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「話がしたいよ」について話がしたいよ~BUMP OF CHICKENと君と僕への手紙(の旅路)~

※2020年4月16日に掲載された音楽文です。ヨシオテクニカさんとの共作です。ご本人から了承を得た上で、当方のnoteへ転載しました。

はじめに、これは音楽文とBUMP OF CHICKENが好きな二人の対話による「話がしたいよ」にまつわる音楽文である。

曲の話のまえにまず僕は、話をすることについて考えてみる。

 呆れるくらい自問自答 やっぱり答えはないみたい
 「大我慢大会」

就職してひとりで暮らすようになってから、あたりまえなのだけど人と話す機会が減ったように思う。
もちろん声はだす。その声で仕事の話をしたり吉野家で注文をしたりする。でも、それだけかもしれない。仕事は仕事だから話という話ではないし、それにもしかしたらどうかとは思うけれど、いままでにひとことも声を発さない日もあったんじゃないかと思う。だからなんとなく、言葉はじぶんのなかだけにあるような感覚があった。

 一人で生きていくもんだと 悟った顔 一人でも平気な 世界しか知らない
 「イノセント」

休日はひとりで小説を読んで、ひとりで音楽を聴いて、感じたものをいろいろと考えながら過ごす。なぜこの小説はすばらしいのか、なぜこの音楽は美しいのか、なぜこの小説はおもしろく感じられないのか、なぜこの音楽は好きになれないのか、そんなことをずっと考えていると気持ちが膨らんでいくような感触があった。でも、それはどこにも発散されることはなくて、頭のなかにしずかに積もっていくばかりだった。

 そいつを さぁ 精一杯の大口で耽美に語ればいい
 「グロリアスレボリューション」

だから、たまにひとと会って話をする必要がある気がした。そんなことのために友だちを付き合わせるんじゃないと内心反省しつつ、話をするとたしかに確実にじぶん自身がすこしクリアになっていくようだった。頭のなかにある抽象的な《想い》が《言葉》になることで具体的になる、そこには新鮮さや驚きが伴った。俺はこういうことを思っていたのか、こういう意見にはこう反応するのか、という具合に。

 言葉は上手に使ったら 気持ちの側まで 近付けるけれど 同じものにはなれない
 「アリア」

でも、もちろん抽象と具体は別のもので、《想い》を《言葉》にしてしまうことには、誤訳の余地が十分にある。抽象的な《想い》にぴったりはまる《言葉》が都合よくあるわけじゃないし、知っている語句の数にも依存してしまう。"うれしい"と"かなしい"が合わさった感情だってあるし、"たのしい"と"さみしい"が入り混じった気持ちだってあるから、そのどれかを選んだとき意味は固定されてしまい、選ばなかった他の意味はささやかだけれど確実に失われてしまう。それはとてももどかしいことなのだけれど、このもどかしさは何かに向けて話をしないと感じられないものだから、わるいことじゃないんじゃないかなと思った。

 一本のコーラを挟んで座った 好きなだけ喋って 好きなだけ黙って
 「記念撮影」

話をすることの効力。それはじぶんの抽象的な思考の具体化だけではなくて、会話をする相手を知ることやじぶんを知ってもらうことにもあるなと思う。そしていくぶん飛躍気味の考え方かもしれないのだけど、話をしてじぶんのことを知ってもらうことで、はじめて外側の世界に僕が認識されて、それで世界と繋がれるというか、その時点ではじめて《言葉》によって存在が定義されてひとになるんじゃないか、という気もしている。

 僕の事なんか ひとつも知らないくせに 僕の事なんか 明日は 忘れるくせに
 「ベル」

それはどういうことかというと、たとえば僕が近所の野良猫十匹に毎晩こっそり餌をやって彼らの健康状態を案ずるという対野良猫用あしながおじさん的な活動を仮に行っていたとして、その事実をだれにも話さず知られずにいたとしたら、果たしてその夜のやさしい一面は"あった"ことになるんだろうか? 誰も知らず《言葉》にもならなかったらそれは"ない"こととほとんど変わりがないんじゃないか? なんてちょっと妙なことを考えたりする。知られて、認識されることこそが、そのひとを象っていくのではないかとひそかに思うのだ。

 君と会った時 僕の今日までが意味を貰ったよ
 「新世界」

だから、ひとと話して知ってもらうと、そこで初めてひとになれるような感覚があるし、その逆も然りで、ひとと話して知っていくことで、そのひとを象ることにささやかに寄与できているのではないかなと思う。
こういう僕の考え方は青くさくてセカイ系的でひとりよがり寄りの錯覚にすぎないんだろうか。これらは至極あたりまえの話かもしれないし、見当外れの妄想なのかもしれない。でも、ひとりでいると、そんなことをずっと考えてしまうのだった。

 触れて確かめられたら 形と音をくれるよ あなたの言葉がいつだって あなたを探してきた
 「Aurora」

話をすることの個人的な必要性のようなものについて話をしてきたけれど、抽象的な《想い》を具体的な《言葉》にする行為は、もちろん話すことだけではなくて、文章を書くこともそれにあたる。ずっと小説を読んで音楽を聴いてきたから、そのふたつには憧れがあって、その憧れはいつしか、あたまのなかで蓄積し堆積していった音楽に対する《想い》を、どうにか《言葉》にして綴れないかなという欲求に変わっていった。

 どうしたくてこうしたのか 理由を探すくせがある
 「GO」

そんな折、ロックミュージックを専門とする出版社が音楽の文章を募るサイトを運営していることを知り、これだよと思う。覗いてみるとそこには銘々の投稿者たちによる銘々の音楽に関する愛情が綴られた文章がにぎやかに並んでいて、みんな話をしたがっていた。市井のひとたちによる私的な視点による文章はまるでひそかな打ち明け話をしあっているかのようで、読むのがとてもたのしい。そして、ここにじぶんの音楽の文章も混ぜてもらえないかな、と思った。

 伝えたかった事 伝わったのかな 伝えたかった事ってなんなのかな
 「You were here」

僕のなかの《想い》を下手でもなんでも《言葉》にしてやりたかった。それをあたまのなかから表出させてやることができたなら、もっとじぶんのことを知れるんじゃないか、象らせことができるんじゃないかと思ったのだ。それにただ書くだけではなくて、話をするかのごとくどこかのなにかに、反応は得られなくてもなにかを伝えてみたいという思いがあったから、音楽に関する文章を書いてそのサイトに投稿するということは個人的に意味のあることだったし、単純にとてもたのしかった。

 宝物の電気スタンド・筆・机 空腹も忘れて ひたすら絵を描く
 「ベストピクチャー」

虚空に向けて話をするつもりで文章を書いて、だいたい月に一編のペースでサイトに投稿を続けていると、おなじように何度も音楽にまつわる文章を書いて投稿しているひとたちに対してはなぞの親近感を覚えるようになってしまっていた。掲載された文章を読むことで、話を聞くことで、そのひとのことを知ってしまっていく。決して交わらない一方通行だらけのコミュニケーション、それはまるで同じ架空の山に対して異なるコースからみなが頂上を目指しているような感じがした。

 見えない壁が見えた時には その先にいる人が見える
 「虹を待つ人」

なかでも、僕と最初の掲載の時期や年齢や投稿ペースが近いあるひとに対しては、なんというか勝手に同期感というかライバル心を抱くようになっていった。ああ、あのひとまた掲載されている、俺も書かないと。ああ、あのひとまた賞を受けている、かなわないな。といった具合に。
心象風景としては前述の架空の山にてそのひとは遙かにうえのほうを登っているイメージだった。たまにちらっと影がみえる。登りつづけていればいつかばったり会えるかもしれない、そうしたら、話をしてみたいかもしれない。

 ねぇ一体どんな言葉に僕ら出会っていたんだろう
 「話がしたいよ」

話をすること、話をしたいことについての文章をBUMP OF CHICKENの歌詞を都合よく引用して書き進めているのだけれど、書きたいことに対してもう先回りして歌われているようで勝手におもしろさを感じているし、なんでこんなにも都合がいいんだろうかと思う。
たとえば歌詞において話がしたいなんてテーマはそんなにたくさん歌われているものじゃない気がする。愛や友情や夢を語るものでもなく、それに至るぜんぜんまえのはじめの段階であるはずの、ただ話がしたいという気持ちなんかは。



私は臆病者だし孤独が好きだ。でも他者からあまり嫌われたくない。深入りしなければ、好かれない分、嫌われずに済む。つまり極力一人で過ごせば平和に暮らせる。そう信じてひっそり生活していた。

 肩を擦るように避けながら 世界に何億人いようとも ひとり
 「流れ星の正体」

けれど音楽と文章好きが相まって、募る思いが沸き上がり、音楽文に独り言を吐き出すように投稿し続けていたら、コメント機能があった当時、同じ書き手の人からコメントをもらえた。何度も受賞されている人だから名前を覚えていた。すごい人から話しかけられたと勝手に舞い上がった。

 魔法の言葉 覚えている 虹の始まったところ あの時世界の全てに 一瞬で色が付いた
 「アンサー」

始めたばかりのツイッターで改めて知り合い、私は「話がしたいよについての音楽文を一緒に書いてもらえませんか?」と何気なく話を持ち掛けた。その人は快諾してくれた。
自分でも不可解な行動だと認識していた。誰かと一緒に書くなんて難しいし、煩わしいはずなのに。単独で綴った方が断然ラクに決まってる。それなのになぜか彼と共作したい気持ちの方が勝っていた。似た思いで音楽文に取り組んでいると共感してくれた彼ならきっと一緒に書いてくれると信じたから。

 すぐ素直になれるよ それが出来るように出来ている
 「新世界」

彼は定期的に進捗状況を報告してくれて、期日に素晴らしい音楽文を送ってくれた。先に私の音楽文を共有しており、彼の文章を読んだ途端、自分の文章を修正したくなった。そして初めて他者の音楽文を熟読する作業に取り掛かった。一読することはあっても、何度も読み頭に叩き込むのは初めての作業で、それはあえて避けていた。敵わない書き手の文章に感化されることを恐れていたから。でも怖いなんて言えない。共作したいと願ったのだから。彼の音楽文を頭にインプットした。

 とても素晴らしい日になるよ 怖がりながらも選んだ未来
 「GO」

彼の音楽文は理路整然とした秩序の元、丁寧に構成されていて、客観性がある。冷静な分析力、落ち着きのある文章。音楽理論も詳しいし、私には真似できない力を持っている。「話がしたいよ」の考察も彼らしく、たしかな秩序があった。同時に小春日和のような穏やかなやさしさも感じ取れた。まるでコスモスだ。秩序ある宇宙のようでもあり、花びらの整った美しい花のようでもあると思った。

 橋の向こうで出会ったヤツは 太陽によく似た姿だった
 「ダンデライオン」

一方私はいつも感情任せで、文章が崩壊している時さえある。吠えるような勢いだけで、秩序や均衡は欠落している。混沌とし、まるでカオスな音楽文ばかりだ。山登りの比喩があったけれど、最初は登っていたはずなのに、同じ頂上を目指すどころかコースから逸脱し、沢遊びでも始めてしまったような向きさえある。

 もし生まれ変わるなら お前の様な 姿になれれば
 「ダンデライオン」

そんな私が、共作をお願いしたこと自体、無謀だったかもと不安にさえなった。けれど言い出したのは私の方。せっかく書いてもらえたのだから、完成させたい。気を引き締めて軌道修正に取り掛かった。

 同じものにはなれない 抱えているうちに 迷子になったよ
 「アリア」


僕がもらったテーマはBUMP OF CHICKENの「話がしたいよ」という曲で、この唄は待っているバスが来てドアが開くまでのみじかい時間を丁寧に切り取った曲なのだけど、そのバスを待つ間に"僕"の思考は"一人"と"君"と"宇宙"の間を往き来していて、これはミニマムなのか壮大なのかわからない振れ幅があるなと思う。

サウンドもそれに呼応しているのか、ミニマムなのか壮大なのかわからないように感じる。ミニマムというのはまずこの曲がアコースティックギター一本の弾き語りで十分通用するというところを指したくて、ひとりだけで演奏してもきっと曲のよさが十全に伝わるはずの、ちいさくてとてもいい曲だと思う。
それをピアノとストリングスと合唱で懐のひろいきれいな仕上がりにしている。こういう構造は過去の曲でいえば「花の名」や「友達の唄」や「グッドラック」なんかも該当して、どれも映画の主題歌に起用されているのだから、ひろがりのある壮大な味付けを目指すのは当然のことだろうと思わなくはないのだけれど、この「話がしたいよ」ではそのうえでさらに右側から感情の赴くままに一発録りしたような、まるで彩ったきれいさをわざとすこし汚すかのように荒く歪んだブルージーなギターが途中からずっと鳴っていて、またおもしろいなと思う。
ミニマムさと壮大さの対比、綺麗さと荒さの対比、それはどっちつかずというか、どっちもあるというか、どっちにもとられたくないというか、そんなアレンジにこの曲はなっている。
くわえてボーカルの藤原基央の歌も優しく素直に歌ったり、ちょっとブルースやソウル的に歌い上げるところがあったりして、ここでもちょっとしたどっちつかずさを感じてしまう。

ミニマムなのか壮大なのかわからない、どっちつかずな不思議な曲。でもそのふたつの要素はじつはおなじものなんじゃないかと思わせられるところがあって、それはどこかというと2回目のAメロで突然登場するボイジャーの話がしたい。

 ボイジャーは太陽系外に飛び出した今も 秒速10何キロだっけ ずっと旅を続けている
 「話がしたいよ」

見えないものを見ようとして望遠鏡を覗きこむ節のある藤原基央による歌詞は、ここでもしっかり宇宙に思いを馳せていて、何の脈絡もない風に無人惑星探査機であるボイジャーにふれる。
リリース時に聴いたときは特別な意味みたいなものは感じなくて宇宙だな、とだけ思ったのだけど、でも、もしここでふれているボイジャーが、1977年の夏にアメリカのフロリダ州から宇宙にむけて飛び出したボイジャー1号とボイジャー2号の両機をまとめて指しているのだとしたら、話はすこし変わってくる気がする。
もしそうだとすると、同日に2機打ち上げられる予定だった(実際には2週間ほどずれたのだけど)ボイジャーたちが"僕"と"君"を歌ったこの曲にでてくるのはたまたまでも"それの何がどうだというのか わからないけど"でもなんでもなくて、これは別々の場所に向かうことになったのかもしれない"僕"と"君"のただの比喩なんじゃないかと思ってしまってもいいような気がする。
このこじつけのまま話を進めると、これはどうしようもなく切なくて、そしてロマンチックだなと思う。すこしちがう軌道でともに太陽系の外に旅立った、同じようにしていても他人同士だったボイジャーたちを"僕"と"君"の関係になぞらえているのだとしたら。

 ああ 君がここにいたら 君がここにいたら 話がしたいよ
 「話がしたいよ」

僕は彼らの曲によくでてくる宇宙の話は"完全にはわかりえないもの"の比喩としていろいろな形で機能しているんじゃないかとにらんでいるのだけど、だからこそ、話がしたいと思うのかもしれない。わかるために、わかりあうために。



このように彼はやはりすごい人で私が言いたかったことを見事にまとめてくれた。この楽曲は歌詞もサウンドも一見ミニマムなようで実は壮大にも感じられると。孤独なつぶやきのようで、サビになると観客を感動させるミュージカルのような壮大さが見られる。

彼の音楽文を読む前、私はこんな話を綴っていた。

この楽曲で私が感じることは、唐突に始まって余韻を残して終わるというサウンドと歌詞のバランスの良さである。前奏はなく、急に始まる和音と同時に急に始まる《バスが来るまでの間の おまけみたいな時間》という退屈な時間が幕開けする。バスって定刻通りだと待ち時間は短いし、遅延していると、長く感じるものだ。手持ち無沙汰にスマホで音楽文などを読み始める。つまり退屈な待ち時間は他者を考える時間へと変化する。スマホを眺めながら他者を知り、物思いにふける間も、自分以外の空間は忙しなく動き続けている。《街が立てる生活の音に 一人にされた》という状況が続く。

最初は控えめな音数から始まって、サビに近付くにつれて音数が増えて、壮大なメロディへと変貌する。《だめだよ、と いいよ、とを 往復する信号機 止まったり動いたり 同じようにしていても他人同士》という歌詞の通り、よく利用するバス停目の前の大通り、計六車線に列を連ねる車は信号機に忠実に従って時間の流れを規則的に作り続けている。街場のせいか、車の速度は速い。ものすごいスピードで世の中が動いていると実感できる。けれど信号機が赤になればちゃんと止まる。そのわずかな時間だけ、バス待ち人と車が同化する。待ち時間って置いてきぼりな感じがする。急いでいる時は誰か乗せてよと考えたりもする。つまり孤独な時間も結局誰かのことを考えている。"おまけみたいな時間"は誰かを思う時間でもあるんだと気付いた。

一番のサビが終わり、ボイジャーから始まる二番も引き続き、音は多いまま奏でられる。一番では間近な信号機だったのに対して、二番になると太陽系外のボイジャーという離れた距離にあるものに対しても、思いを馳せる主人公。そして《自分の呼吸の音に 耳澄まして確かめた》という自己の存在確認。身近な街から見えない宇宙空間まで考える時間があるということはバスが遅れているのだろう。でも彼はその時間を有意義に過ごしている。孤独な時間も君のことを考えているから、寂しくないし、退屈な時間も愛おしい時間に変化する。それは彼の君を思う気持ちによる魔法のような時間の変化である。《元気でいるかな》とか《こういう事を思っているのも一緒がいい》とか二人で過ごした時間は決して戻らないし、時間は残酷なもので、《抗いようもなく忘れながら生きているよ》とその幸せな時間を記憶に留めておくことさえできない。それでも今も《まだ覚えているよ 話がしたいよ》と君のことを思い続ける彼の気持ちがあるからこそ、"おまけみたいな時間"は愛しい時間へと変わるのだ。

《肌を撫でた今の風》、《底の抜けた空》、《夏の終わる匂い》、体で感じたすべての情景によって、さらに君の記憶を蘇らせる。君と離れて一人の間も《体と心のどっちに ここまで連れて来られたんだろう》と自分の意志とは無関係に時間は流れ、何とか生きていて、新たな目的地へと前向きな気持ちになった矢先も、君を彷彿させる"風や空や匂い"と出会ってしまう。未練など負のイメージではなく、君に対する思いを抱いたままでいいよと、プラスに捉えさせてくれる"風、空、匂い"。それらはお医者さんから処方されるどんなお薬よりも彼を癒しただろう。

君と今の自分に思いを馳せる歌詞は《バスが止まりドアが開く》という最後まで続き、《話がしたいよ》と繰り返して、自分の気持ちを整理し、過去に執着しているようで、未来に希望を見出した途端、壮大なサビの旋律から、最初の音数が控え目な旋律に戻る。音数が減り終わり方として一般的な感じに見せかけて、最後がまるで新しい楽曲の始まりのようなコードで終わるから、これは終焉ではなく、始まりの歌だと思った。何しろ《ドアが開く》と締め括られている。閉じたのではなく、開いたということは新しい人生の始まりを物語っており、孤独そうなのになんてポジティブな音楽だろうと、個人的に大好きな楽曲だ。
君と一緒に過ごした時間に未練があるようにも見えるのに、過去ばかりに捕らわれる重苦しさはなく、《平気さ お薬貰ったし 飲まないし》というように気持ちの切り替えがさばさばしているし、君に対しても、執着ではなく愛に溢れる気持ちが見えるから、もしも失恋ソングと捉えても良いなら、新しい形の失恋ソングだとも思う。
過去を引き摺りつつ、戻るのではなく、未来に向かって歩いていくような、全部の時間を手放さなくていいんだよと藤くんの歌詞から教えられた気がする。止まらずというよりは、「話がしたいよ」で軸となっている"おまけみたいな時間"は停滞時間であり、その時間も必要で、だけど停止し続けるのではなく、その時間を満喫したら前に進むという勇気ももらえた。君と過ごした過去もバスの待ち時間も、ドアが開く未来も全部、共通して言えることは君と《話がしたいよ》と思える彼の思いは変わらないということだ。自分らしく生きていこうとする主人公を清々しく感じられる楽曲である。

というように私は単純に"君"と"僕"を人間と捉えていたけれど、その人が教えてくれた、ボイジャー1号2号を指しているのではないかという推論。妙に納得してしまった。
無知な私はその話自体知らなかったし、一緒に書いてもらえませんか?と話し掛けなければ知らなかった話をたくさん教えてもらった。つまり「話がしたいよ」という気持ちを伝えたことは決して間違ってはいなかったと思えた。嫌われることを恐れず、勇気を持って話し掛けてみて良かったと実感した。
私にはボイジャーのように人類に貢献できる力などなく、もしも宇宙にいたとして星屑みたいな存在だ。惑星の軌道から外れて、行き先さえ不明の混沌とした小さな存在だったけれど、ボイジャーや天体のように秩序を伴って規則的に動き続ける勇者のような頼もしい存在に憧れた。秩序ある宇宙(コスモス)に近づきたいと願った。だから彼に声を掛けてしまったんだと思う。

もしも音楽文で出会いがなければ、いまだに独りよがりなことばかり書いていただろう。「話がしたいよ」という楽曲と出会っていなければ、誰かと話がしたいなんて想像もしなかった。だから私は音楽文にもバンプにも感謝している。そして誰より、一人では決して書けない対話を通じた音楽文を共作してくれたヨシオテクニカさんに感謝したい。この楽曲だからこそ、対話しながら書いてみたかったのだ。

話がしたいなんて珍しいテーマの楽曲を作ってくれたこと、ミニマムすぎるポケットなど身近な所から壮大な宇宙の果てまでイメージさせてくれる藤原基央の歌詞とサウンドに出会えたことに幸せを感じる。ミニマムでちっぽけな世界にも密かに宇宙のように広がる誰かを思う気持ち、壮大な宇宙空間にも漂う星屑のような小さな孤独をこの楽曲を通して藤原基央が教えてくれた。

話すことによって人が象られるってこういうことだろう。カオスな私の思いが少しだけ秩序を成して、象られ始めた気がする。憧れのコスモスに近づけた感覚になれた。

数年前、山中勉著『空を見上げて』を読んだ。大震災の被災地・女川の中学生が紡いだ五・七・五の句に対して海外からも七・七の句が届き、多くの連句が完成し、ディスクに収録され、ロケットで打ち上げられ国際宇宙ステーション「きぼう」に保管中という夢のある実話を知った。本文中には《寂しいとき、つらいとき、この星(きぼう)を見上げれば、女川町の友人と、世界中の人々が重ねた心を思い出すことができます。》とある。心を重ねる連句に心惹かれた。私もいつか誰かと共作したいという新たな夢がその時、生まれたのだ。

これに倣いバンプの元へも届くようにと希望を託し、最後に二人で短歌を詠み合ってみた。



 あきらめて迷子になりて幾星霜 みつけたコスモス話がしたいよ (小林宙子)

 バスはゆく正しいリズムで揺れている はなしつかれたひとりがふたり (ヨシオテクニカ)

 言葉ならガムごとくるみ隠してた それでもいつか唄になるから (共作)

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