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風が吹いた日


 あの日あの風が吹いて、世界は変わった。

 その風は、人の一番大切な『記憶』を根こそぎ奪っていった。


街中には、親に忘れられて泣き叫ぶ子供たち、『運転』の仕方を忘れてしまった事故車両、授業中にも関わらず、急に黙り込む教師など、大小様々な悲劇と事故が蔓延した。

しかもその風は無作為に人の『記憶』を蝕む。誰がどの時点で記憶を奪われるか、全く分からない。奪われた者と残された者が混在し、その悲劇は混沌の一途を辿る。


まさに『おわり』の『始まり』……


街は殺伐としていた。明日をも知れぬ我が身に、部屋から一歩も出ない者たちが続出。当初は宅配などを利用して食料を確保していたが、それらのインフラさえもはや幻と化した。

街中のスーパーや量販店は、明日を憂う暴徒たちの餌食となり、まさに戦場と化した。そこで繰り広げられる奪い合いは熾烈を極め、死傷者も続出するほどエスカレートしていった。

もはや『記憶』は最後の砦ではなく、人を狂人へと変貌させる引き金と化した。







そんな最中、事もあろうか僕は恋に落ちた……


その日僕は食糧確保のため、人通りの少ない明け方を狙い、近隣のモールへと向かっていた。

モールに辿り着くと、予想通り酷い有様でほぼほぼ何もなかった。

僕は唯一、床に落ちていた飴を拾い上げると、次の店に向かおうと出口へ急いだ。

その時だった!


「きゃあぁ!」


甲高い女性の叫び声が響き渡り、僕は足を止めた。

恐る恐るその声の方へ向かう。近づくにつれ、必死に抵抗する女性の悲痛な声が、耳を貫いていく。僕は転がっていた什器の鉄柱を握りしめた。


「おとなしくしろって! すぐ済むから!」


その声の元に辿り着いた瞬間、下半身をむき出しにした男が、女性に馬乗りになっているのが見えた。

その刹那、僕は一心不乱に駆け出し、その男に鉄柱を振りかざした。


「うっ!」

男が倒れ込むと、僕は下敷きになっていた女性をその男から引きはがした。

そして彼女の手を握りしめ、無我夢中で来た道を必死に戻っていった。



彼女の名前はセヨン。半年ほど前から語学留学で韓国から来日し、母国に帰る寸前でこの世界的危機に巻き込まれた。勿論韓国に帰ることも出来ず、併せて住む家もなく、路頭に迷っていたらしい。まあ、路頭に迷っているのは僕も同じだけど……


僕は彼女にシャワーを浴びさせ、残り少ない粉珈琲を水で溶いて差し出した。水道は唯一死守されているライフラインだが、いつ、それが絶たれるか分からない。ペットボトルに溜めて残してはいるが、それも数日しかもたない。僕はその中で一番新しい水で、彼女に珈琲を出した。


「大丈夫? ですか?」

「ハイ、ダイジョブデス」

 

 外国人特有のイントネーションで無事を伝える彼女だったが、マグカップを持つ手とその声は震えていた。

彼女も僕と同様、食料の調達に外に出た際に、出くわした男に襲われたという。衣服はボロボロに裂かれたものの、僕の登場で一線を越える事は免れたそうだ。


「何にもないけど、暫くゆっくりしていっていいよ。あ、安心して。何もしないから……ア、アンシマセヨ?」

 僕のカタコトの韓国語——安心してください——に、彼女は初めてにっこりと微笑んだ。






それからセヨンとの共同生活が始まった。

傷ついた彼女を自宅に残して、僕は外に食料を探しに行く、まさに原始時代さながらの狩猟生活が始まった。

彼女はどんなに収穫が少なくても、決して嫌な顔をしなかった。賞味期限切れのパンや、生ぬるいジュースでも、二人で分け合いながら、その日その日を懸命に繋いでいった。少なからず言葉の壁はあったが、それは彼女の笑顔と存在が帳消しにしてくれた。

そんな毎日がいつの間にか僕を癒し、腹は満たされずとも、心を満たしていった。


セヨン。そう、彼女が今の僕の『全て』になった。



そして冬が訪れ、僕らは互いの温もりを共有するようにして、その寒さを凌いでいた。

毛布の中で互いに背を向け丸まる二人。ふと、僕は振り返り、彼女の腕に触れる。それに応えるかのように振り返る彼女。薄暗い毛布の中で僕らは見つめ合った。そっと肩に手を回し、優しく彼女を引き寄せる。それに抗うことなく、彼女は僕の腕の中に身を委ねる。

堪らず僕は彼女の唇に自分のそれを押し当てた。そして今まで抑えてきた理性がなし崩し的に解けていき、僕は彼女を求めた。

抑えきれない衝動に強く彼女を抱きしめた瞬間、腕の中で小刻みに震える彼女に気が付いた。その瞬間、彼女と出会ったあの日の出来事が、僕の頭にフラッシュバックする。

そして今度は優しく抱きしめて、僕の中で暴れていた獣を今一度、檻に閉じ込めた。


「ゴメンナサイ……」

 涙ぐみながら謝る彼女に、

「ケンチャナ、アシメヨ……」

 合っているかも分からない韓国語を連呼しながら、僕は優しく包み込むつもりで、再度彼女を抱きしめた。


世界は僕たち二人の為にある。あの風も、僕たちを引き合わせる為に猛威を振るい、まるで二人を守ってくれているようだ。その証拠に僕たちは記憶を奪われることなく、誰にも邪魔をされることなく、二人だけの日々を紡ぎ続けている。


ずっとこのままならいいのに……


不謹慎にも、僕はそう願わざるを得なかった。



しかし……

その日は、およそ一か月分の食料を調達する為に、僕は車で少し離れたショッピングモールまで足を運んでいた。この地域は、早い時期にあの風の被害に遭っていたようで、暴徒たちによる量販店の被害は比較的に少なかった。

たんまりと食料と、セヨンへのプレゼントにネックレスを調達すると、僕は家路を急いだ。


駐車場に車を置き、大量の荷物を抱えながら部屋への階段を急ぐ。

「うん?」

背後に気配を感じた僕は後ろを振り返る。暗がりの中には何もいない。

気を取り直して部屋へと急ぐ。そして、玄関に鍵を差し込んだ瞬間、後頭部に鈍い痛みを感じ、僕はそのまま意識を失った——








「ハア、ハア、やべ! たまんね!」

「おい、早くしろよ!」


 男達の荒々しい息遣いに、重く激しい頭痛に目をしかめながらも、僕は目を覚ました。

目の前には食べ散らかされた残骸が、いくつも点在しており、僕は手足を縛られ、床に倒れているようだった。

状況を把握しようと、周囲を見渡す……


そのすぐ隣には下半身をむき出しにした男達が、重なり合うようにしてもつれあっていた。その山の下に、小刻みに揺れる白い手……


「やめろぉ!」


僕は怒号を上げ、縛られているのも忘れて、その山に飛びかかった。薄汚れた男達を掻き分けると、僕の最悪の予想は的中した。傷だらけの人形と化したセヨンが虚ろな表情を浮かべていた。彼女は僕の顔を一瞥すると、うっすらと目に涙を浮かべ、手で顔を覆いながら、声を押し殺して泣き始めた。


その瞬間、背中に鋭い痛みを感じて、僕はその場に倒れ込んだ。

男達はさっきの続きを始めようと、倒れた僕を殴り飛ばした。

「ぐへっ!」

口の中に溢れる血が溢れ出て、僕は痛みにのけ反った。

そして男達は卑猥な笑顔を浮かべると、セヨンの元へ駆け寄った。


その瞬間、激しい突風が窓を打ち付けた。その風は吹き止むことなく、バチバチと窓ガラスを激しく揺さぶった。

「おい! ヤバくね?」

男達の一人がその音に気付いた。そして彼らは行為も半ばに、僕が持ってきた食料を引き摺りながら、急いで部屋を飛び出していった。



部屋に取り残された僕とセヨン。互いに傷を負い、このままでは命を落としかねない。

痛みに顔を歪めながらも、僕はセヨンに手を伸ばした。


「セ……ヨン……」


 僕の声にセヨンはこちらを振り向き、仄かに笑みを湛えながら、小さく唇を動かした。

「え? なに?」

 僕のその問いには答えずに、彼女は男達が落としていったナイフを右手に持ち、床に倒れたまま、その切っ先を自分の喉元へ振り下ろした。

「や、やめ……」


 僕の悲痛な声も束の間、激しい突風が窓、ガラスはおろか、屋根、天井を剥がし、セヨンも僕も、この部屋だけの世界を破壊し、吹き飛ばしていった。

気が付いた時には僕は瓦礫の中に居た。

体中が激しい痛みに侵され、息をするだけでさえ、体中が悲鳴を上げた。


そんな中、僕は必死に彼女、セヨンの笑顔を脳裏に投影する。


『よかった……忘れてない……』


 あの突風は僕から彼女を奪う事は出来なかった。

 きっと、この『痛み』のおかげだ。

 セヨンを忘れない為に、僕は『痛み』にすがりついた。

 彼女はきっとどこかで、僕を待っている。僕が必ず迎えに行く!

そう誓い、僕はその瓦礫の中から這い出た。



それから僕はセヨンを探し、街中を徘徊し始めた。

少しでも風を感じたら、拾ったナイフで『痛み』と『セヨン』を身体に刻み込んだ。

その度に『痛み』にのけ反り、絶叫は渇いた空にこだました。


幾日ものその反芻に、四肢は限界を来たし始めた。

しかし僕は、忘れる『楽さ』よりも、忘れない『痛み』にしがみついた。

それでもなお、来る日も来る日も僕は、四肢を破壊し続けた。


そしてある日、僕は動けなくなった。

数日間ろくに食べもせず、飲みもせず、脚と心を引き摺りながら彷徨い続けた結果、寒空の下の廃墟に、僕は倒れ込んだ。


『もう、限界だ……』

 とっくの昔から身体はそう、言い続けている。しかし、セヨンの笑顔がそれを否定し、僕を前へと突き動かす。その心の反芻にさえ僕は安堵する。



深く息を吸い込むと、冷たい空気が体中に沁みた。そして僕は咳き込んだ。


その刹那、強い風が吹き荒れ、僕を包み込んだ。

咄嗟に僕は首を掻きむしった。首元に感じる痛みに集中し、その風が止むまでもがき続けた。


 風は止み、周囲は静寂に包まれる。


 そして僕はほんの一瞬、浮遊感に包まれる。

 その浮遊感に焦り、必死に彼女の名前を口にする。



「セ、セヨン……」


 よかった……忘れてない……


しかし、何かが引っかかった。つい、先程までそこにあった、今まで積み重ねてきた『何か』が、水泡のようにパチパチと壊れていくのを感じた。


押し寄せる不安の波の中、僕は自分に問うた。



『僕は誰だ?』



                                      了




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