見出し画像

Aさんへの手紙

【主観と客観について】
Aさんは良く「客観的に物事を判断しろ」という言葉を使う。
この客観的と主観的というモノの見方は、現代社会においては通用しない。
現代人のものの考え方はこうである。

村がある。山がある。山の向こうに何があるのかは誰も知らない。
山の向こうへ行ってみた。湖を発見した。
湖を発見する前の村社会において、湖は客観的に存在しない。と考える。
これが村社会においての客観的事実である。と考える。

そこにある物体(客体) 
それを認識する意識(主体)

これがセットになって初めてその物体は「そこに存在する」。と考える。
客体のみでモノが存在するのは、あり得ない。
逆に主体のみで、「そこに主体が存在する」のもあり得ない。と考える。
従って、全ての客観的事実は、主体のフィルターを通してしか存在しえない。と考える。

どういう事か?

「価値観が多様化する現代社会においては、主観の数だけ客観的な事実が存在する。」
という風に考えられることが多い。

例を挙げる。
アフリカのある部族の社会には「色」が二つしか存在しない。白と黒である。
その部族にとってそれは客観的事実である。
世界的な常識とはかけ離れている。
これは言語が大きく関わっていると考えられている。人の意識は言語化されていない客体(概念など)を認識できない。

例えば虹。「7色の虹」などとよく言われる。
しかし可視光線以外にも光線が存在することが発見された。赤外線と紫外線である。発見以前には可視光線という言葉自体も存在しない。

つまり人は、特に目に見えない物体や概念などについて、意識するためには「言語」が必要なのである。と考えられている。

現在の学問の世界における言語の定義は、
「人は言語によってしか、物事を意識することができない。つまり、言語とは意識の構造そのものである」というのが定説になっている。
それ以前の言語の定義はこうである。
「人は内に秘めた意識を、外部に伝達するために言語を発達させた。つまり、言語は意識を伝達するための道具である」

かつては言語の前に意識が存在すると考えられていた。
現代は意識するためには言語化が必要。つまり、言語は意識の構造であると考えられている。

つまり、何が言いたいのか?

客観的な事実が、100%それ単独で存在することはあり得ないと現代人は考える。
客観的な事実は、主観のフィルターを通してしか存在しえないと考える。
従って、「価値観が多様化する現代社会においては、主観の数だけ客観的な事実が存在する。」というモノの見方が多数を占めるようになってきた。

主観と客観
善と悪
物体と精神
宗教と科学

このように、物事をぶった切って考える方法を二元論という。二元論が生まれたのは15~16世紀頃。デカルトという哲学者が唱えたものだ。
二元論はこの時代、迷信と腐敗した宗教に毒された社会(中世ヨーロッパ)に、革命をもたらした。科学が発展したのもそのおかげである。
イタリアルネサンス。大航海時代。産業革命。などなど。

ところが、その結果、奴隷制度や植民地支配、帝国主義などといった副作用も顕著になっていった。極めつけは二度の大戦。


現代社会において、抱える問題はより複雑化した。地球環境問題(温暖化)などは、加害者と被害者が同じ人間であるという何とも言い難い事態になった。

物事を二つに分けて考える方法は、人類にとって一定の効果があったことは、データを見ると理解することができる。科学の発展により、地球全体の人口は増えた。食料生産技術、医療、通信、その他諸々。生物の成功が繁殖数であるならば、確実に増えた人口は人類の大勝利を意味する。

しかし、今現在ここに生きている生身の人間にとって、これは大勝利で大成功であると、だから喜べ、とはならないわけで、、、。
人は幸福を追求する生き物である。
人口は増えたが、幸福ではない。

二元論という考え方に限界があるならば、そこから脱却するしかない。
新たな道を探るのみである。現在の大学は世界的に二元論からの脱却に力を入れている。世界は新たなステージに立とうとしている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?