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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 14

 —— 6月11日深夜

 中臣鎌子は、なぜか甘檮丘の近くで、笠を被った月を見上げていた。

 なぜだろう?

 私は、中臣家のために生きると決めたのに、なぜこんなところにいるのだろう?

 それは迷いだろうか?

 それとも後悔だろうか?

 いまの鎌子には、それを確かめることはできなかった………………

 ………………同じ月を、蘇我入鹿も見ていた。

「失礼致します」

 従者が一人入って来た。

「お休みのところ申し訳ありません」

「いや、まだ休んでないから良い。何ですか?」

「はい、これを……」

 従者はそう言うと、一枚の板切れを入鹿に差し出した。

「奴が、ある貴人から、これを林大臣に渡してくれと手渡されたとか」

「誰ですか?」

「いえ、そこまでは……」

 入鹿は板切れを受け取ると、油皿を引き寄せ、それを詠んだ。


   小林に 我を引き入れて

     姧し人の 面を知らず 家も知らずも

   (林の中に、私を誘い入れて犯した人の顔も知らないし、

     家もまた知らないよ)

   (『日本書紀』皇極天皇三年六月条)


「何と?」

「さあ、何でしょ?」

 そう言うと、入鹿はその板切れを文箱の中に仕舞った。

 入鹿には、その文字に見覚えがあった。

 それが、彼の文字だということに………………

 入鹿は、再び月を見上げた。

「明日は雨ですね」

「はい、そのようで。三韓進調儀で濡れると思いますので、湯を沸かしておきます」

 従者は気を使った。

「その必要も………………ないかもしれない」

「はい?」

 入鹿は、まだ月を見上げていた。

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