読解力2

文章術の要諦は省略 達人編

読解力を鍛えるには書くしかない!(10)

前回は私の持論、「文章・飛び石」論をご紹介しました。

適切な「飛び石」で気持ちよく飛躍を繰り返すと、文章がなめらかで読みやすくなり、そんな文章が書けるようになると、「行間」を読む力が上がって読解力にもプラスに働く、というお話でした。

今回はそんな「省略こそ文なり」という例を、達人から学んでみたいと思います。実践編というよりは、読み物としてお楽しみください。

夏彦流「かいつまんで言う」

私はコラムニスト、故・山本夏彦の大ファンです。その高風を欽慕している、と言えば、ニヤリとする方もいらっしゃるかと。
夏彦翁はコラムの極意をこう語っています。

そもそも長いものを短くするのがコラムで、三十二枚を十六枚、十六枚を八枚、八枚を四枚、四枚を二枚、軍中膏蝦蟇(がま)の脂(あぶら)はだんだんにふやしますがコラムはへらします。(『生きている人と死んだ人』より)

400字詰め32枚は1万3000字ほど。それを800字にするというのは無茶な話で、「ガマの油」に例えた言葉遊びでしょうが、これに続いて狙いを語った部分が面白い。

かいつまんで言う、手短に言う、ほとんど最短距離で言うことに熱中して何のトクがあるかというとあるのです。読者はずいぶんこみいった話が、こんなにすらすら分るのだからと一種の快感をおぼえます。ひそかに自分の頭はいいと思っていたが、案の定よかったと安心します。分ったのではない、分らせたのだからそれは書いたほうの手がらで読んだほうの手がらではないのですが、そう言うとカドがたちますから言いません。読者の頭がよくなるにまかせます。これを花を持たせると言います。花を持たせて二十なん年になります。

「読者の頭がよくなるにまかせます」の一文が、味のある夏彦節。
私はこの一文から「書き手」と「読み手」のコミュニケーションのあり方について多くを学びました。さらに「目を見開かされた」と言っても良いほど影響を受けたフレーズが、前回も紹介した、こちらです。

言葉というものは電光のように通じるもので、それは聞くほうがその言葉を待っているからである。(『毒言独語』より)

「くどい」と「分かりやすい」の違い

新米記者時代、デスクや先輩から記事の書き方の心得としてよく言われた決まり文句に「お前の母ちゃんが読んでも分かるように書け」というものがありました。
「母ちゃん」というのは「その分野についてほぼ知識がない一般人」の例えで、ひどい女性蔑視的な表現です。かつては女性記者相手でも堂々とこのフレーズを使う猛者がいて、横で聞いていて軽くめまいがしたものです。かつて新聞社はそれほど無神経な男社会だったという昔話でして、今ではこんな物言いをする人はいません。私の知る限りでは。

さて、指導方法は変われども、「予備知識のない読者にも分かるように書く」ことの大切さは変わりません。記者というのは、ニュースという「未知の事象」を文章に落とし込む稼業であり、ニュースが複雑で新奇であるほど、伝えるのは難しくなります。
四半世紀前に記者になってから、私は「どう書いたらうまく読者に伝わるか」という工夫を重ねてきました。
そして、たどり着いた1つの結論は、「『書くこと』と同程度かそれ以上に『省略すること』を選ぶのが重要」ということです。

「分かりやすい文章を書く」というミッションの本質的な難しさは、馬鹿丁寧に書けば分かりやすくなるわけではないという点にあります。言葉を重ねすぎて冗長になれば、ポイントがボケた文章になってしまう。それでは伝わらない。
世に出回っている本や記事でも、この落とし穴にはまっているものは少なくありません。
皆さんも文章を読んでいて「結局、何が言いたいの?」と思った経験があるでしょう。書き手は丁寧なつもりでも、くどいだけで、全然伝わらない文章はいくらでもあります。
ネットではこの傾向がさらに顕著です。なぜなら、新聞や刊行物と違って、スペースに物理的な制約がないからです。その気になれば、いくらでも書きこめてしまう。
私はこうした「くどいだけ」のケースは多くの場合で、書き手の不安や自信の無さが原因となっていると思っています。「これでは伝わらないかも」という不安がくどさにつながり、さらに分かりにくくなる悪循環です。

長年の経験からすると、むしろ言葉は、足りるか足りないか微妙なバランス、読み手が情報を補いながら読むぐらいの解像度で書いたほうが、伝わるものです。夏彦翁の言葉を借りれば、そうして初めて「電撃のように通じる」文章になる。

問題は、そのための条件、「聞くほうがその言葉を待っている」を満たすことにあります。その要諦は「書く」と「省く」のバランス、言い換えればさじ加減にあります。そして、そのさじ加減は書くテーマや読み手によってケースバイケースであり「場数を踏んで覚えるしかない」でしょう。
私自身の記者経験を例にとれば、短い記事をきちんと書けるようになるのに1年かかり、長い原稿で自分でそれなりに満足できるレベルになったのは5年目ぐらい。10年目あたりから、ようやくどんな長文でも「伝わる」ように書く自信がつきました。

ただ、これは「プロの書き手」が求められるレベルであって、基本的な発想は日常的な文章術でも変わりません。一般的な文章なら、さじ加減の幅もさほど広くないはずです。「何を省略するか」を頭の片隅におき、文章の解像度を意識すれば伝達力は格段に上がるはずです。
この解像度のコントロール、省略の妙にこそ、文章を含む「言語によるコミュニケーション」のキモです。それは作文術ならば伝わる文章を書く力、オーラルコミュニケーションなら意図を伝える伝達力の土台になります。
そして、発信側として「省略力」が身に着けば、文章や会話で受信側に回ったときの理解力、つまり読解力も上がります。どこが省略されているかを補いながら想像して読む、いわゆる「行間を読む」力がつくからです。
「お父さん問題」の作文講座の狙いは、

・大人の作法にのっとった語彙と文章の型
・その中での省略=行間の作り方
・その結果として身に着く「行間の読み方」

を鍛えることにあります。

古典の驚異的な省略力

では、達人の技を見てみましょう。
先にお断りしますが、これは究極の例であって、こんな文章は99.9999%の人間には書けません。あくまで「省略の妙」の究極形です。
まずは山本夏彦翁の定番ネタ、荘子についての一文。

 たとえば名高い「渾沌」である。シュク(「修」のつくりの下部分が「黒」の旧字=高井注)と忽の二人は渾沌の地で落ち合った。渾沌二人をもてなすこと親切丁寧だったので、何がな酬いたいと相談して「人みな七キュウ(「窮」の下が「敷」、七つの穴の意=同)あり、ひとり渾沌にあることなし。試みにこれをうがたん。日に一キュウをうがつに、七日にして渾沌死す」。
 シュクも忽も「たちまち」という意味だそうだ。
 また曰く、蝸
(かたつむり)の左の角に「触」という国がある。右の角に「蛮」という国がある。互いに領地を争って戦い何万という死者をだした。勝った方が逃げるを追って故郷に帰るのに十五日かかった。
 逃げるを追って帰るに十五日かかったとすれば、それまでに何日かかったか言うまでもないと言わない。省略の極を私はこれに学んだ。「日二一キュウヲウガツ、七日ニシテ渾沌死ス」「逃グルヲ遂イ旬有五日ニシテ後
(のち)返ル」。
 あまりのことにいまだに覚えている。
(『完本 文語文』より)

夏彦翁自身の文章の圧縮度が高く、紹介される荘子の二篇はさらに強烈なインパクトがあります。「分からなくなる寸前まで削れ」という夏彦翁の真骨頂ここにあり、という文章です。

漢文・文語文は苦手な方も多いでしょうから、次は極めて分かりやすい例、夏目漱石の『坊っちゃん』の最終段落を引きます。今さらネタバレもないだろうという名作ではありますが、一応、未読の方はスキップ願います。

 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足な様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓のなかで坊っちゃんが来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。(新潮文庫版『坊っちゃん』より)

このラストについて、エッセイストで中国文学研究者の高島俊夫は好著『座右の銘文』の漱石の項で、「日本の近代小説のなかで、おそらくいちばんうまい結びである」と絶賛しています。私も同感です。
この結びの文章を近代小説史上最高のものにしているのは、2つのパートの「行間」のつくり方の呼吸が見事にシンクロしているからでしょう。
2のパートとは以下の通りです。

・前半=新情報(帰京後の就職と暮らしぶりと清の死)
・後半=坊っちゃんと清の関係性と「同じお墓に入る」ことの意味

前半の「言わずもがな」な部分を省略する手際は、夏彦翁が挙げた「渾沌」「蝸牛角上の争い」に通じます。
試しに、自虐的ではありますが、平凡な書き手である私が書きそうな文を補ってみましょう。「蛇足」部分を太字にしておきます。

その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給はたった二十五円で、ようやく借りられた借家の家賃は六円だった。清は玄関付きの立派な家でなくってもおれが独り立ちできたことに至極満足な様子であったが、そうして何年か一緒に暮らしたのち、気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。

読み手によっては、ここまで補った方が「読みやすい」と思われるかもしれません。
しかし、原文のもつ畳みかける心地よさ、そして後半につながるリズム感の維持という面では、私の補足は文字通り「蛇足」でしかありません。
前半がこんなダラダラした文章では、『坊っちゃん』という作品の主題を濃縮しつくした結末が台無しになってしまいます。最後を再引用します。

死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓のなかで坊っちゃんが来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

最後の一文は、作品を通じて清と一緒に住むことに執着する坊っちゃんが、「来世も清といっしょに住むんだ、というつもりであることをしめしている」(高島俊夫『座右の銘文』より)。養源寺に坊っちゃんの家の墓があることは作中で触れられています。

「坊っちゃん」は、「御一新」による新時代になじめない2人、旧時代に坊っちゃんと清のプラトニックなラブストーリーとして読める作品です。この最後の1行の裏には、作品全体を通じて築き上げたコンテクストがあり、だからストン、と落ちる結びが極上の余韻を生みます。
私の場合、極論すると「坊っちゃん」という作品を再読したくなるのは、この最後の一文を味わうためと言っても過言ではありません。

最後に私の文章術のバイブル、「書くことについて」でスティーブン・キングが「私が好きな文章」として紹介している例を引いて、今回は終わりとします。
キングが引いているのはヘミングウェイ「大きな二つの心の川」という作品からの一節です。この作品自体は私は未読で、この部分しか知りませんが、「そぎ落とすところまでそぎ落とされた文章」の例として脳裏に焼き付いています。

He came to the river. The river was there.
彼は川に行き着いた。川はそこにあった。

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