見出し画像

【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 前編 21

「あら、これは、誰の歌かしら?」

 額田姫王は、真新しい木簡を取り上げた。


  山川に 鴛鴦(おし)二つ居て 偶(たぐ)ひよく

    偶へる妹を 誰か率にけむ

  (山川に、鴛鴦が二羽いて、仲良が良いが、

   仲の良い妻を、誰が連れ去っただろうか)

  (『日本書紀』大化五年三月条)


  本毎に 花は咲けども 何とかも

    愛し妹が また咲き出来ぬ

  (幹ごとに花は咲いているが、

   どうして愛しい妻は、再び現れることができないのだろうか)

  (『日本書紀』大化五年三月条)


「ああ、これは、野中川原満(のなかのかわはらのみつ)殿の歌ね、こっちもね」

「何を詠った歌なの?」

「山田大臣に殉じた長女の造媛(みやつこのひめ)のことよ。中大兄様が、その死を悼んで野中川原殿に作らせたのよ。良い歌だなと思ったから、書き留めておいたの」

「でも、なぜ夫婦の歌なの? お二人のご縁談は、武蔵様のせいで破談になったのでは?」

 武蔵とは、蘇我日向のことである。

 造媛は、中大兄との婚姻の前に、日向に犯されたため、代わりに妹の遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)が嫁いだというのが世間に広まった噂であった。

「まあ、表向きはね」

「表向き? お姉様、本当のことをご存知なのですか?」

「ええ、まあね。話は簡単、あれは、中大兄様が武蔵様に命令して襲わせたのよ」

 額田姫王は、鏡姫王が何を言ったのか良く分からなかった ―― 何か、とんでもないことを言ったようだが。

「あれはね、中大兄様が武蔵様に命令して、造媛を襲わせたのよ」

 鏡姫王は、もう一度、衝撃の事実を繰り返した。

「まさか!」

 額田姫王は、開いた口が塞がらなかった。

「本当よ。中大兄様は造媛ではなく、遠智娘を妻にしたかったらしいの。ほら、造媛より遠智娘の方が少しばかり美しかったでしょ。それならそうと中大兄様も言えば良かったのだけれども、皇子としての自尊心か何か知らないけれど、一度造媛を妻にと言った手前、いまさら妹をとは言えなかったのでしょね。だったら、造媛が傷物になればこちらから破談にできるし、山田大臣の弱みも握ることができるからと」

「それで襲わせたの?」

「そう」

「そんなことで?」

「そんなものなのよ。男にとって女って。」

「でも、お姉様は、どこでそれを聞いたの?」

「ご本人からよ」

「えっ?」

「中大兄様、ご本人からよ。酔った勢いで、自慢するかのように、まあ、延々と。どうして男って、あの女を俺のものにしたとか平気で言うのでしょうね」

「でも、何で夫婦の歌なんか作らせたのよ?」

 額田姫王は、中大兄の無神経さに怒りを覚えずにいられなかった。

「あの後、中大兄様は造媛の下に通っていたのよ、造媛も美しいでしょ。中大兄様は、勿体ないとでも思ったんじゃないの。可哀想なのは造媛ね。自分を襲わせた人を受け入れなくてはならなかったのだから。まさに二重の苦しみね。でも、山田大臣に殉じて、ようやくその苦しみから解放されたのでしょうね」

 額田姫王は呆然としていた。

 まさか、中大兄がそのような人間だったとは。

 もしあの時、中大兄を選んでいたらと……、彼女はそれを思うとぞっとした。

 十市皇女が、摘んだ花を両手一杯に抱えて鏡姫王に駆け寄って来た。

「くれるの? ありがとう」

 鏡姫王は、花ごと十市皇女を抱きしめた。

「十市ちゃん、十市ちゃんも大きくなったら、お父様のように優しい人を夫に持たなくては駄目よ」

 鏡姫王は、十市皇女に微笑んで言った。

「あたし、大きくなったら、父様のお嫁さんになるの」

 十市皇女は無邪気に答えた。

 かく言う十市皇女も後年、父 ―― 大海人皇子と、夫 ―― 大友皇子(おおとものみこ:中大兄皇子の息子)の後継者争いに心を痛めるのである。

「そう、良かったわね」

 鏡姫王は十市皇女にそう言うと、額田姫王の方を振り返りこう言った。

「そうそう、あなたも気をつけた方がいいわ。中大兄様は、あなたのことをまだ諦めていないはずだし、欲しいものはどんなことをしてでも手に入れる人だから。鎌子様にも申し上げているの、中大兄様にはあまり深入りしない方が良いて。熱しやすくて冷めやすい人だから、飽きればすぐ捨てるし。人の気持ちを全く考えない、自分さえ良ければ良い人だからって。だから、あなたもね、深入りは禁物よ」

 日が傾き始めた頃、額田姫王は鏡姫王の屋敷を後にした。

 帰り道の彼女は、鏡姫王の言葉で頭が一杯で、木槌の音や職人の声は耳に入ってこなかった。

「あっ、父様だ! 父様!」

 十市皇女が岡の上に向け、思いっきり手を振った。

 そこには、娘に手を振って答える馬上の大海人皇子の姿があった。

 額田姫王も手を振り返そうと思ったが、大海人皇子の隣に冷たい視線を感じたので、それを止めた。

 その視線は、馬上の中大兄である。

 額田姫王は、中大兄に頭を下げた ―― 背中に悪寒が走った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?