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タンザニアのエアコンスタートアップはどんな人がやっているのか?

今回の記事は自己紹介です。

「自己紹介するなんて恥ずかしすぎるやないか」 と避けてきたテーマですが、スタートアップの社長として「自分がどんな人か」を出していくのも大事だと思い、重い腰を上げて書くことにしました。

弊社には、将来有望な学生インターンが3名働いてくれていますし、ありがたいことに「働きたい」と言ってくださる方も増えています。これから仲間になっていく方々に向けても、何かしら伝わるものが書けたらいいなと思います。

私はタンザニアでエアコンのサブスクリプションサービスを提供する会社の代表を務めていますが、今回はタンザニアに関わり始めるまでを振り返っていきます。

「興味ないこと」は全くできない子ども時代

私は兵庫県の伊丹市出身で、今仕事をしている海外とは全く縁のない家庭で育ちました。

父親はもともとソフトウェアエンジニアでした。人に給料が決められるのが嫌だと起業し、20年以上経営者として活躍しています。小さい会社ですが、一応創業からずっと黒字経営です。

母方の祖父も85歳ぐらいまで自営業として働いていて、サラリーマン経験ゼロです。

こんな社会不適合者の家庭で、生活に不自由することなく、ぬくぬくと育ちました。いわゆるボンボンもしくはアホボンというやつです。

そんな家庭で自由に育てられたためか、自分が興味あることしかできない子どもでした。(今もそうです。) 興味あることには頑張れるのですが、興味がないことにはゼロ・エネルギーなのです。。

高校の恩師は京大卒で、その恩師から「お前みたいな人間は京大の経済学部じゃないと卒業できない」と言われました。京大の経済学部はパラダイス経済と呼ばれ、キャンパスに年間40日ほど現れることさえできれば、卒業できます。卒業論文などももちろん必要ありません。

その言葉にピンときた私は、理系から文系に転向。運よく京大の経済学部に入学しました。この先生の言葉がなかったら、文系に転向し、真面目に勉強することなどなかったと思います。

大学では経営戦略を専攻しました。その理由は父親にあるかもしれません。

阪神タイガースが負けると、リモコンをテレビに投げつけ怒るような父親でした。「こんなポンコツ親父でも経営者をやれるのであれば自分でもやれるな」と当時から経営者を志していたのだと思います。

アメリカ留学して写真の勉強しかしなかった

現在、海外で仕事をするきっかけになったのが、アメリカへの留学です。

ちなみに、私自身全く英語ができず、大学に入ったときのTOEICは500点。
受験が終わったら、もう英語勉強せんでええんや。と思ってたぐらい語学は嫌いでした。また、英語なんて使うことないやんという自身の環境も相まって興味ゼロでした。

そんな状況でしたが、ある教授との会話がきっかけで留学に行くことにしました。

偶然参加していたタイ人の留学生を日本に迎える夕食会のときです。

その教授から話しかけられ、
「朝田くんは英語できるの?」と聞かれ、
「いやー全くできないですわー!ハハハッ」と笑って答えました。。
そして返ってきたのが、次の言葉。

「朝田くん。幸せだね。それで笑ってられるなんて。」

何の言葉も返せなくなりました。

この言葉を受けてすぐ留学の奨学金に申し込み、アメリカのシアトルへ留学に行きました。

とりあえず勢いで留学に行ったとしても、英語嫌いと怠惰な性格が治る訳はありません。

・アメリカの教科書は重いから持ち運びたくないな。
・しゃべれないのに英語でグループワークしたくないな。
・そもそも1年の留学なのに、苦手な英語で何か学んでも身につく?

などというふざけた理由で、写真と体育の授業だけ選択しました。
その結果、写真にドハマリしました。

デジタル写真ではなく、フィルム写真の授業でした。暗室でフィルムの現像から、プリントまで自分自身でやります。そこで、暗室の現像液に映りだされる写真に心から感動したのです。

それに、基本しゃべらなくていい。狙い通りでした。笑

当時の作品

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暗室に入り浸り、ひたすら作品作りをするという生活になりました。こんなにストイックにやる人は誰もいないので、おかげで写真のクラスはずっと首席でした。

良い作品ができると、英語が大してできなくても、クラスメートが興味をもって声をかけてくれるし、話を聞いてくれるようになりました。それで、自然に英語ができるようになっていきました。

“芸術の世界に触れる”
“マイノリティ(外国人)として1番になる”
という2つの体験は今の自分に大きく影響しています。

就職先が見つからない

日本に帰国し、しばらくすると、就活でした。
サラリーマンをするというイメージが全くわかず、給料が高そうな所から順に応募してみた結果、全落ちでした。留学して写真の勉強しかしていなかったので、当たり前といえば当たり前です。社会から全く必要とされていないなと痛感したのを思い出します。

それまで好き放題してきたのですが、それではうまくいかないと気付かされたのもこの時期です。

アメリカで学んだ写真で飯を食っていける姿は想像できないし、自分でビジネスを始めて成功するというアイデアもしないし、能力もない。かといって、サラリーマンとして、日々真面目に通勤するのも嫌だという状況でした。

就職先が全く見つからないので、血迷って、”麻雀強者求ム”という就活イベントにも参加したこともあります。女流雀士とワイワイ麻雀打って好成績だと、面接を受けられるというイベントでした。

女流雀士から三倍満をあがり、ウキウキで面接を受けると…

まさかのマルチ商法の会社でした。

親に大学も留学も行かせてもらったのに、マルチ商法の会社に入社したら、さすがにマズイ。そんなときに、偶然拾ってもらったのがダイキンという会社でした。

一般的な就活スケジュールはもう終わっていたので、「どうにかしなければ」という想いで留学生向けの就活イベントに行きました。友人がダイキンで働いてたこともあり、そのコネを使おうと応募しました。

思い返せば、ダイキンは面接で志望動機を聞かない会社でした。その代わり「今までどんな想いで何をやってきたのか」を徹底的に聞いてきました。

過去と現在の自分をここまでちゃんと見てくれる会社は、ダイキンだけだったと思います。就活イベントで麻雀うってるぐらいなので、もちろん志望動機も全くなかったですが、拾ってもらえて感謝しかありません。

ダイキンでのチャレンジと挫折

エアコンで有名なダイキンですが、入社して配属されたのは、エアフィルタ事業というあまり知られていない事業でした。傍流の事業のため、周りには可哀想だとよく言われました。ですが、私にとっては非常にラッキーでした。

エアコンの事業は既に大きく、優秀な先輩方もいて、仕事も営業、生産、購買などと細分化されています。

一方で、エアフィルタ事業は事業規模が小さいので、当時は4-5名の社員でグローバル全地域をみていて、事業に関することは何でもやる部門でした。社会人1年目で事業全体をみる経験ができたのは、大きなプラスでした。

自分の実力以上のことに常にチャレンジさせてもらう日々でした。その時点では実力不足でも、必死に学び、実践することさえできれば、なんとかなる。また逆に、実践することでしか、自身の身にならないと気付くことができました。

2年目にはアメリカのフランダース社のM&Aを担当させてもらい、3年目には、M&A後の統合担当としてそのままアメリカ・ケンタッキー州の孫会社に出向させてもらうことになりました。

そこで、経営の立て直しに携わり、3年半ほど、現場でストリートファイトの日々を過ごしました。結果的にはうまく立て直しができず、大変悔しい想いをしました。

1人の力では、到底経営などは無理だということ、周りの人を巻き込んで、一緒に事業を進めていくしかないということを、自身の大きな失敗から学んだ時期でした。

やっぱりサラリーマンは向いていない

経営の立て直しで気付いたことは「経営には、”論理”と”直感”の2つが必要である」ということです。

マネージャーとして赴任している私に必要とされたのは"論理"のみでした。

A工場とB工場を統合すると、○Mドルの損益インパクトがあります。
倉庫の管理システムを入れると、出荷の効率が○%上がります。

そんな提案は通って、実行に移されます。

一方、"直感"で
これはまずい。ここの工場長は目光らせておかないとエライことなるぞ。
事業をこう描き直すと、事業展開は面白くなるぞ。
という提案は全く通りません。というか必要とされません。

直感型の自分にとっては、自分の能力が発揮しきれていないモヤモヤが募りました。また、元々30歳で経営者として勝負すると決めていたので、出向任期を延長せず、ダイキンを退職しようと思っていました。。

元ヒッピーの副社長からの言葉

ダイキンというのは変わった会社です。
私みたいなペーペーの平社員に、当時はダイキン本体の役員だった峯野副社長をメンターにつけていたのです。

「朝田には普通のメンターではダメだ」と会長の指示で峯野副社長をつけてくれていたようです。7万人以上従業員がいる会社で、会社のトップが若手のペーペーまで目をかけてくれる会社はありえないと思います。

これは想像ですが、「サラリーマンに向いていない」という私の気質を、会長が見抜いていたのだと思います。興味のあることだけ全力投球し、直感型で動く。普通そんな人間は大企業ではやっていけないと思うのですが、あえてそういう人を入れて副社長をメンターにつけるところ、ダイキンという会社は本当に変わっていると思います。

そういった経緯もあり、メンターであった峯野副社長に退職を報告しました。

すると、全く話を聞いてないのか、ほな次インドどうや。ほな次ルワンダどうや。と思いつきで色々打診をしてきます。

峯野副社長自身も学生時代はヒッピーとしてさまよっていた人で、入社後はダイキンのグローバル事業を築いてきた戦士の1人です。
↓インタビュー記事は面白いです。
(通常の会社のインタビュー記事は目にすることのない内容になっていると思います。)


ルワンダは峯野副社長の完全な勘違いで、隣のタンザニアでした。
そんな経緯で、2019年9月からダイキンの一事業としてタンザニアに関わり始め、2020年6月よりエアコンのサブスクリプションサービスを提供するBaridi Baridiという会社がスタートすることになったのです。

↑創業の日に書いたnote。もし興味があれば。

最後にまとめを書こうと考えたのですが、明確に何かを伝えたいということはなかったです。まず、自分がやってきたことが人にオススメできるとは全く思っていません。ですが、読んだ人に何かしら響くところがあり、漠然とでも、何か伝わったら良いなとは思っています。

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