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病院の中では聞こえてこない『病院への不満』。一つの実例から考えてみる。



こんにちは森田です。

最近毎週メルマガを書いているんですが、そんななか、たまにお返事をいただきます。

で、今回はこんな、『いつも僕が言ってることを総まとめにしたかのような素晴らしいメール』を頂きましたので、御本人の了解を頂いた上でご紹介したいと思います。

実は僕もかつては気づいていなかったのですが、「病院の中にいては聞こえてこない病院への不満」というものがあるのですね。



以下メールのご紹介。(所々に解説を入れます。)


自分事ですが、先日91歳の父が検査入院をすることになりました。

リウマチ性多発筋痛症で整形外科でステロイドを飲んで良くなっていたのに、減量したら悪化したので、かかりつけの内科の医師が膠原病の専門医の病院で検査した方が良いと言いだし、母が断れず入院となりました。


リウマチ性多発性筋痛症(PMR)は、基本的には膠原病・リウマチなどの専門科で扱う疾患なのですが、じゃ、一般内科の先生は見ないか?総合診療医・家庭医は?…というと、当然診ます。こんな僕でさえこれまで何人も自分で治療して来ました。メールにもある通り、ステロイド内服薬がとてもよく効くので、僕ら総合診療・家庭医でも見やすい疾患でもあります。

そういう意味でも、「かかりつけ医」という存在が真の「総合医」という意味で日本中に広がってくれると嬉しいです。


(つづき)
当日、造影検査、胃カメラの同意書などが用意されており、何のための検査かもわからないまま、早口で説明があった後、父が同意書にサインをしておりました。



病院ではインフォームドコンセント(通称IC)、つまり患者さんに説明して、同意を得ることがいまは当たり前になっています。

かつては、大した説明もなく同意書もなく手術や治療が始まってしまうことがよくあったそうですが、いまはそんなことはありません(本人に意識がないような救急医療は別)。大きな手術・治療の前には必ず説明があり、同意書があります。

ただ、インフォームドコンセントが広まったこと、それ自体は間違いなくいいことなのですが、

「患者さんの知る権利を尊重するために丁寧に説明し、また患者さんの自己決定権・自律を尊重した結果として同意を頂く」

という本来の意味とは別に、「同意書を取るための型通りの説明(説得に近い?)」という医療現場が少なからず見られるのも現実です。

(つづき)

採血に、研修医の先生がいらしたので、母と私は席を外し、だいぶたったので、戻ってくるとまだ終わっておらず、指導医の先生もいらしてました。また、時間をおいて戻ってくると、研修医の先生の白衣と名札が椅子に置いてありました。汗だくで採血されたようでした。


毎年4月は、大学病院や総合病院では、新人の研修医の先生が赴任されます。だれでも新人の時代があります、僕も来た道ですので、温かい目で見守っていてだけますと幸いです。


(つづき)

私は、一旦地元に戻りましたが、帰りのバスの中で、検査中に死んでしまうのではと検査結果の説明の日まで毎日ドキドキでした。CTとMRIくらいかと思っていたら、全身検索をすることになっていたようで、父も「今更がんとか見つかっても言わないでくれ」と言っていました。私も「侵襲のある検査は止めて下さい」と一言、言って来なかったことが気になっていました。幸い検査は無事終わりましたが、91歳の老人にこんな沢山の項目の検査をする倫理的にも、意味はあるのだろうかと思いました。


僕も超高齢で体力の衰えてきたおじいちゃんから「もう年なんだから検査なんてしなくていい、検査したってどうせ老化は治らない。死ぬときは潔く死ぬよ。」と言われ、そのままお看取りしたことがあります。この方は死ぬ直前まで自宅で焼酎をちびちび飲まれていました。亡くなったのも自宅でした。僕はこのとき医者として初めて死亡診断書の死因に「老衰」と書きました。一人の患者さんを一人の人間として、生活背景から家族背景・人生の質まで総合してと支えることができた、とても勉強させていただいた例でした。

ただ、この事例、いま振り返って考えるとこうも思います。

たとえばこのお爺ちゃんに出会ったのが病院勤務時代だったら?…多分僕はそんな対応はしていなかったでしょう。なぜなら、病院の勤務医は多くの場合入院になった時からしか付き合いがありません。特に大きな病院になればなるほどその傾向は強くなるでしょう。また、病院の診察室や病棟からでは、その患者さんの生活や家族背景も見えにくく、さらに医療者>患者という立場上の強さもあり、その人の人生に本当に必要な医療にもまして、医療側から見た正しい医療、画一的なガイドライン的な医療がより選択されがちかもしれません。

上記のように(ご高齢の方の場合特に)、その人の長い人生の中での御本人の思いやご家族関係などの生活背景からの見立てと、検査・診断・治療などの医学的な見立てが乖離してしまうことが多々あります。そんな時、その両方をバランスよく比較して総合的に判断できる医師、それは地域に根ざした家庭医・総合診療医、つまり「真の実力をもったかかりつけ医」だと思います。

これから超高齢化社会を迎える日本には、そうした医学的判断と文化的な判断の総合的な力をもった医師の潜在的需要は計り知れないものがあるのでしょうが、、ただ、そうした医師の存在が国民にあまり認識されていないので、国民自身がその需要を認識しておらず、まさに需要が潜在化してしまっているようです。いろいろなところで話を聞いても、やはり、みなさんどんなに高齢でも「専門医志向」ですもんね。ま、それはきちんとした総合診療医・家庭医を育ててこなかった我々医療側の問題のほうが大きいのかもしれませんが。




(つづき)

結局、整形外科の先生の見立ては間違っておらず、ステロイドとリハビリとなりました。


あらま、、やっぱり総合診療医の診療範囲だったのかもですね。。。


(つづき)

リハビリは看護師さんとデイルームまで歩くだけのほんの数分でした 医師はリハビリの指示を出していますが、現実を知っているのかなと思いました。指導医に、入院時、検査して病態がわかっても、3週間も入院してベッドの上に1日中いて歩けなくなって、ボケたら意味がないと申しましたら、自分たちは、「決して安静を指示していません」とのことでした。でも歩けとか、動けとも言ってくれませんから、患者さんは、ベッド上で寝ていることが多いです。
インフルエンザが流行している時期で、食事も食堂ではなく、ベッドの所になっていたので、ますます動かない生活です。


特に90歳を超えたようなご高齢の方は、入院自体が大きなリスクになりかねません。それまで狭い自宅で箪笥やらテーブルなどに掴まりながら一日に何回もトイレに行ったり台所に行ったりしていた方が、いきなり上げ膳据え膳の病院生活になると、運動量が一気に低下し、筋力が衰え、、入院生活が長引くに連れてどんどん歩けなくなる、寝たきりになる、そんなパターンをイヤという程見てきました。でもこれ、僕も病院勤務時代には気づけなかったことです。在宅医療を知り、患者さんの生活を見た上で、在宅と入院の両方を比較してやっと見えてきたんです。
もちろん、病院でもリハビリもします。ですが、やはり転倒・骨折→訴訟などのリスクを考えると病院内を自由に歩き回ってほしくない、歩くのはリハビリのPT/OTが付いてる時でお願いします、という思考になりがち。。。これは医学的な医師の指示というより、現実的な病院の体制・看護側の思惑、という側面の方が強いのかもしれません。



(つづき)

食事をするのに、ベッド上では、安定して座れないので、ベッドに腰掛け、オーバーベッドテーブルを横に置いたのですが、看護師さんが下げてくれたのでは高さが合わず、腕が上がらない父は食事ができず、私がテーブルを目いっぱい下げて調節しました。食事は置いて行っても、どうやって食べているかは見に来ないのかと。何かおかしいと思いました。病院は、検温とか、検査に連れて行く時とかしか看護師さんは来ません。様子見は、夜しかないのでしょうか。
看護師さんは、看護というよりはトイレの付添とか年寄りの生活のための世話が多くヘルパーさんの仕事ではないかと思った次第でした。
病院にも、看護と介護者の両方が必要な気がしました

たしかに病院はあくまでも「治療の場」です。ただ、現実的に入院されているのは高齢者の方が多いので、しっかり「生活」の方も見てほしいとは思います。最近はそういう生活まで見てくれる病院も増えてはいますが…まあ、そういう病院ばかりではないし、やはり病院はあくまでも「治療の場」、病院の看護師さんは本当に忙しいので、あまり多くを求めては酷なのかもしれませんね。

やはり生活を重視するなら入院の是非はしっかり検討したほうが良いでしょう。少なくとも「病院にいれば安心」と無条件でおまかせしてしてしまうことは避けたいところです。


(つづき)

「皆マスクをしていて、誰が誰だかいっちょんわからんかった」と父は言っていました。

画像を見て、バリバリのアルツハイマーと言われ、母は「別の病院では年相応の委縮と言われたけど」と反論していました。理解力は落ちていますが、わからないことは「わからん」と言うし大事な物をしまった場所もまだ覚えているし、日常困ってないので、年相応と私たちは思っています。

介護でもそうですが、評価すると、「そういう人」としか見なくなるのが欠点かと思います。その人の能力が止まってしまうというか、できること、手伝えばできるようになること、良い点に目がいかなくなるような気がします。


よく勘違いされるところですが、認知症は単純に記憶障害(特に新しい記憶を保ちにくい)がメインの病態であって、多くは人格は保たれますし、生活に困らなければ認知症自体が自覚されないことすらあります。

特に、離島や僻地で平穏に暮らしている方は、認知症が重度になっても、本人も周囲も全然気にせず普通に生活を継続されていることも多いものです。それは、昔ながらの生活環境・人間関係が変わらずに残っているから。今日食べたご飯を忘れても、いつもの道で昔から知ってる人と会話することには困らないのです。

そんな「困ってない」人たちに検査して診断することに、何か意義があるのでしょうか。(一発で効く画期的な治療法があるというなら診断も必要でしょうが、いまのところ認知症にはそういう治療法はありません。)



(つづき)

母は、4人部屋の方が、4人分看護師の出入りがあるから音の刺激にもなるし、倒れていたら見つけてもらえると言っていました。
別の病院の個室に入られた、高齢のご主人は、刺激が少ないためか、認知症のようになられたご様子で奥様が、自宅に戻ってから、ひとが変わったようになってしまったと嘆いていらっしゃいました。今回の入院で、検査のレールに乗ってしまったこと、入院はやはり非日常であること。必要な時は、なるべく短期の入院で助けてもらい、なるべく早く日常に戻ることが、
元気でそれぞれの寿命を全うすることになるのではと思いました。
入院していても、何かしてもらっている時間はほんの少しなのに、
病院にいるのが安心と言われる理由、認識の原点がわからない私です。


「病院にいるのが安心」

これは確かにそういう面もあるとは思います。
たしかに病院でしか出来ない高度な検査・治療はたくさんあり、病院医療の価値が今後高まることはあるとしても減じることはないでしょう。

ただ、現実的には・・特にご高齢の方について言えば、そうでない場面も非常に多いのです。


一方、日本の医療を広い視野で見てみると、実は日本は人口あたりの病院・病床数が世界一。米英など先進諸国の数倍の病床をもっています。



また、日本の県別一人あたり入院医療費でいえば、病床数の多い県は少ない県の約2倍の医療費を使っています。

もちろん国としてはそんなことはとっくにわかっていて、ずっと病床を減らそうと努力しているのですが、なかなか減らないんですよね……




もしかしたら、こうした国家的課題の背景には、

「病院にいるのが安心」

とみんなが思っていること、そんな国民的な病院依存の意識が存在していて、

それゆえに『平均寿命世界一』と同時に『寝たきり老人世界一』と揶揄される日本の高齢者医療の現状があるのかもしれません。

もしそうなら、これはもう医療側・国民側の双方でじっくり考えなくてはいけない問題ですね。


以上、頂いたメールから考えてみました。


でも・・この僕の考え方、今の世の中ではちょっと突飛かもしれませんね(^_^;)

皆さんはどう思われるでしょうか。




ぼくの本

財政破綻・病院閉鎖・高齢化率日本一...様々な苦難に遭遇した夕張市民の軌跡の物語、夕張市立診療所の院長時代のエピソード、様々な奇跡的データ、などを一冊の本にしております。まさにこれがACP・地域包括ケアシステムのあるべき姿だと思います。
日本の明るい未来を考える上で多くの皆さんに知っておいてほしいことを凝縮しておりますので、是非お読みいただけますと幸いです。


介護の本

爺ちゃん婆ちゃんが輝いてる! 職員がほとんど辞めない! 施設で職員の結婚式も! 最期は家族のようにお看取りまで…辛い・暗いの介護のイメージをくつがえす「あおいけあ」流介護の世界。

加藤忠相を講師に迎えた講義形式で展開される講義の受講生はおなじみのYさんとN君。その他、マンガ・コラム・スタッフへのインタビューなど盛りだくさんの内容でお送りする、まさにこれが目からウロコの次世代介護スタイル。超高齢化社会も、これがあれば怖くない!



著者:森田洋之のプロフィール↓↓

https://note.mu/hiroyukimorita/n/n2a799122a9d3


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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)