吉村順三とソルフェージスクールについて

私が住む水戸の家から、千波湖という湖を挟んで向かい側に茨城県近代美術館がある 
私が大学生だったころに吉村順三によって設計された。なので、私にとって、湖畔森の中にある、しっかりした建物が吉村順三であり、モダニズムを感じさせるものではなかった。それが、吉村なりの美意識と設計思想によって解釈されたモダニズムだということを知るのは、後に奈良国立博物館や、国際交流会館を見てからである。

吉村順三の代表作に軽井沢の家がある、コルビジェもカツプマンタンの休暇小屋という極小空間があり、レマン湖湖畔の母の家などミニマム建築が多くの建築家を魅了してきたが、吉村順三は1962年に軽井沢の別荘を通じて、森の中で人が住むための快適な極小空間を完成させ、建築の主役を人に置く吉村流のプロトタイプを作り上げ、それを大きな建築にも応用していったのだろう。

1926年にコルビジェが提唱した新しい建築の5原則は
ピロティ
自由な平面
自由な立面
独立骨組みによる水平連続窓
屋上庭園
は、日本のモダニストにとって一つの規範になり、そこからいかに日本的なモダンを考えていくか、が使命になった。

吉村順三は、ヨーロッパよりアメリカとの関係が深く、日本の建築文化をアメリカに伝えたと言われている。国際文化会館は、私が日本で最も好きな建築の一つである。40代から50代に何度も足を運んだ。国内外の研究者や文化人の交流を目的とした会員制の宿泊施設で、前川國男を中心に、坂倉準三、吉村順三らの共同設計により完成した。庭に面した部屋には障子から柔らかな光が差し込み、壁の一部に大谷(おおや)石が使われたロビーにはティーラウンジがあり、床から天井まで届く窓から日本庭園が見渡せる。滞在することが気持ちいい建物なのだ。
 
歴史学者アーノ・マイヤーは『The Persistence of the Old Regime(旧体制の存続)』の中で、次のように述べた。資本主義は“創造的破壊”をもたらしたが、あらゆる芸術におけるモダニズムは、そもそもは農民の土壌から発している。人々は逆説的に過去の支配力がなくなることにも不安を覚える。モダニズムの技法に表れているのは新たな自信ではなく、旧体制の美学から脱却しようとする激しい心の葛藤だった。モダニズムというプロジェクトは最初から、こうした気持ちと行動の矛盾をはらんでいたのである。

幼い頃から建築、とりわけ「住宅」に魅せられていた吉村は、呉服屋のは裕福な家で生まれ育ち、1923年に関東大震災を経験。被災した東京を目の当たりにし建築というものに憧れる。紙で模型を作ったり、中学生で設計図面で入選したりしていた。早熟な子供だった。東京美術学校の建築科に入学後は、帝国ホテルの建設にあたって、⭐️フランク・ロイド・ライトとともに来日したアントニン・レーモンドに師事。1940年レーモンドのもとに渡米。約14ヶ月間滞在吉村はアメリカで経験したモダンライフを日本の建築に取り込む。 

吉村は、バイオリニストであった妻・大村多喜子が創設した「ソルフェージスクール」の建築設計を手掛けた。ポスターやチラシ、教材も制作した。住宅でも椅子や家具を作るのが大好きな吉村はディテールだけでなく、周辺世界までデザインを考えた徹底した美意識の持ち主だったのだろう。ソルフェージとは、読譜・音感・リズム感・音譜の書取り・音の記憶・室内楽・合唱合奏その他総ての音楽的な訓練のこと、レッスンでは#と♭のついた音をオリジナルの読み方で習う。ソルフェージはもともとはそれぞれの音符をドレミを使って声に出して歌う。ソルフェージスクールでしっかりと小さい頃から身につけておくと、意識せずとも自然と拍を感じて弾くので、最初から自然にアンサンブルを楽しむことができるという。

軽井沢の家で森の中の小鳥になりたいと吉村順三は言った。ソルフェージスクールの建物の中にいるとまるで音の森の中の音符という鳥になったような気持ちになる。


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