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優美な木版画、でも豪快な人生★没後70年 吉田博展

 朝焼けのピンク色に染まる剱岳(つるぎだけ)、その手前にあるテント小屋までの光を表現した色のグラデーションは、木版画(もくはんが)とは思えないほど美しい。木版画といえば、彫刻刀で木の板を彫って摺(す)る”白黒”の世界がまず思い浮かぶ。そんな木版画で色彩豊か優美な作品を生んだ画家だが、アメリカで絵を売って荒稼ぎした、黒田清輝(くろだせいき)と喧嘩(けんか)した――など豪快なエピソードが常についてくる。

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吉田博《劔山の朝》 大正15(1926)年

 明治から昭和にかけて風景画家として活躍した吉田博(よしだ・ひろし、1876-1950)の展覧会「没後70年 吉田博展」を、東京都美術館(上野公園)で見た(3月28日で終了)。現在、パラミタミュージアム(三重県)に巡回中で、4月1日から5月30日まで。日本の山や海、海外の景色を美しく表現した吉田博の木版画は、英国のダイアナ妃にも愛された。だが実際に、吉田博が本格的に版画製作を始めたのは40歳代から。本展では、若き日に洋画に取り組み、その後、木版画で新たな境地を切り開いた吉田の水彩画油彩画、そして木版画を一堂に展示している。

水彩画で荒稼ぎ、欧米を旅行

 吉田博は、1876年、福岡県久留米市に、旧久留米藩士の次男として生まれた。明治新政府が西欧諸国をモデルに近代化を進め、西洋画を学ぶ若者が増えた時代。旧制中学の図画教師だった洋画家・吉田嘉三郎(かさぶろう)に絵の才能を見込まれ、1891年、吉田家の養子になった(旧姓は上田)。その後、京都を経て、17歳で上京すると洋画家・小山正太郎(こやま・しょうたろう)の画塾に入門し、写生に明け暮れた。

 1899年、吉田博は23歳のときに、アメリカに渡る。生活費は1カ月分のみだったが、描きためていた水彩画を現地で売りさばき、大量の資金を獲得(当時の教員で約13年の給料分)。なんと2年ほどかけてアメリカ、そしてヨーロッパも巡り、悠々と帰国したのである。吉田博が当時描いていた作品を見ると、日本情緒あふれる牧歌的な風景を描いた水彩画が多く、いかにも外国人が好みそうで、売れることを見込んでいた”商才(商売の才能)”の片鱗(へんりん)を感じる。

 そもそも、吉田博のように、最初にアメリカをめざす画家は当時珍しかった。フランスで印象派を学んだ黒田清輝にならい、ほとんどはヨーロッパをめざしたのである。

 当時、日本の洋画壇は、黒田清輝を中心に発足した白馬会(はくばかい)が主流を占めていた。そこに対抗する形で、吉田博は1901年に「太平洋画会(たいへいようがかい)」(前身は明治美術会)を仲間らと結成。いかにも九州男児らしい反骨心あふれる行動から、黒田清輝と喧嘩したという噂も、まことしやかに流されたのだろう。

木版画を製作、米国で人気

 その後も、ヨーロッパ、アメリカを何度も歴訪した吉田博は、各地の雄大な自然の風景をスケッチしていった。そのスケッチをもとに新たな作品を制作。効率の良い仕事である。

 さらに、同じく商才もあった新版画の版元(はんもと)『渡邊版画店』の渡邊庄三郎(しょうざぶろう)との出会いから、木版画の製作を手掛けるようになる。木版画は、1枚の版木(はんぎ)があれば、何枚でも同じ絵柄を摺ることができ、ある意味、数を多く売ることができる(現代アートでは限定部数での版数管理が多い)。ただ、吉田博は、一点一点が手間の掛かる新しい木版画の表現を追求していたので、むしろ日本の木版画に対する何か使命感を持っていたように感じられる。

 吉田博は、男気あふれる人物でもあった。1923年の関東大震災で、被災した太平洋画会の仲間たちと渡邊版画店を救済する資金集めのため、作品販売を目的として渡米。アメリカで、自身と仲間たちの作品を販売する。そこで木版画がよく売れることに気づく。

 木版画の人気ぶりを察知した吉田博は、本格的に木版画の製作に取り組み始める。同時に、欧米では粗悪な幕末の浮世絵版画が高額でやり取りされている現実も目の当たりに。日本の木版画の本当のすごさを世界に知らしめたいと思ったに違いない。 

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吉田博《「瀬戸内海集 帆船」より「朝」》 大正15(1926)年

 瀬戸内海に帆船が浮かび、朝日に照らされて、穏やかな光が揺らぐ水面が美しい。光のグラデーションが奥行きを感じさせ、遠景の霞(かす)んだ様子から、たっぷりと湿気を含んだ空気感までもが感じ取れる。《「瀬戸内海集 帆船」より「朝」》と題したこの作品には、ほかに「午前」「霧」「夕」「夜」という連作がある。1枚の版木で同じ絵柄を、摺り分けることで、時間の移り変わりごとの作品を生み出したのである。

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 木版画は伝統的に、下絵を描く絵師、それをもとに版木に彫る彫師(ほりし)、和紙に摺る摺師(すりし)の分業体制によって製作されている。先ほどの瀬戸内海の時間経過は、色を重ねて仕上げる摺師の腕の見せどころ。吉田博は、彫師、摺師を自ら抱え、細かく指示を出して作品を生み出していった(自ら作業を行うこともあった)。

伝統の技術と、写実表現

 吉田博の木版画は、摺りの回数が非常に多いことで知られる。一般的に通常10数回のところを、平均でも30回ほど摺り重ねて、細かい色分けをしていく。そうすることで、美しい色のグラデーションを表現しているわけだ。

 だが、実際の製作においては、色がズレるなどの注意が必要で、手間の掛かる作業。熟練の技術が必要で、それを支える職人たちの腕と技術の結晶でもある。それでもなお手間を惜しまないところに、吉田博のこだわりが強く感じられる。

 木版画の歴史は、江戸時代の浮世絵でフルカラーとなる多色摺り木版画の完成形「錦絵(にしきえ)」が流行したのが18世紀。浮世絵師の鈴木春信から始まり、やがて葛飾北斎(かつしか・ほくさい)や歌川広重(うたがわ・ひろしげ)が登場し、風景画(正確には名所絵)も人気を博した。

 だが、明治時代に入ると、西洋から流入した石版画(せきはんが)や写真の影響で、伝統的な木版画が衰退していく。一方で、欧米では浮世絵が人気を集め、大量の浮世絵が海外に流出した。貿易商だった渡邊庄三郎は、吉田博らに声を掛け、新たな浮世絵「新版画」を作っていった。洋画でも画力のあった吉田博が、あえて木版画にこだわったのも、日本美術は西洋に決して劣らないことを示したかったからではないだろうか。

 吉田博は、葛飾北斎を尊敬していたともいわれ、山を愛した。北斎のように富士山も題材としているが、洋画を学んだ吉田博は、スケッチに基づく写実的な表現で描いた。正確な描写は、自然そのものの迫力をダイナミックに伝える。

感動は伝わる

 吉田博は絵を描くとき、必ず現地に足を運んだ。当時も参考になる絵ハガキや写真はあっただろうが、山でも海でも自ら実際に足を運び、徹底的にスケッチをした。

 自ら汗をかき、空気を感じ、自然の光を浴びながら歩みを進める。目的地が山頂であれば、雄大な山々を望みながら、太陽の光で移り変わる景色に心を奪われる。その感動を描きとめたとき、作品は鑑賞者に感動を伝え始める。それは技術ではない。

 ただ、そんな自然と対峙(たいじ)する近代的な風景画のようでありながら、作品によっては人間が配されている。テント小屋の煙などに感じる人の気配。それは人々の暮らしが息づく日本の浮世絵を意識した吉田博の、心温かな目線に違いない。


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