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アフォリズム・箴言・つぶやき

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つぶやきです。
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憂鬱に見つかってはならない。自分自身が憂鬱と化してしまう。
我を忘れて夢中に駆け抜ける塊にならなくては。

偶像を演じるとはどういうことか。身も蓋もない言い方をすれば、騙すということだろう。
演出家は演者が観客を騙していることを熟知するべきだ。その上で観客とどう向き合うかについて、演者と意見をすり合わせることが重要だろう。

人生の全てを運に還元する思考は、全てを実力に還元する思考と同程度に不毛だろう。そこから何が生まれるというのか。

小説ではいくらでも自分を偽れるが、批評ではそうはいかない。
そこで発せられる言葉は登場人物のものではなく自分のものであり、他でもないその言葉によって自身が傷を負うことは珍しいことでも何でもない。
芸術と学術、描写と言及の違いはそこにあるのだろう。

神々ではなく人間の視点から捉えると、信仰に根拠はない。
この「信仰の無根拠性」からホイジンガのいう「あほらしさ」が導き出されると考えられなくもない。

「豚に歴史がありますか」という言葉に文句をつけるならば、まず歴史を知るところから始めなくてはならぬ。当然のことだ。

雅びと鄙びについて。雅びは天皇の存在を抜きにして語れず、日本人の美意識における中心に位置するだろう。それに対する辺境の美意識が鄙びだ。果たして本当に、一切の差別なしに、雅びは鄙びを包摂できるだろうか。

渡辺京二の著作を眺めて。後期近代としての今の日本における「労働」と、近代以前の日本における「労働」は全く異なる。
資本主義を取り入れることで変化を余儀なくされることは当然考慮に入れておくべき。

「教育勅語を教えたら日本はよくなる」という発想が生まれてくるのは、要するにニヒリズムがないからでしょう。
ホイジンガは「遊び」が「厳粛さ」と「あほらしさ」の間でゆれ動くことを指摘した。政治という真剣な遊戯に対するメタ的な目線や諦念が、そういう主張をする人間には皆無。主知主義的。

本土決戦放棄という原罪を背負ってしまった以上、我々本土の人間は沖縄や北海道に頭を下げ続けるしかないんじゃないのか。中国韓国に対しても基本的にそう。少なくともこう発言するのが健全なのではないか。

小説の台詞はあくまで描写であり、そのまま作家の主義主張と捉えることはできない。
そのように描写される各々の意思が物語の展開を経て、どのような境地へ至るのか。これを追うことでようやく読解がはじまるのだ。

Twitterは郵便的不安に満ち満ちている。この状況を見れば、ポリティカルコレクトネスが新たな同一性を仮構する運動と化していくのも当然だなと感じる。

抽象的な言説に何らかの具体例を与えることで、観念的に浮ついた議論ではなく、一定の強度を帯びるようになる。
こういった意味合いにおいては、床屋の政治談議を馬鹿にできない。
思想の歴史的根拠とは、そういった具象と抽象の葛藤から立ち現れてくる。

https://www.youtube.com/live/9hJomO24PDA?si=ccwBy-cwWQ_sYbxc 維新にしろ泉房穂にしろ、凡庸で似たようなものをいかにして「差別化」し商品に仕立て上げるかという、資本主義的発想の産物でしかない(絓秀実の1968年に関する言説、批評誌「ラッキーストライク」創刊号「巻頭言」を参照)。