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ケモノ ( KEMONO ) という曲について ( Hiroko's Monthly Tune Project #4 )

何らかの楽曲を月イチで発表する私のプロジェクト、Hiroko's Monthly Tune Project ( HMTP ) #4、2020年2月度の曲は『ケモノ』。配信中です。

これはもともと2014年に作った「ヘル」という名前の曲で、歌詞も「黄泉」の部分が「地獄」だったんですが、地獄って、考えてみると閻魔様とか鬼がいて、鍋で煮られたり、石積んだり、なにか(私の中では)「罰、責め苦を受ける阿鼻叫喚な場所」感が強いなあと。
でもこの曲でイメージしていたいわゆる「ヘル」は、そういう叫び声が聴こえてきそうなのではなく、静まりかえった感じだったんですよね。もう少し日常と地続きで「冥(くら)い場所」。地獄よりは、冥界とか、ハデスとか、黄泉の方がまだイメージに近いなと思い、2014年以降歌詞を書き直していく中で「黄泉へと続く扉」になりました。もう、この世のものでない存在が行く場所、のような感じかな。
あとこの曲は、古事記に出てくるイザナギとイザナミの黄泉比良坂(よもつひらさか)のイメージにもややインスピレーションを受けています。それをモチーフに書いたわけではないのですが。

本意じゃないこととか、手に余ることとか、それに対処できない日々がずっと続くと、世界と調和する朗らかなリズムを見失ってしまい「明日が来なければいいのに」と思ったりすることがあります。そんな深夜は、枕元の闇に冥(くら)い世界への入り口があるような感じがする。
「あの記憶はもはや幻にさえ思える。あれはもう二度と手に入らないんだな・・・」などと思い始めると良かった過去の記憶がいっそう虚しさを煽り、「過去」が良いと強く思えば思うほど相対的に「今」が良く思えなくなくなっていく、というマイナス思考のデフレスパイラルも勃発します。しかもそういう退廃的な気分って辛いわりにある意味甘美だったりするのよね(マゾヒスティック)。そんな過去に執着しなくてもいいのに。

退廃的な気分から一念発起してイザナギが黄泉へ行ったみたいに行動を起こせば、あれこれ展開してケリがつくかもしれません。避けがたい大きな悲しみに正面からぶち当たる代わりに、その後のストーリーに欠かせない神様が新たに何人か生まれたりするかも。

「明日なんて来なければいい」時のどん底の理由は人それぞれなので、どう動くべきかの最適解は各々の心の声に従うべしでしょうが、いずれにしろ、自分の人生にやってくる憂鬱な袋小路期間も、たまには存在を許してやってもいいのではと個人的には思います。
ちなみに私が憂鬱だった時期は、今から思えばだいたい貧血でした。本当に心と体は連動しています。よく食べ、よく動き、よく寝よう。
この曲は別に古事記をテーマに書いたわけでも、メンタルヘルスをテーマに書いたわけでもないですが笑、ただ思うのは(人とはぐれたとしても)自分の声を抱いて自分で歩くことは忘れずにいたいということです。

過去のことに整理がつかないまま世間とはぐれて荒野を歩き出したとしても、動いてさえいればいつか何かや誰かと必ず出会うはず。
そうすればそのうちいつのまにか世界の見え方も変わっていき、自分の夜に魑魅魍魎が跋扈していたことも忘れ、「今日は星が美しいね〜」とか言ってたりするものなんじゃないかなーと思います。

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