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1979年の山下達郎さん

先週末の山下達郎さん@松山公演見て以来、自分内での山下達郎さんブームが止まらない。達郎さんのアルバムを最新作「SOFTLY」から遡っていく感じでクロノジカルに聴き返している。ストリーミングサービスに音源がないのでレンタルしたり足りないものはAmazonで買い直した。いろんなことを思い出すが一番最初に達郎さんに出会った1979年の夏を思い出す。とても個人的な想い出を書いてみたい。

振り返って見ると自分の人生の中で1979年は色々あった年だ。大阪から転校して知り合った友人たちと秋の学園祭に向けてバンドの練習に明け暮れながら好奇心に任せていろんなところに顔を出していた時期だ。そんな頃に地元の楽器店で知り合った店員のお姉さん(ガタイのいいドラマーさんだった)に強引に売りつけられたバンドコンテストのチケット、杉並区公会堂で開催された新星堂主催の「新星堂ROCK IN ’79」に行くことになった。チケット代は1,000円、ゲストに【山下達郎】と書いてあった。聴いたことのない名前だった。楽器屋で知り合った他の年上のお兄さんにチケットを見せた時、「おっタツローじゃん!」と言われたのだけ覚えている。

杉並区公会堂にはちょっとした因縁がある。前年の1978年の秋頃、当時人気絶頂の日本のフュージョンバンドの草分け、プリズムのフリーコンサートがこの杉並区公会堂で開催されたのだ。どうやってその情報を得たのか今となっては不明だがなにかの雑誌かぴあにでも載っていたのだろうか、転校してきたばかりであまり友人もいなかったので、一人で埼玉県から荻窪まで出かけていった。しかし今思えば人気のプリズムがタダで見れるなんて虫のいい話がそう簡単にあるわけない。会場に着いたら会場の前はものすごい人だかり、周りは大学生以上のお兄さんたちばかりで高校生ぐらいの子供は自分だけだった。どこに並んだらいいのかも分からず人混みの列の中にいたら30分ほどして、会場のスタッフから「今日のプリズムのコンサートはこれで満員です。もうこれ以上の人はご覧になれません!」と無情なアナウンスが鳴り響いた。周りのお兄さんたちは「ええ!なんでだよ」とか文句言っていたが、そりゃそうだ、こういうのは簡単に見れるものじゃないと妙に納得し、トボトボと中央線に乗って帰ったものだった。プリズムはこの時見逃してから2021年の和田アキラさん逝去まで結局見る機会を失ったことがとても悔やまれる。

話は1979年の8月に戻る。またここか、と思いながら再びやって来た杉並区公会堂、今回は広いホールにあまり客はいなかった。開演よりも早く着いてしまったのだろうか、ホールの下手寄りの中ほど席にポツンと一人で座って待っていた。客はあまりいないと言ってもやはり他の客は自分よりもっと年上な感じだった。そんな中「ねえ、一人で来ているの?」と不意に声をかけられた。振り返ると女子大生ぐらいのお姉さん3人組が後ろに立っていた。お姉さんたちはオーバーオールを履いているようなちょっと垢抜けない感じの(失礼)女子大生風だった。とは言えまだDT少年だった自分は女の人に声かけられてなんとなく恥ずかしくてゴニョゴニョしていると「いくつなの?誰を観に来たの?お腹空いていない?おにぎりあげようか」とサランラップに包まれた手作りのおにぎりをくれた。「知り合いがこのコンテストに出演するので観に来ました。」なんておにぎりをもらいながら言葉を交わしたと思う。「私たちは山下達郎さんの応援に来たんだ、ゲストに出る、知ってる?」「いえ、知らないです」「じゃあ、聴いてみて。絶対気にいるから!私たちと一緒に見よう!」とお姉さんたちは自分も一緒に最前列に連れて行こうとしたがそれは恥ずかしかったのでお断りした。その後、お姉さんたちは最前列に陣取っていたと思う。

ライブは始まっていくつかのバンドが演奏したはずだ。チケットを売ってくれたドラマーのお姉さんのバンドはトリオ編成のハードロックだったと思う。女性なのにパワフルなドラムだなと思ったがそれ以外の記憶はない。他のバンドもそれなりの演奏をしていたと思うが記憶がない。ゲストアーティストの印象がものすごかったからだ。全バンドの演奏のあとに、ついにゲストのライブ時間になった。セットチェンジになると広いステージのセンターにすらっとしたロン毛のあんちゃんが現れた。ロン毛のあんちゃんはサウンドチェックの間にしきりとあれこれ各所に指示をだしていたことを覚えている。

このライブの日程はwikipediaの情報で1979年の山下達郎のコンサートに記載されていてバンドのメンバーもそこに記載されている。

1979年8月11日、杉並公会堂 <新星堂ROCK IN '79>
上原裕(Drums)、田中章弘(Electric Bass)、椎名和夫(Guitars)、難波弘之(Keyboards)

下手に立つちょびヒゲのおじさんギタリスト、椎名和夫さんはギター雑誌で解説を書いていたりしてなんとなく顔は知っていた。他のメンバーはあまり憶えていない。キーボードの難波先生もまだ彼のバンド、SOW(センス・オブ・ワンダー)結成前だったと思うしお顔はまだ分からなかった。そして広いステージに4人だけのバックバンドは絵面的には寂しかった記憶の中、センターのロン毛のあんちゃんは相変わらず口うるさくあちこちに指示を出していて15分ほど経ってようやく音響セッティングが固まったようだった。そしてロン毛のあんちゃんはおもむろにカウントを取り歌いだしだ。

何の曲が演奏されたのか、全く知らない曲だった。しかし会場を包み込むような不思議な和音、そして会場中に響きわたるロン毛のあんちゃんのデカい声、その声はデカいだけではなくとても美しく上の方まで響きわたる高音だった。客もまばらな、そしてステージも寂しいスカスカの杉並区公会堂を支配するような圧倒的な声だった。それが自分と山下達郎さんの最初の出会いだった。

山下達郎さんのバンドの演奏は4〜5曲だったろうか。アマチュアバンドのコンテスト決勝の客のいないガラガラなホールなのに達郎さんは全力で歌ってくれていたような気がする。さきほどの女子大生のお姉さん3人組は最前列で立ち上がりやはり全力で応援していた。達郎さんを応援していたのも見渡したところあのお姉さんたちだけだったと思う。何の曲が演奏されたのか今となっては記憶も曖昧になっているが1曲目はフィリー・ソウルというかスリー・ディグリーズみたいな断片的な記憶があるのでおそらく「LOVE SPACE」、そして後に音源で「Let's Dance Baby」を聴いたときの歌詞のくすぐったさを思い出した記憶があるのでこの曲もやっただろう。さらにファンク調の曲で「HOT SHOT」「BOMBER」のどちらかが演奏された気がする。このときのリズムセクションも確実に16ビートを演奏し、名手・田中章夫さんがスラッピングベースを弾いていたはずだがさほど印象が残らなかったのは確かだ。それ以上に日本の曲では聴いたことがなかった不思議な和声の楽曲とそして豊かな声量で高音域まで歌い上げるロン毛のあんちゃん=山下達郎さんの声に圧倒されたのであった。

山下達郎バンドの演奏が終わって審査後の発表などもあったと思う。チケット売ってくれたお姉さんはベストドラマー賞的なものをもらっていたような気もする。しかし自分の頭に中はさきほどの触れた山下達郎さんがやっていた異形の音楽に支配されていた。あれはなんだったのだろう。女子大生のお姉さんたちも「ねえ、良かったでしょ?」的な感じで声をかけてくれて「すごく良かったです!」と答えたと思う。あのお姉さんたちはなぜ自分に声をかけてくれたのか謎ではあったが、今思えばあれは人生で初めて触れた「ファンダム」であり「推しの布教活動」だったと思う。自分の好きなアーティストを素直そうな子供が一人で見ているから親切にしてくれたではないだろうか。ハロプロ・アイドルの販促を担当している時、自分も経験したが古参ヲタのおじさんたちが小学生や中学生ぐらいの女の子が現場に見に来ると観覧エリアを譲って上げたり握手券確保で積み上がったCDをあげたりする、K−POPファンがファン自らソーシャルで広報活動を行うのもまたしかり。推し活動の原点を43年前に見たような気がした。あのお姉さんたち3人組は今でも山下達郎さんのコンサートに駆けつけているだろうか。きっといるに違いない。もしこのnoteを読んでいただいていたらご連絡ください。

これほどまで衝撃的だった山下達郎さんとの出会いではあったが、その後自分は山下達郎の音楽に積極的に聴いてみようとしたのは翌年の秋にリリースされたアルバム「RIDE ON TIME」までなかった。と言うのも秋の学園祭ライブに向けたバンド活動の諸々に忙しくなってしまったのと以前にも書いたがイキリ小僧だった10代の頃の自分は洋楽への憧れが強く日本の歌ものへのあまり興味がわかなかったこと、そして同じ1979年の8月に新宿ロフトで見たフュージョンバンドのカシオペアと日本のプログレッシヴ・ロックの新月のライブに心を奪われたからである。今思えば人生に大きな影響を与える3本のライブがこの1979年8月、後で調べてわかるのだがわずか1週間の間に集中的に起こっていたのである。このことはいずれ改めて書いてみたい。

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