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蚕から紡ぐ糸の先

養蚕業(ようさんぎょう)は、カイコ(蚕)を飼ってその繭から生糸(絹)を作る産業である。遺伝子組み換えカイコを用いた医薬素材の生産や、カイコ蛹を利用して冬虫夏草(茸)を培養するといった新しいカイコの活用も進んでいる。

Wikipediaより

世界遺産 群馬県の国営・富岡製糸工場を知らない人はいないだろう。では、その繭(まゆ)はどこから?と考えた人はいるのか?

小星養蚕試験場=源蚕地(げんさんち)である。
場所は徳島県美馬市脇町小星。

桑畑を試験場周辺と小星の集落全体に有し、周辺農家が桑で蚕を飼いながら、試験場は蚕の飼育だけでなく、指導員を農家に派遣し協同でまゆつくりを研究試験を繰り返していた。
つまり、富岡製糸の前工程的役割をしていた。
源蚕地では、桑畑の桑を蚕に食べさせて飼育し、まゆを完成(生産)させていた。

そして、富岡製紙工場は、まゆを加工し絹糸にするための製造(製糸)工場である。

養蚕は斜陽産業になると国は撤退して、県が管轄した。

            小星ファンクラブより

美馬市脇町は藍商として栄えてきたが、明治33(1900)年を境にインド藍やドイツの化学染料が輸入されるようになり急速に衰退したため、桑作(養蚕)が吉野川中〜下流域を中心に展開した。
現在美馬市脇町の美馬市交流センターミライズがある場所には筒井製糸工場があった。筒井直太郎と父善吉が設立した。
善吉は元藍商であった。ここで家紋を見てほしい↓


二つ並べると目玉にしか見えない
赤と緑の色を使用


丸に釘抜き紋

釘抜きは戦地で敵陣を抜いて城を取り勝利をてにするという縁起かつぎから、武門で用いられた家紋です。九の城とかいて釘をあてたとされます。 元来皇室由来の菱紋が変化し宇多近江源氏佐々木氏に用いられた四目紋から一目紋となりこれを釘抜きと称したもの。

家紋の由来より

かつてここは、猪尻侍(稲田屋敷)の領地であった。皇族と関係深い地域でもあり、
昭和天皇はここ筒井製糸工場に来徳している。


1943年(S18)脇町工場を日本蚕糸製造株式会社
       に引き継ぐ
1944年 筒井航空工業株式会社発足
     鴨島工場を航空機部品製造工場とし
     部品は兵庫県川西航空機株式会社
1946年 脇町工場の返還
     筒井製糸工場にて脇町キリスト協会
     の集会が行われていた。



秦氏は熱狂的な原始キリストのネストリウス派の信者である。
4世紀にキリスト教の正統の教義とされたアタナシウス派の三位一体説を否定する有力な教義であったが、431年のエフェソス公会議で退けられ、ネストリウス派は異端とされた。

アルテミス神
胸に卵がたくさんついている豊穣の神
バチカン美術館のガイドによると、この古代の豊穣の女神は雄牛の睾丸で装飾されているという


当時このエフェソスは、アルテミス女神信仰の中心地だった。
後に布教を行ったキリスト教の使徒たちは、このアルテミス信仰と対峙していくことになる。

(詳しくは、新約聖書・使徒言行録19.1〜使徒パウロの宣教とエフェソでの騒動をお読みください)


多神教は、農耕民族である日本における自然崇拝と同じような側面ももっていたようで、雨ごいや天災回避祈願などの際にも、神殿を活用した儀式がおこなわれていた、とのことです。当時信じられていた多神教に関係して、オリンポス神殿などの神殿が各地に建設されていたが、その中でも規模ににおいても荘厳さにおいても、抜きんでた存在を目指していたアルテミス神殿は、まさに多神教の象徴ともいえる存在でした。こういった存在であったことも関係して、当時生きていた多くの人々の信仰や耳目を集め、常に多くの参拝者でにぎわい、それがゆえに時には放火や破壊などの標的としても取り扱われるようになった。そんな中で後年、信仰の大きな転換期を迎えていく。いまや世界の三大宗教に数えられる信仰のひとつ、キリスト教の広がりです。    
               
世界史の窓より


(苦しい生活を乗り越えさせるために信仰という心の拠り所を与える偽キリストや神仏教は偽善者達です。

秦氏がネストリウス派でこのアルテミス神を崇めるため形を変えて神仏を多神とし信じさせる宣教を図ったのかもしれない。そして、胸の卵が蚕ならそれはアルテミス神の化身とも言っていい。
恐ろしいことだが、今でもそのような者たちは存在していて、特に日本は本当のキリスト教が伝わっておらず弾圧されていた。が今、新たに本当の信仰を求める者が増えている。



終戦により航空機産業から撤退。解散。
現在の筒井産業株式会社となる。
ホテル事業、docomoショップ、太陽光発電・マルベリーソーラーファーム(マルベリーは桑の実のことを言う)、保険代理店業務、不動産賃貸業、布団のクリーニング事業などの総合商社へ発展している。

川西の下請けに、松下航空機会社もあった。
松下電器産業(現・パナソニック)が海軍の要請で飛行機の製造を目指して設立した会社。松下航空機の設立には、松下創業者の松下幸之助や後の三洋電機創業者井植歳男らが絡んでいる。

昭和25年ごろ、筒井製糸工場へ昭和天皇来徳記念
徳島市図書館提供

昭和天皇が視察にまできた養蚕とはそれほど興味深いものなのだろうか?

参考)RAPT×読者対談〈第63弾〉
昭和天皇が人間宣言をした本当の理由。

https://rapt-neo.com/?p=35094

昭和天皇は出雲族です。これはパフォーマンスでしょうか?金と権力が有ればプライドなどなくなったのか。。。



養蚕の起源

中国大陸にあり、浙江省の遺跡から紀元前2750年頃(推定)の平絹片、絹帯、絹縄などが出土している。殷時代や周時代の遺跡からも絹製品は発見されていることから継続的に養蚕が行われていたものと考えられている。

古代バビロニアにおいて、桑の実はもともとは白い実だけとされるが、赤い実と紫の実を付けるのは、ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』という悲恋によるこの二人の赤い血が、白いその実を染め、ピュラモスの血が直接かかり赤となり、ティスベの血を桑の木が大地から吸い上げてになったとされている。

養蚕発祥の地、中国においてはクワは聖なる木だった。地理書『山海経』において10個の太陽が昇ってくる扶桑という神木があったが、羿(げい)という射手が9個を射抜き昇る太陽の数は1個にしたため、天が安らぎ、地も喜んだと書き残されている。太陽の運行に関わり、世界樹的な役目を担っていた。

日本へは弥生時代に中国大陸から伝わったとされる。秦による中国統一(紀元前221年)によって統制が厳しくなったことから、蚕種はそれ以前の時代に船で運ばれたと考えられており、日本が桑の生育に適していたこともあってかなり早い時期に伝来した。

195年、百済から蚕種(カイコの卵)
283年、秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝える
    暫時、養蚕技術の導入

(日本を養蚕の場として中国人が持ち込んだと言った方が早いのでは?)




明治時代に至り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出。養蚕業・絹糸は「外貨獲得産業」として重視され、日本の近代化(富国強兵)の礎を築いた。科学技術研究とともに養蚕技術の発展は行われた。


養蚕する香淳皇后
1955年(昭和30年)6月「日本における養蚕」より

皇后は、神事として毎年「ご養蚕」を行っているが、これは1871(明治4)年3月14日、昭憲皇后によって始められたものである。

∴  神事は中国由来。秦氏(百済からの渡来人であったユダヤの末裔)が、大和朝廷を作り日本を建国し、中国の風習を持ち込んだのだろう。そして、食用にもしてたのではと思われる。中国人は蚕食。香淳皇后は出雲族です。

↓  詳しくはこちらを ↓

参考)ラプトブログより
「明治維新」は北朝から南朝へのすり替えではなく、北朝の国造りのための基礎固めだった可能性大。

https://rapt-neo.com/?p=32398


騒がれている昆虫食コオロギを養成加工販売しているグリラスもここ美馬市にある。
昆虫食は中国がもたらした悪魔崇拝でありその儀式を国民にも植え付けさせている。絶対に食べてはダメだ。拒否して下さい。

∴ 秦氏も出雲族も悪魔崇拝として同じ蚕を共通する重要物なのかもしれない。

どうぞこちらもお読みください↓



1904年、日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。そして、富岡製糸工場で作った糸が軍用機の翼になっていた。
農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称。      Wikipediaより


(養蚕信仰や養蚕儀礼をしていたと思われる。
        →アルテミス信仰の復活?!)

               



木嶋坐天照御魂神社
【このしまにますあまてるみたまじんじゃ】別名・蚕ノ社(京都太秦)

秦氏が広隆寺と共に創建したとも、あるいは秦氏入植以前にこの地にあったものとも言われる。

祭神は、現在は記紀神話に登場する神々となっているが、元は“天照御魂神”と明記されている。この神は、天照大神とは全く異なる太陽神とみなされている。ここからもこの神社が古い歴史を持っていると考えられる。

この神社は地元では“木嶋神社”あるいは“蚕ノ社”と呼ばれているが、本殿の東隣にある蚕養神社からその名が採られている。渡来人であった秦氏が養蚕技術をこの地にもたらしたことと関係する神社と推測できる。

三柱鳥居

秦氏との関連をうかがわせる最も有名なものが、元糺の池に置かれた“三柱鳥居”であろう。「京都三珍鳥居」の1つとして数えられ、3本の鳥居を組み合わせて三角形を作った。(三位一体)

ご存じでしたか?
サントリーの社名の由来は三柱鳥居だそうです。

参考)RAPT×読者対談〈第94弾〉
大震災は天皇家一族(イルミナティ)のボロ儲けの種。

https://rapt-neo.com/?p=38113



また、ここ徳島県美馬市にもユダヤの祭祀場がある。

磐境神明神社
イスラエル南部にある古代都市テル・アラッドの神殿跡に似ていることから、イスラエル系渡来人が築いた古代ユダヤの祭祀場であるともいわれている。美馬市が発行する『広報みま』(平成19年2月号)に、イスラエル駐日大使のコーヘン大使が、市役所を訪れた後、神明神社の磐境を視察された。

白人神社の奥社と言われ、頂上付近の石堤は古代の磐境とされる。

白人神社の伝承、創建は第24代仁賢天皇(在位年代は5世紀末頃)の時代、この地に白髪の老翁が天下り「この谷は聖地なり、神々を祭りしずめ、この地を「宮内」と改めるべし」と告げたことが創建の由来とされている。

徳島県出身の竹田日恵の「竹内文書が明かす超古代日本の秘密」という本で「五社三門」と呼ばれて超古代文明の史跡。

石囲いには3つの門と、中に5つの社がある
白人神社のユダヤ遺跡説・阿波の国の不思議な神社
シリーズ①より




1900年頃には日本は中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になり、1917年には『大日本蚕業家名鑑』が出版。

(本当に?ヨーロッパでの蚕の壊滅は茶番なのでは?)


平行して1895年には綿糸、1918年には合成繊維(スフ・レーヨン)の会社も設立されていたが、養蚕業は1935年前後にピークを迎える。

1929年世界大恐慌
1939年第二次世界大戦
1941年の太平洋戦争
生糸の輸出は途絶した。一方で1940年には絹の代替品としてナイロンが発明。戦災もあって日本の養蚕業は、ほぼ壊滅。

2000年、遺伝子組み換えカイコの作出に成功して以来、現農研機構・群馬蚕糸技術センターなどの研究機関は遺伝子組み換えカイコの研究・実用化を目指す。
2017年、カルタヘナ法による遺伝子組み換えカイコの第一種使用が承認され、養蚕農家からGFP蛍光シルクを作るカイコの飼育・繭の出荷が行われた。遺伝子組み換えカイコの一般農家による飼育は世界初である。   
               Wikipediaより

皇后雅子は、皇居内紅葉山御養蚕所で、養蚕始儀、給桑、繭切り、採種、養蚕納儀をみずから行なっている(宮内庁サイト)

(雅子皇后は出雲族です。)


∴  結局、宮内庁のやらせなんですね。。。



そして、トヨタも創業は織機会社であった。
かなりの軍事資金を産んだことだろう。
民営と言いながら、トヨタは国からの恩恵をかなり受けている。なぜ?天皇から近い親戚だからなのです。トップの会社は全て繋がっている。
藍商も養蚕も航空機産業も権力ある家、財閥ら氏族にあてがわれた金儲けでした。これは今の現代にも続いているのです。

参考)ラプトブログより
トヨタと天皇と安倍晋三はとても近い親戚です。現在も日本経済を支配しているのは、大室寅之祐に与した「田布施一族」です。

https://rapt-neo.com/?p=31962



株式会社豊田自動織機(とよたじどうしょっき、英: Toyota Industries Corporation)は、愛知県刈谷市豊田町2-1に本社を置く日本の機械および自動車部品製造会社である。
1926年11月18日に豊田佐吉が創業。トヨタグループの本家・源流にあたり、現在のトヨタ自動車や愛知製鋼は豊田自動織機の自動車部門や製鋼部門を分社化したものである。   
                Wikipediaより


最後に、美馬市にある四国最古の寺院7世紀後半創建 郡里廃寺(こうざとはいじ)跡がある。

美馬市美馬町字銀杏木・願勝寺にある郡里廃寺(こおざとはいじ)跡は、白鳳時代に創建された県内最古の寺院跡として昭和51年に国史跡に指定されている。
塔、金堂、南大門などさまざまな建物の跡をはじめ寺地の区画(四至)も明確に出てきた。
 これにより寺院は法起寺式伽藍配置で、その規模は奈良の法隆寺に匹敵する七堂伽藍を備えた立派なものである。
 四国の辺地にこのような大規模な寺院が繁栄したことは一つの驚異とされており史跡としての価値は極めて高く評価されている。
       『 美馬町文化財保護審議会 』


法起式伽藍配置
郡里廃寺(立光寺)伽藍配置復元図

郡里廃寺跡段の塚穴の太鼓塚古墳は、約100年の時期差、約2kmという近接した立地であり、地名である「郡里」や交通の要衝である駅屋の存在を示唆する「駅」「馬次」の地名も近隣に存在する郡里廃寺跡は、太鼓塚古墳の被葬者の子孫が一族の氏寺として建立したものであり、郡里廃寺跡を建立した一族が美馬郡を統括した郡司であったことが想像される。

一族のDNAをつなぐために、母方において一族のDNAを繋いでいたとすると、
段の塚穴型石室と忌部山型石室の分布は混在していない、段の塚穴型石室に葬られたのが、郡里廃寺を建立した郡司一族で、忌部山型石室に葬られたのが忌部氏だとすると、両者は明らかに異なる一族である。

段の塚穴に葬られた豪族のDNAは、この吉野川流域に残り、美馬という地名のとおり、馬の飼育が盛んであった美馬。馬の飼育といえば藤原氏だ。忌部氏と藤原氏は存続のため血縁を結んだのかもしれない。

法隆寺にある救世観世音の胸に十字架の木組みがあるという。
秦氏が作った偽キリスト。キリストへの反逆であるとすると、蚕から信仰へ多神を偶像礼拝させるためにたくさんの人の心を惑わせ悪魔へと繋げた罪を今すぐ悔い改めてほしい。

そして、一人でも多くの人が救われ光と恵ある人生を送ってもらいたいと心から願います。


長文お読みくださりありがとうございました。


この後、新約聖書・エフェソの信徒への手紙をお読み頂ければもっと深く悟ることができると思います。

選ばれし君へ
この声が聞こえるなら
答えてほしい


ラプトブログで待ってます


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