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翁(おきな)と媼(おうな)

今日のおすすめの一冊は、玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)氏の『釈迦に説法』(新潮社066)です。その中から「渋柿の 渋そのままの 甘さかな」です。

本書の中に「翁(おきな)と媼(おうな)」という心に響く文章がありました。

人生という時間に対する捉え方もいろいろである。生まれてから次第にちゃんとした人間になって、そしてどんどん成長して、やがて衰えて死ぬ、というのが一般的だろうか? 

しかし、脳の機能は生まれた時が最も発達しているという説もある。それだと、完全な人間として生まれたが便宜上この世で生きるために脳機能を衰えさせ、そして最後にはまた完全な状態に戻って旅立つ、ということになる。 

どちらも極端ではあるが、前者はどちらかといえば欧米的、後者は東洋的ということだろう。つまりそれは、明晰さ〔ロゴス〕に価値を見いだすか、混沌(カオス)に価値を見いだすかの違いである。 

人間、ある年齢をすぎると、加齢にしたがって理論や数字に弱くなっていくのは確かなようである。しかも現在の日本は、そうした理論や数字を異常なほど重視する。だから老年期にさしかかると、次第に衰えていく自分を厭でも感じさせられる仕組みである。 

しかしそれは、どちらかというと欧米から輸入した考え方の影響である。 日本には古来、「翁(おきな)」という考え方がある。もちろん女性の「媼(おうな)」も同様だが、それは愛でたい人間像と捉えることができるだろう。

そしてそのイメージは、豊かで円満な情緒と、優しさではないだろうか? 若い時の刺々(とげとげ)しさや偏って激しい情緒が、風雪にさらされるように丸みを帯び、角がとれた状態

それは禅でも、例えば「松老い雲閑(しず)か」などといって愛でる。また「閑古錐(かんこすい)」という、古くなって先が丸まった錐(きり)を愛でる言葉もある。

いずれにしてもそこでは、 無駄に人を傷つけることのない、閑かで味わい深い人間関係、あるいは自分の感情の動きを雲のように眺める余裕が表現されているのだろう。 

理論や数字には弱くなっても、人間の総合的判断力は死ぬまで上昇しつづける、という分析がある。ここでの総合的判断力とは、我々がふだん「勘」と呼んでいるものだろう。少年期の、自己を分裂させかねない偏った勘ではなく、もっと総合的な、深い勘で ある。 

私は、そうした考えに触れたとき、ひどく嬉しかったのを覚えている。 お年寄りに心から敬意を表する根拠を得たような気がしたのである。 むろん形の上での敬意を、年長だからという儒教的な理由で示すことはできる。

彼らの過去の時間や仕事を、その時の価値において誉めることも当然できる。しかしそうではなくて、彼らの今を愛でたいと思う。その根拠を戴いた気になったのである。 こちらの感じ方も大事だが、しかし、もっと大事なのは翁や媼たち自身の自覚だろう。 

自分は総合的にどんどん上昇しているのだ、という自覚がご本人にあってこそ、彼らの今が眩しいほどに輝きだすのではないだろうか?


「カンというと、一般的には何となく非科学的で、あいまいなもののように思われるけれども、修練に修練を積み重ねたところから生まれるカンというものは、科学でも及ばぬほどの正確性、的確性を持っているのである」道をひらく/松下幸之助

松下幸之助氏に限らず、ソニーの井深大氏、サントリーの佐治信忠氏、等々の名経営者は一様に勘が鋭かった。勘は二種類ある。一つは勉強していない人の当てずっぽうのただの勘。もう一つは経験と勉強に裏打ちされた深い勘だ。

歳を重ねれば重ねるほど、人格が磨かれ、角もとれ、それでいて勘も鋭くなる翁と媼を目指したい。

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