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なぜ失敗国家は「不屈のウクライナ」に豹変できたのか

ロシアがウクライナに侵攻してから、2回目の冬が近づいている。膠着気味とはいえ、ウクライナは頑強な抵抗を続けている。正直、今回の戦争がこんな形で2年目の半ばを過ぎるとは思いもしなかった。

2022年2月24日にロシア軍が国境を越えた時点で、私は短期間でウクライナはロシアに組み敷かれると予想した。不明を恥じるしかないが、当時、専門家の大半も同じような見通しを持っていたはずだ。ヴォロディミル・ゼレンスキー大統領がリーダーシップを発揮して反転攻勢に出るなどと言えば、夢想家として笑い物になったことだろう。

払拭しきれなかった「失敗国家」のイメージ

当時、私は日本経済新聞社で編集委員として働いていた。開戦直後のタイミングでニュースキャスターも兼務することになった。日々のメディアチェックに加え、番組のゲストなど専門家と接する機会も多く、戦況自体はかなり詳細に把握していた。

だが、いくら情報を追いかけても、霧が晴れない気分は続いた。根っこにあったのは、長年抱いてきた「失敗国家ウクライナ」のイメージと、大国ロシアを退ける「不屈のウクライナ」の間の大きすぎるギャップだった。とても同じ国とは思えないほど、ウクライナは戦争を挟んで豹変した。なぜそんなことができたのか。

開戦前の私のウクライナ像は、日本人としては平均的なものだったと思う。

1972年生まれの私がウクライナを最初に意識したのは1986年のチェルノブイリ原発事故だった。その後、冷戦終結・ソ連崩壊の過程で「世界第3の核保有国」の処遇が焦点になったこともあり、ウクライナはぼんやりと「核」と重なるイメージの国だった。

近現代史の視点からは、ロシアとドイツという二つの大国に苛まれた受難の国と捉えていた。歴史家ティモシー・スナイダーが『ブラッドランド』(ちくま学芸文庫)で示したように、ウクライナ、ポーランド、ベラルーシの地は夥しい血を吸ってきた。

21世紀以降の印象は「失敗国家」そのものだった。2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命と改革の兆しが見えても、根深い汚職でまともに機能する政府を持てない国。民主化の波を警戒するロシアの影響下からいつまでも抜け出せない国。そんなイメージだ。天然ガス供給網の要であり、黒海へアクセスする世界有数の穀倉地帯という強みですら、ウラジーミル・プーチン氏の野望を引き寄せる地政学的な呪縛のように映っていた。

言葉を選ばずに言えば、私はウクライナを「呪われた地」と考えていた。まるで他人事のように。

キーウにとどまった友人

2022年2月、その遠く離れた失敗国家の命運が、いきなり身近で、切迫したものに変わった。一人の友人が戦禍に巻き込まれる可能性が高まったからだ。

ロシアの侵攻が迫っていた2月上旬、嫌な予感がして、フリージャーナリストの古川英治氏にダイレクトメッセージを送った。

「まさか、キーウにいたりしないよね?」
私の問いかけに、すぐに「ビンゴ」と返信があった。 
「おいおい。記者根性はいいけど、さすがに逃げなさいよ。少なくとも西部に!」
「ジャーナリストじゃない、当事者だよ、おれ。妻が動かないって言うから」

天を仰いだ。古川氏は2009年にウクライナ人女性と結婚している。義母と義妹の家族も一緒で、キーウに留まる意志は固いという。

話題のノンフィクション『ウクライナ・ダイアリー 不屈の民の記録』の著者である古川氏は、日本経済新聞の元同僚だ。古川氏は2021年、私は2023年6月に日経を退社している。

2016年に私が欧州・中東・アフリカ地域の報道のまとめ役としてロンドンに赴任した時期、古川氏はモスクワ支局長を務めていた。日常的な業務連絡のついでに、1〜2時間話し込むことも度々だった。

トランプ政権や英国の欧州連合離脱がもたらすカオス、シリア内戦とプーチン政権の闇、領土問題に固執する安倍政権の融和的な対露外交の危うさなど、国際情勢をめぐる話題には事欠かなかった。海外の政府関係者や学識者に幅広いネットワークを持つ古川氏との対話は、メディアや本に頼りがちな私にとって、新鮮な刺激になった。ロンドン出張の折には、いつも我が家に立ち寄ってもらった。日本食材店「アタリヤ」の新鮮な刺身を皿いっぱいに盛り、モスクワではなかなか味わえない手巻き寿司を振る舞った。人懐こい古川氏は、すぐに私の家族の間でも人気者になった。

新聞記者として、あるいは一人の人間として、私は人並み以上に世界で続く戦禍に関心を持ち、胸を痛めてきたつもりだった。だが、友人が巻き込まれてみて、これまでの自分はあくまで傍観者にすぎなかったと痛感した。

開戦直後は首都キーウへのロシアの進軍ペースが気になり、夜中に何度も起きてニュースをチェックした。ミサイル攻撃に日本人ジャーナリストが巻き込まれたとニュースで聞いた時には胃が痛くなった。

やがてウクライナは反撃に転じ、古川氏は「当事者」からジャーナリストに戻り、ウクライナ中を飛び回って取材を再開した。時折、連絡をとり、戦地の惨状や現地の人々の暮らしぶりを聞いた。

だが、私の中でくすぶる「なぜウクライナは豹変できたのか」というビッグクエスチョンを突っ込んで話し合うことはなかった。古川氏が2022年秋に一時帰国した際にはロンドン時代のように自宅に招いて手巻き寿司パーティーを開いた。その時も「なぜ」には話が及ばなかった。

その時点では「これからどうなる」と戦争の行方に我々の関心が集中していたからだろう。『ウクライナ・ダイアリー』を読むと、この時点では古川氏の中にもまだ答えははっきりと形作られていなかったのではないかと思う。

書いて伝えなければ

「原稿、読んでみて」
開戦から約1年経った2023年2月初め。古川氏から『ウクライナ・ダイアリー』の草稿が送られてきた。そこには私の「なぜ」という問いへの答えが、不屈の民の姿があった。

ロシアの理不尽な蛮行に対する怒り。
自律的に動くコサックの伝統。
自由と民主主義への渇望。
国土・郷土への愛着。
勇気とユーモア。

ウクライナの民とは、こんな人々だったのか。小泉悠氏の『ウクライナ戦争』(ちくま新書)など「鳥の目」で今回の戦争を捉えた好著と「虫の目」で人々を描く『ウクライナ・ダイアリー』が補い合って、パズルが一気に埋まるように疑問が氷解する思いだった。

「俺は彼らに借りがあるんだよ。何が起きたか、なんとかして伝えないと」

初稿を読んだ私に、古川氏がこんな言葉を漏らした。「彼ら」は取材したウクライナの人々を指す。

私はこの言葉を意外な思いで聞いた。5つ年上の古川氏のことを誰かに伝える時、私は「突撃取材小僧です」と説明することがある。このニックネームには「取材となればどこまでも突っ込んでいくけれど、それで満足してなかなか原稿を書かない」という含意もある。ロンドン時代は「上司」として原稿を書かせるのに苦労したものだ。

そんな男が、書かなければ、伝えなければ、と切迫感を抱いている。

だから私はあえて大幅な加筆を提案した。古川氏の個人的な想いや家族のエピソードを、もっと読みたい、特にソ連時代からウクライナの現代史を生きてきた「ママ」こと義母の物語をもっと知りたかった。

ジャーナリスティックな記述だけでも一級のドキュメンタリーにはなる。そこに古川氏自身と家族の数奇な巡り合わせが加われば、強い訴求力をもった素晴らしい読み物が生まれる。そんな予感がした。

私の無責任な期待は『ウクライナ・ダイアリー』という稀有な一冊として結実した。

「早くキーウに帰りたい」

今年も昨年と同様、一時帰国した古川氏を自宅に招いた。日経新聞の現役記者をまじえ、ご所望の手巻き寿司を囲んだ3時間ほどの間、本の話も、ウクライナの話題も、ほとんど出なかった。何を話したかほとんど忘れてしまったが、ずっと笑いっぱなしの一夜だった。

覚えているのは「早くキーウに帰りたい」という古川氏の言葉だ。安全で快適な日本より、ウクライナの方が居心地が良いという。何より、今回の戦争を機に「ネーション」として目覚めたウクライナの姿を現場で取材したいのだろう。

もうすぐウクライナは戦時下の2度目の冬を迎える。ロシアによるインフラ攻撃で電力不足が続く中、氷点下まで冷え込む日々が待っている。『ウクライナ・ダイアリー』を数回読み返した今、彼の地の厳しい冬の景色の中には、一人の友人だけでなく、その家族と友人たち、戦地で理不尽な侵略に抗う人々の姿が浮かぶ。 

いつかウクライナを訪れて、不屈の民と彼らが守りぬいた大地をこの目で確かめたい。

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ご愛読ありがとうございます。
この投稿は新潮社フォーサイトに寄稿した文章の転載です。
写真は古川さんからご提供いただきました。


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