった。(…)恰度天然の変色が、荒れ寂れた斑(まだら)を作りながら石面を蝕(むしば)んで行くように、何時とはなく、この館を包み始めた狭(さ)霧(ぎり)のようなものがあった。(…)全く、人も建物も腐朽し切っていて、それが大きな癌のような形で覗かれたのかも知れない。それであるからして、そういった史学上珍重すべき家系を、遺伝学の見地から見たとすれば、或は奇妙な形をした茸(きのこ)のように見えもするだろうし、たま、故人降矢木算(さん)哲(てつ)博士の神秘的な性格から推して、現在の異様な家族関係を考えると、今度は不気味な廃寺のようにも思われて来るのだった。

―パラグラフの終わりまで写したいが、こゝまでゝすでに曼荼羅は素描され尽くされている、中井英夫でもなく、夢野久作でさえもなく、埴谷と折口をつなぐのは小栗虫太郎なのだ。熊楠が「変態心理(サイキアトリ)の自分研究ははなはだ危険なるものにて、この上続くればキ印(じるし)になりきること受け合いという場合に立ち至り」といって那智を去ったようにはかれらは山を降りてこなかった。小栗が夢野と、とりわけ乱歩を尊敬していたように、この二人も〝Let's go Crazy!〟の星の一つにかぞえよう。

ところで埴谷さんはこういってもフハハハハと笑ってくれるともう、
『死霊』は梶井基次郎の「闇の絵巻」と「Kの昇天」の長い注釈である
と。おなじように、あらゆる探偵小説もまた、萩原朔太郎のいくつかの詩の―。

その端緒を乱歩さんは谷崎の「途上」というが、朔太郎の「殺人事件」のまちがいだ、『月に吠える』には、およそ探偵小説にでてくるすべての謎(ミステリイ)が隠されてある!
―乱歩・『ドグラマグラ』・『黒死館殺人事件』の神秘でさえも。
だが、詩人の探偵はもっと曲者(くせもの)だ、

夢に見る空家の庭の秘密
              萩原朔太郎


その空家の庭に生えこむものは松の木の類
びわの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの
 類
さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝
またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂す
 るところの植物
およそ しだ わたび ぜんまい もうせんごけの
  類
地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる
それら青いものの生命(いのち)
それら青いもののさかんな生活
その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い
ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜
 も昼もさよさよと悲しくひくくながれる水の音
またじめじめとした垣根のあたり
なめくぢ へび かへる とかげ類のぬたぬたした
 気味わるいすがたをみる。
さうしてこの幽邃な世界のうへに
夜(よる)は青じろい月の光がてらしてゐる
月の光は前裁の植込からしつとりとながれこむ。
あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに
 心をかたむけ
わたしの心は垣根にもたれて横笛を吹きすさぶ
ああ このいろいろのもののかくされた秘密の生活
かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあ
 ふところの世界
月光の中にうかびいでる羊歯(しだ) わらび 松の
 木の枝
なめくぢ へび とかげ類の不気味な生活
ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家
 の庭の秘密と
いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつ
 かしさよ。

火乃絵に『靑猫』をおしえてくれた堀辰雄はこういうことがよく分かる耳の人だ、


第三百六十九日(霜月卅日)2022.1.2

明け方に寝て、起きると日が暮れていた。

長い夢を見ていた、
羽生からこっちへ還れなくなっている、それはせいしんてきのループのようなもので、従姉をK県へ送る祖父の車に乗りつけるも、荷物を伴っていない。そこでHから電話があり、「けっきょく成績足りてねえじゃん」「謹慎で一学期ぜんぶシロだからな…」、火乃絵たちは高校3年で、いまとなったら分からないが、どうせシロなら初めっから辞めていればよかったのに、ということらしいのだが、そっちが火乃絵の本心で、Hの方ではさかしまなのだった、―おまえのつもり(﹅﹅﹅)ではこうだった筈なのにそうなってはいないではないかということで、本人は端からそうすることには反対、というより、火乃絵の選択によって自らの歩き方を責められていると感じている、―
これはコムプレツクス共同体から足を洗うことのむつかしさなのだ。
注目すべきは、Hてきよくあつ(﹅﹅﹅﹅)がいまの火乃絵に内在しているということである。
—助手席で電話をとりつゝ、ダッシュボードに置いてある何かを、かかとでがんがん踏みつけていた。こうした不満は目覚めているときであっても、たえず自己にむけてのものに他ならないのだからなおさら。―

たしかに何もかもが停滞している、

午前2じ、サンオウにひとり、訪問客はない。

                 ⁑

すでに三週間がけいかしたが、いっこう映画編集する気になれない。
詩も三論考もしばらく書けていない、
やるべきことはたくさんあるがぜんぶだめだ。
さっきは『黒死館』の第二篇をよみあげていた、―

何も考えないことだ。

(考えるということが現実逃避であるということ、これはあらたな局面だ。現実とは、サンオウに訪ねてくる者がいないということであり、かれらは忘れたいか、或は他を考えているのであって、そして何より、辻がいまだに行動を伴にしてくれているということだ、)

夢は?


第三百七十日(氷月朔日)2022.1.3

ごちゃごちゃの混乱夢。それは言語のはんらん(﹅﹅﹅﹅)に等しい。

みっころね(ホロライブのさくらみこさんと犬神ころねさんのペア)の24じかん配信をみつゝ―起きたときちょうど尾丸ポルカさんが助っとに来ていた、―ベンヤミンの「言語一般および人間の言語について」と「ゲーテの『親和力』」を読んでいた。

サンオウはひとり、年明け三元日に70thの杉【本】が来るかもしれないといっていたが、けっきょく現れなかった。

中高じだいの訳もわからず笑い転げていた帰り路みたいなジカン、とさくらみこさんが云っていた、さいごのLIVEではやっぱりもののあはれを感じた。―

                ⁑

どうしてベンヤミンを読んでいたのか、じぶんでも分らない。本を読むとは、或る一行と出遇うため。―といってよければ、それがまだ見つかっていないのかもしれない。しかし、それは読み始めるまえにすでに己のなかにあるものであって、それがなければ何をどう読もうが一向見当たらない。たとえば、一九二九年四月八日に七十歳のフッサールが述べたとされることば、〝私は一つのことを拒絶しなければなりません。それは功績についてのお話です。私には功績など何もありません。哲学は私の使命であったのです。私は哲学しなければならなかったのです。そうしなければ私はこの世界で生きることができなかったのです。〟―昨日の〝何も考えないことだ。〟はこれを読んだあとの、そしてきょう一日のしはい(﹅﹅﹅)てき気分でもある。フッサールは哲学についてはよく―前人未踏の営みとなるまで―考え抜いたが、自らが哲学するということについては、靴のかかと(﹅﹅﹅)について考をめぐらせるくらいには考えたこともあったかもしれないが、爪を切るほどにではない、

火乃絵にとりブンジツとはそういうものなのだ、

そしてたれも来ない日には、こうして本を読んだり書いたりしている。何故、やるべきことをやり、能動てきに新たな何かをしでかさないのか。

やるべきことはやった、しばらくは蒔いた種が芽を出すのを待とう、或は火乃絵がまた何かやり始めるまで。これはそう考えたというのではない、どうしてだかこれでいゝという気がする、きっとそうなる、それだけなのだ。―

このやり方を後から悔いるとは思わない、そうしたからそうなった、そしてひのえはそのときそうしたかったのだ、きょうこうやってこうしているように。

                 *

「言語一般および人間の言語について」はむつかしい、これが信条の表現であるからだ、火乃絵が読んでいる本でも『経=哲草稿』の次くらいに線を索(ママ)いている、にもかかわらず、どこかしっくり来なさ、というか、ギネン、―とまでいわないまでも、青空をみるときの空気の層のような、なんともいえない、幼馴染がそうでない人たちに見せている顔のような、そうであることの自明性のうそらしさ(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)、みたいなものがもたらす耳のきこえなさ―がする。

説得てき口調がこちらにもたらす白ケがたぶんに説得てきなフッサールからはもたらされず、断定てき口吻の初期ベンヤミンのほうにむしろそれが起こるということ、―おそらくこれはひらき(﹅﹅﹅)にまつわるもので、おそらくこの論文を書いていた頃のベンヤミンがユダヤの宗教哲学のふンゐきに鎖されているふしがあるからだろう。

それとはかんけいなしに、この短い文章にベンヤミンの潜在性はあんじされつくされているのはまちがいなく、そういったいみでは未来は長く続く、(―アルチュセールが二三日後かにやってきそうな予感がする、ベンヤミンがまたそうであったように﹅)

起きてすぐはシュティルナーについての調べものをしていた、その関連論文でフォイエルバッハとマルクスにあたっていたので、ベンヤミンまでもうすぐだった(こういうことは書きのこすべきではない気がするが、)―ちょうど読みすすめていた宇野邦一の『反歴史論』もこの近代史家ところで停まっていたし、『黒死館』を読みつゝ、鷗外の訳で『ファウスト』も読んでいたので、やはりこのゲーテの批評家もサンオウ付近をうろついていたにはちがいない、

シュティルナーは埴谷さんというよりフッサールから来ていた、次の文章はこの二人が火乃絵において袖を摩れ合わせるように、立会川の中学生たちが自転車を押す路地に、押入の火乃絵を連れ出してくれるようであった、〝もしかして、この瞬間にも窓の前では、子供達が遊び仲間同士で駆け寄ってきているかもしれない。ヘスが子供たちを見れば、それが楽しいエゴイスト的連合であると認めるだろう。あるいはヘスには友人とか恋人とかがいるだろうが、その場合、いかに心と心が通い合っているかということ、その二人は相互に享受=賞味するためにいかにエゴイスト的に連合するかということ、そしてそれによっていかに誰も「損をして」いないかということを知るはずである。ことによると彼等は道端で二、三の仲のいい知人に出会って酒場へ行こうと誘われるかもしれない。その場合親切心を発揮していっしょに行くのか、それともそのことで享受=賞味が期待できるから彼らと「連合する」のか。彼らは「献身」のためにヘスにできる限りの感謝をしなければならないのか、それおともほんの一時のあいだ共に「エゴイスト的連合」を形成したということを知るのか。〟―シュティルナーとカントが埴谷さんをとおし火乃絵において出遇うとき、ベンヤミンが「ゲーテの『親和力』」に引いた文章のなかで批判てつがく(﹅﹅﹅﹅)の人はサンオウの路地の向いの夫婦についてこう述べることになった、〝婚姻とは、性を異にする二人の人物の、それぞれの性的特性を生涯にわたって互いに所有しあうための結合を謂う。―子供をつくり育てるという目的は、両性に性愛欲求を植えつけた自然のひとつの目的ではあるだろう、しかしながら、結婚する人間が必ずこのことを目的としなければならぬことは、この婚姻による結合の通法性のために要求されるものではない。なぜなら、さもなくば子供づくりがとだえると、それと同時に婚姻もおのずと解消されることになってしまうからである〟、カントのこの台詞はあのサド侯爵の主人公のことばともひゞきあう(*)、〝ウージェニー。どうせかま掘りになるなら、生半可なかま堀りであってはならない。つまり、女を尻でやるだけじゃ半人前、ということだ。自然は、男が男を相手にしてこの奇癖に仕えることを望んでいて、何より男のために、この趣味を与えたのだ。だから、この嗜好が自然を侮辱するなんて言うのは、実に馬鹿げている。これをわれわれに吹き込んでいるのは自然なんだから、そんなことはありえないよ。自然が、みずからを貶めるようなことを命じるのかい? そんなことはないだろ、ウージェニー? この奇癖だって、自然に仕えることでは他に負けていないよ。繁殖というのは自然が大目に見てくれてるだけなんだからね。自然が、自分の全能なる権利を奪ってしまう生殖なんて行為を法として規定することはありえないさ。繁殖は自然がはじめに抱いた意図から結果したものの一つにすぎないんだから、もしわれわれ人類が完全に破壊されたら、自然は初心に戻って、自分の手ですべて新しく作り直すだろう。この行為こそ、傲慢で力に満ちた自然にとって喜ばしいものだろうね。〟―
カントの台詞の冒頭をむすびに換えるとこうだ、

 性の共同体とは、人間が他者の性器および性能力を利用する、その相互利用を謂い、それは自然な利用(これによって同類をつくることができる)または不自然な利用であって、後者の場合は同性の人物、もしくは人間種族とは異なる種族の動物に対して行われる。

*『閨房の哲学』と『道徳の形而上学』は、1795年と1797年にそれぞれ出版されている。

                 ⁑

書きながら、ふとサリンジャーがシーモアの口を借りて、『アンナ・カレーニナ』のオブロンスキイ夫妻を讃えているのを想い出していた、―これはベンヤミンの文章で、

 『道徳の形而上学』のこの[右の]一節に、モーツァルト(一七五六―九一年)の魔笛[一九七一年初演]を並べると、婚姻についてのこの時代がもっていた最も極端で、同時に最も深い二様の味方が、そこに表わされているように思われる。というのも『魔笛』は、そもそもオペラというものに可能なかぎり、ほかならぬ婚姻関係にある愛をテーマとしているからである。(…)このオペラの内容をなしているのは、愛しあう者たちの恋しがる気持ちよりも、婚姻関係にある者たちの絆のゆるぎなさである。彼等に火のなか水のなかを通りぬけさせるのは、ただ互いに相手を得るためだけでなく、永久にひとつに結ばれてあるためなのだ。

このことゝ、『閨房の哲学』第三の対話のサン・タンジュ夫人のいうことは火乃絵においては感情てきにも矛盾しない。のであるが、それについてはもう少し後になってから書いてみることにしよう、―この先はもう、キルケゴールの課題なのだ。


第三百七十一日(氷月二日)2022.1.4

午後2じに起きた、16じに来るよていだったキガが18じになるというので、午前中に起きたら行くつもりだった日本橋の丸善へ来た、絶版になった『純粋理性批判』(平凡社ライブラリー)の下巻を手に入れるため。―

昨夜、日誌を書き上げてからメルロ=ポンティの「哲学者とその影」と第三百六十八—七十日の読み上げをしていた。白石火乃絵【STAFF Note】【サンオウ通信】にあげるよていだ、

地下鉄の仲で「哲学者とその影」をきいていた、かつて高島屋の地下でアルバイトしていたことがあるのでメトロの日本橋駅はモノクロ映画のように現象していた、これもまたひとつの密室だ、―

辻に生活費をたすけてもらっている今、この出費はほとんど犯罪てきだが、『純粋理性批判』中・下、『声と現象』(ちくま学芸文庫)、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(講談社学術文庫)、『日本語とはどういう言語か』三浦つとむ(同前。)、『雪国の春 柳田国男が歩いた東北』(角川ソフィア文庫)、『もう革命しかないもんね』『アナキズム入門』森元斎(このひとは12.30にりくとが教えてくれた人で、『偏向』創刊準備8月号の「フィールドワークとして生きる」にも引用されている。―『偏向』圏内の書物はあたうるかぎり読んでいく、これも出遇いの唯物論。)以上を手に入れた。そのうちこの日誌でも触れられることになるだろう、

                 ⁑

大井町駅前でキガと合流、サンオウでドミノピザを食べ、あとから帰って来た辻もいれて三人で明け方ちかくまでおしゃべりした。

2021.11.27-12.11までのことをきかれたが話す気力が湧かなかった。


第三百七十一日(氷月二日)2022.1.4

午前10じまえにキガが帰宅した、

最初の夢はもうろうとしたイシキの中、一つのセリフと一つの地の文で書き写そうとしたが間に合わず。

再び長い夢、写されずに済んだ、

湯船をはって、シャワーを浴びた。―

                  ⁑

書かなかったが、昨夜はきがとベルクソンについてしゃべったりもした、

火乃絵はこれまでにまったくベルクソンを読んでこなかった、去年になって小林秀雄を読むようになってからもそれはかわらなかった。さっきちょっとこの人のことを調べていて、学生じだいかれの周囲がカント一色だったことを知り、又、頑固にかれがカントてきなるものに耳を貸さなかったというのがおもしろかった、それはあたかもベルクソンにたいする火乃絵の態度にそっくりだったからだ。

ひのえの友人でいったいが火乃絵のカント好みを説明することができようか、じぶんとしては埴谷雄高をとおしてしかそれを言い表すことはできなそうだが、―しかし、火乃絵のカント読みは埴谷さん以前からのものだった、

                 ⁂

すごくむかしの話になる、おそらく2015年の6月になるかならないかのことゝおもうが、一樹(65th統制)が主催していた草サッカー・チーム「麻布United」(ひどい名前だ笑)が波崎へ合宿に行ったとき、往きの高速バスの中でキャプテンの一樹が火乃絵のとおなじ平凡社ライブラリー版の『純粋理性批判』を読んで居た―一樹はその後、東大で哲学科にすゝむことになる―のを、降りてから手続きかなにかをしている一樹をみんなして待っているとき、何かにひっかけて「そんなおまえのりせいをじゅんすいに批判したいよ、」とからかったことがある、他のチーム・メイトも一樹の読書の光景がなんとなく目についていたらしく、想定以上の哄笑が沸きおこった、ちっと悪いことした、と思った。

一樹にはピュアなところがあって、そのとき打ち込んでいるものにはすごく熱心になる(たしかその後、プラトン全集を文章ごとにブログにノートしながら読破したりしていた)、だからそのときの『純粋理性批判』もけっしてインテリ学生の興味ほんいというふうに読んではいなかったはずだ、

しかしそれは麻布生とくゆう(﹅﹅﹅﹅)の弱点をも同時に示してはいなかったか、すなわちいちど心をゆるしたものにたいしてははなはだ牙をむくということを忘れてしまう、体制・権力にたいし斜に構えても、こと権威にたいしては隙がありすぎ、けっか大学にも企業にもいいようにつかわれてしまう、ひとことでいえばうぶ(﹅﹅)なのだ。

だからそのとき火乃絵が一樹を揶揄したのは、そういったことであると同時に、そのうぶにたいする若干のうらやましさがなかったとはいうまい。だが、かれにとってその安住が安住であるのにたいし、ひのえにはその安住はすなわち地獄なのである。いや、いかなる安住も(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)、といいなおすべきか。―


このとき火乃絵はひとりのベルクソンであるのか?

                  そこが肯けない、

 ひのえにはばっく(﹅﹅﹅)が透える、ベルクソンのせなかに、科学という名の。《火乃絵が

                   カントを好むのは、棹も持たずに視えない
ロープを渡ってゆく醒めた夢遊病患者をそこ
に見るからである。中世の実験室を出てきた
黒魔術師が、市民の衣装を羽織って、近代を
よぎりへーき(﹅﹅﹅)で現代都会の摩天楼を
辷ってく、

その歩みは超近代にまでつゞいてゆくようにみえる。―

(翻訳をとおしてであるが、或はまさにそれゆえに)カントの書物に夢の中の未来語をみる、―それはまだ書かれていない。

   それにたいし、ベルクソンの言語はヨーロッパ文明とゝもに

滅びる
                   、         、

                 ⁑

それはちがうよ一樹、その本はやっぱり監獄にあってそれと悟られぬように読むべきなんだ、わかる人にだけわかる、そしてわからない人にはわからなくて一向困らぬ、袖下のかどかわし、

『純粋理性批判』のもつ闇黒のオーラは、けっして権威と見誤れることはない、

ナポレオン登場以前にカントはすでに国家を超えていた、―

《診断》安楽死。
〈或る三角形を定立し、しかもこの三角形の三つの角を無効にするのは矛盾したことである。しかし、この三角形をその三つの角とともに無効にするのは、いかなる矛盾でもない。〉―2・2 超越論的弁証論より

                 ⁂

(第三百七十二日、つづく)

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