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その水茄子もその日本酒も、あなたがつくったものではないよ

ここ数年、二次会以降はいろんな店に行く。決まった店にばかり行くのではなく、ちょっと調べたり、歩いていて店構えが気になったところに試しに入ってみたり。誰かと一緒なら「お前の店に連れてけよ」と紹介してもらったり。小さな居酒屋…というよりは「小料理屋」という表現が似合う店が多い。再び行く店もあるし、その後二度と行かない店もある。

その違いは何だろう…とよく考える。もちろん料理が不味いところには二度と行かないし、日本酒の種類が極端に少ないところにも二度と行かない。でも、料理が旨くて酒の種類が多ければ行くかというとそう単純でもない。これまで漠然と、「雰囲気の良さ」「居心地の良さ」が基準かな、と感じていた。でも、雰囲気の良さとか居心地の良さというのは何から生まれるんだろうか…。そんなことを考える。

先日いろいろ話していて気がついた。店主の肩に力が入りすぎている店は、どんなに料理がおいしくて酒がおいしくても居心地が悪いのだ。うちはすごい食材を仕入れてます。うちはいい酒置いてます。この料理どうですか?うまいでしょ?この酒蔵はお勧めですよ。……。

どれも味わってみるとその通りである。その意味で店主には力量がある。別に人が悪いわけでもない。ただ、何かと闘っているのだ。客ではない何かと。挑戦し続けていることがオーラとして出過ぎている。そういった店では驚くような料理が出てくることも少なくない。でも……、どこか息苦しい。なんとなく束縛されてる、自由じゃない感じを受ける。癒やされない。ゆったりできない。本気で、神経をとがらせて味わわなければならなくなる。結局、料理もいいし酒もいいのに、しゃれた感じ、落ちついた感じで演出しているのに、間違いなく雰囲気はいいのに、決して居心地がよくない。そんな店がけっこう多いのだ。

先日、人生で一番と言って良い水茄子を食べた。感動した。ほんとうにおいしかった。店主に「おいしいですね…」と言うと、これはどこで仕入れて、こんなこだわりをもった農家さんがつくっていて、このくらい珍しいもので、こんな希少価値があって……という話が返ってきた。三次会だったのでもう刺身や肉は一切食べず野菜ばかり食べていたので、この店なら刺身もおいしいんでしょうねえ……と言うと、うちは築地と道産の旬のもの、しかもいいものしか入れません、という答えが返ってきた。うーん……そんなことを聞きたいんじゃない。この料理への自分なりのこだわりとか、どうやってその茄子と出会ったのかとか、うちのお客さんにはこういうタイプが多いからこういう魚介類にこだわっているとか、そんな話が聞きたいのである。「うちの食材はこんなに価値があるよ。だってここから仕入れてるし、これだけの金額のものを揃えているから」というのは、あくまで相対的な話である。何かと闘っている。だれかと闘っている。いわば社会に挑戦しているのだ。それが見え見えなのだ。そうするともう、二度と行かないとは言わないまでも、自分が肉体的にも精神的にも経済的にも余裕のあるとき、ゆったりできなくても旨いもの、すごいものを食べたいときにしか、その店には来なくなる。そして言うまでもなく、そんなふうに呑みに出ることなど年に一度あるかないかなのである。僕がもっと若くて、女性にいいもの喰わして口説こうなんていう頃でもない限り、そういう店には用がないのが現実なのだ。

それに比べて、先日一人で行ったある小さなお店。おじいちゃん大将が一人でやっている。平成の始まりからそこでやっていると言う。もう30年だ。お通しはワラビとイカの酢味噌和え。これが甘すぎず絶品。鮭のルイベ、チップの塩焼き、それほど値の張る食材ではないだろうが、丁寧な仕事が垣間見える。このおじいちゃんはものすごく料理にプライドをもっているはずだ。でも無口。「酒は何かお勧めがありますか?」と訊くと、「○○なんてどうでしょう。塩焼きにはほのかな酸味が合うと思うんですけど」と静かな口調で返ってくる。「ではそれを」と言っていただくと、確かに店主の言うとおり。「確かにおっしゃる通りですね」と言うと、「そうでしょう…」とにこりとするだけ。決して余計な理屈を語ってくることはない。とても居心地がいい。プライドは確かにもっているのに、誰とも闘っていない。もしかしたら自分との闘いはあるのかもしれないが、それがあるのだとしてもその闘いに客を巻き込まない。「おいしいでしょ?おいしいと言え。おいしいはずだ」というオーラがまるでない。そんな感じ。プロだなあ…とこちらもかしこまってしまう。

人前に出る教師たち……講師とか登壇者と呼ばれている人たちにも同じことが言える。あの、講座をしているときに何かと闘っている人たちを見ると、この人はいったい何と闘っているのだろう……と思う。とても居心地が悪い。自分自身の提案ではなく、「闘うこと」がメインだから、取り上げた具体例(実践例や模擬授業など)からはとても言えないような大きなことを平気で言う。その大きなことと自分自身の実践例とがつながっていない。もっと言えば、自分自身と提案の主想とがつながっていない。そしてそのことにおそらく自分自身では気がついていない。そんな提案を聞いていると、僕はやっぱりいたたまれなくなってしまうのだ。ちょうど、確かに素晴らしい水茄子で確かに素晴らしい日本酒を呑んでいるのに、どこか居心地が悪かったあの時間のように。「その水茄子もその日本酒も、あなたがつくったものではないよ」と言いたくなったあの時間のように。評価されるために何かと闘い、肩に力が入りすぎている人たちは、本人にその気がなくても、そのあさましさに目を背けたくなる。見ているこちらが恥ずかしくなって落ち着かなくなる。むずむずしてくる。やはり居心地が悪くなってしまうのだ。

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