相対的な幸せ

兵士になる夢で目覚めました。ヨーロッパっぽい石造りの町。小さな路地の中程にあるカフェのようなスペースを僕を含むペーペー兵士3人が基地にしていました。そこが基地だということはまだ敵には知られていないものの、誰かが見張りに立たなければ敵に簡単に攻め込まれて死んでしまいます。

誰かが必ず見張りに立たなければならない。

しかしこの見張りの任務は相当に死ぬ可能性が高いんです。見通しの良い場所ではないから、上左右どこからでもスナイパーが狙うことができる。遠くから撃てば簡単に見張りなんて殺すことができるんです。

相手が相当バカなら突っ込んできたところを発見できて、まともに撃ち合うこともあるかもしれない。でもそんなバカがいるわけもない。つまり見張りは遠くから撃たれることで、敵が近くに来たということを知らせる合図二なるのだと思いました。

中にいる2人が生き残るために見張りは立つ。

そう、自分のためじゃないんです。中の2人のために自分の命を危険に晒す行為、それが見張りの任務なんです。

夢の中で他の2人がどういう人間なのかはよく分かりませんでした。感覚的には他人。そんな他人のために自分の命を危険に晒す?すごい苦痛でした。死がランダムにやってくる。自分で全くコントロールできない。健康管理を怠ったから病気になって死ぬわけでもなく、ストレスの高い職場から逃げ出すことができずに病気になって死ぬわけでもなく、自分の不注意で車に轢かれるわけでもない。そしてその異常なストレスのかかる戦場という職場は自分の意思で逃げ出すことが出来ない。

こうなってくると、どうせ死ぬなら命を燃やそうと思うものなんですね。見張りという嫌で嫌で仕方のなかった任務を自分の人生のために一生懸命やろうと思ったのです。見張りが嫌だと思い続けて死ぬよりも、誇りを持って任務に取り組んで死ぬことを選びたいと思いました。

そして死ぬことに意味を持たせたいと思った。愛する仲間のために死ぬ、そうありたいと思った。だから戦争から帰って来た人は言うんですね。「自分が死ぬより仲間が死ぬことの方が辛い。だから仲間を助けるんだ」って。仲間への愛がないと死ぬことに意味が見出せない。自分の死に意味を見出したいから仲間を愛するのだと、そう思いました。

途中からこれが夢であることに気づき、静かに僕は起きました。当然そこは戦場ではありません。命の危険も限りなく低い日本という国に僕はいる。そして食べ物も豊富にあり、愛する家族がいて、好き勝手に生きている。

前のプロジェクトがうまくいかなかったから、金銭的にはサバイバルかもしれない。でもものすごく恵まれた環境にいる。そう思いました。

アウシュビッツの収容所内でも相対的な幸せを感じて生きていた人がたくさんいたという記事を読んだことがあります。裸で寒い屋外に立たされた後は、服を着て室内にいる時に幸せを感じるそうです。人間どんな場所にいても、どんな環境にあっても幸せを感じることができる。自分の置かれた環境を嘆くより、今いる環境がどれだけ恵まれているかを感じて生きた方がいい。

僕は本当に幸せ者です。生きてるって素晴らしいですね。

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