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2023年 夏の放浪 その3

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 放浪にでる直前、東京外国語大学でちょっとした講義をした。「空間と公共性」についての連続講義のうちの1回の、ゲスト講師としての授業だった。授業は英語で行わなければならないのに、ぼくのスキルは非常に低く、そのためあらかじめ講義原稿もとい「台本」を日本語でつくり、これを英訳したものを準備していた。(ただし、文法的にまちがいのない言葉を話せたところで、内容が理解されるかどうかはまた別の問題ではある。たとえば、「私が何かを思っていると私が思っているときに私が想定している私とは、私が前提にしている私の範囲に収まっているのか」なんて文章を流暢に言われても、ねえ?)だから講義としてよいものができたかどうかは心許ないのだけれども、自分の考えを平易な言葉でまとめて、英語に直して、何度か練習するという機会を得たことは、旅の宿でストレートに役立った。

 ホステルのベッドルームは休むためのスペースでしかないので、静かにしていないといけない。活動するなら、かんたんなキッチンもついた、共用のリビングルームを利用する。バーから帰って、道中に作ってきたものや、この日買い集めた素材を抱え、リビングルームにて夜っぴて制作に打ち込んだ。ほかに人がいなかったから、のびのび散らかしていた。でっかいカップにインスタントコーヒーの粉をたんまりいれてお湯を少し注いでよく混ぜてから氷をぶちこんで、それをときどき、舌先を湿らせるだけの子猫のような飲み方で飲む。日付が変わったころ、部屋に、ひとりのフランス人青年がやってきた。せっかくの王様気分に水を差される。

 彼はPCで彼の用事をこなしていたが、一時間ばかり過ぎたころ「ちょっといいかな」と話しかけてきた。ぼくの、虫ピンやグラシン紙、レタリングインクや石鹸との格闘がなんなのか尋ねるためだ。うまくお話できたかどうかはわからないけれど、外語大での講義がおおいに役立ったのは間違いがない。ちょうどいいタイミングで授業させてもらえたんだなあとひそかにありがたがって、それなりに長いことその青年と会話をした。寝にいく彼を見送ってさらに時間を過ごし、ようやく自分も横になりにいく。


出島のフェリー乗り場のうどん屋さんがおいしいって聞いたので朝食べにいった

 宿題提出へのプレッシャーを抱きしめた短い時間の眠りのおかげで、いつも以上にぼんやりふんわりした頭が仕上がる。出島のフェリー乗り場のうどんがおいしいと聞いたので朝はそれを食べにいったがホステルには戻って、チェックアウトの時間が過ぎても共有スペースにはいてもいいというルールにあぐらをかき、バスの時間までリビングで過ごす。制作物を丁寧に梱包したあとは、出版社の人にみせる約束をとりつけた原稿を読み直して、訂正すべき箇所に書き込みをいれる。

 国はわからないが、ガタイのいい若い男二人組が「とんかつが食べたい」と話しかけてきたので、とんかつ屋を調べて地図を描いて渡した。暑い暑い朝からとんかつを目指す二人が店に着き、出島の海を見下ろす窓際の席でテーブルを挟んで座って、それぞれ大きなバックパックを横に置いて、とんかつにぱくついたり、箸に戸惑ったり、漬物をかじったあと顎を引き締めるような動きで口の端を下げたり、身振りと表情でご飯のお代わりをもらったり、猫背になって紙ナプキンで口元を拭って、食器をさげてもらってからあらためて、今日どこにいこうか話し合ったりするさまを想像する。

 もちろん事前に調べてはいたバスの発車時刻直前に、往来に、出るのだが、とにかく日射が容赦ない。どんなバスがきても乗ってしまいそうな酷暑のなか視界がゆがむ。ナマだった豚肉が数十秒でとんかつになるときの気分。ふう。やってきたバスに乗り込んでこの「動く日陰」を移動天主堂と錯誤する。さまざまな装飾や広告によるステンドグラスのゆらめくなか、守らなければならない戒律が、子どもの声で唱される。「バスが完全に止まってから立ち上がってください」遮るように耳栓をした。


左側のカクカクしてるのが「軍艦島」

 
 人は目からの情報に重きを置きがちだけれども、体によるサーチはもちろんほかのものにも及んでいる。今回の旅でも、肌の感じる空気の重さや湿り気の気持ちよさにくらくらし通しだった。匂いには動きの情報がこもっていること、自分のいる環境を統合的なイメージでつかまえるには、耳からの情報が非常に重要だということなど、改めて思い知った。バスに乗ってすぐ耳栓をしたのは、移動によるサウンドスケープの変化をゆるやかに味わうのではなく、劇的に感じたかったからだ。半島南端に到着したタイミングで耳栓を外せば、音の変化に落差がついて、おもしろかろうと思ったんです。しかし失敗する。なぜって、バスの窓のほんの少しの隙間から沁み込んでくる風の粘り気とにおいがほとんど暴力的といっていいほど強引に、「場所の移動」を伝えてきたからだ。それはやさしく、しっかりしていて、当然、潮のニュアンスがある。ガラスの破片が海のなかでこなれるみたいに、私の体の表面の全域が、科学じゃわからない謎の細かい泡にくすぐられる。

 一年ぶりの野母崎で待ってくれていた人は、こちらが抱えていた緊張感をウソにする気安さで迎えてくれ、荷を降ろしたらすぐ、東側に浮かぶ樺島の頂上まで車で送ってくれた。これはあらかじめ依頼していたことだ。野母崎にいったらまず樺島にいきたい。樺島の頂上から、ひとり自分の足で下山をする散歩をしたいとリクエストを送っていたのだ。


樺島の頂上から見下ろす


 樺島の頂上には灯台がある。そこに立って、周囲を楽しんだ。日射、湿度、におい、音。飛び回るトンボやそよぐ草木、動く雲。展望デッキの上でひとり状況の豊かさに飲み込まれていると、「海を見にきた」というおっちゃんが一人登場する。そこから見える陸地がそれぞれなんて名前のどこなのかを教えあって別れ、下山をはじめる。
 飾り付けられたトゥクトゥクが道をあがってきた。いかにもヤンチャそうな兄ちゃんがぶるぶる運転しているトゥクトゥクは爆音ミュージックを流し、観光客を乗せて、見晴らしのいい道で一時停車し「ここフォトスポットっすよ」と促す。乗っている厚化粧たちがワイワイとスマホを構え、爆音ミュージックのなかオーシャンビューを撮影する。山のなかで人に出会ったことと、田舎道で人に出会ったこととあわせ、いちおうは「こんにちは」と声をかけるが、観光客のうちひとりがこちらをプイっと見ただけだった。
 時間をかけて道をおりて、ふもとに辿り着いたら公民館みたいな建物があった。幼稚園の体育館くらいの規模の建物である。「図書室」と書いてある。よく考えずに入ると、職員さんがふたりいる。「涼ませてくれ」と頼んで、「図書室」にいれてもらう。ある種の移動図書館みたいなものらしい。つまり、建築はこのままだが、本棚の中身だけが定期的に更新される。汗がひいたところで礼をいって場所をあとにして、迎えの車を待った。

下りの道

 滞在地に戻ると、もうなにかが準備されていた。シャワーを借りて、制作物の最終点検をすると、「ビール飲む?」と声がかかる。そのまま夜の食事がはじまって、夜通し飲み、語らう。白菜と豆腐とネギとレバーが炊かれた鍋をよそって、醤油と青唐辛子をかけて食べる。いろいろな酒を出してくれる。鍋は進むほど、手羽やエノキや油揚げや、具材が増えていくので、水分の風味が精妙にこなれていく。何時だかわからない時間に床につけば、それまで数時間も、いや数日、いや数百年間と流れ続けてきた、ゆっくりとした波の音がざらざらとやわらかくあたりを満たしていて、ぽーっとなればすぐ朝である。砂浜をひとりぷらぷら散歩して、なにかの肩甲骨を拾った。

 地元の小中学生のための夏休みのカヌー教室の様子を見学させてもらいにいった。入り組んだところにある浜で、子供たちがわいわいカヌーに乗って海に遊ぶ。一応の課題はあるけれど、競うような性質のものではない。目印まで行って戻ってきたら次の人に交代する、とか、そういうルール。カヌーが人数分ないのもおもしろい。「自分の番」じゃない子が常にいて、その子らは待ち時間、待ち遠し気にカヌーを眺めたり、泳いで遊んだり、カヌーや水泳の教室からはずれた時間に心を漏らしていったりしている。全身を使って遊んでいる様子は、カヌーを学んでいるというよりも、もっともっとラディカルななにかを、カヌーで学び取っているようにみえる。

 先生(この人は地元の主婦で、カヌー教室もやれば料理教室もやっている)の言った内容はきちんと把握している子供たちだが、ずっとわちゃわちゃうるさくしている。子供って、「話を聞いています」っていう態度を明確に示さないだけで、しっかり聞いている。先生はそのことを信頼している。 


カヌー教室

 カヌー教室の見学を終え、バスに乗った。長崎市中心部へと戻る。宿題の提出が済んだんだ。荷が下りた。ようやっと晴れ晴れとした気分である。自分としては、ヘンにかっこつけず正直に自分を出せたものであるので、恥ずかしいし、恥ずかしくない。
 バスは一度乗り換える。今度は耳栓をしていない。出島の手前で降りて、ひとまずは商店街のなかのコインロッカーに、少し軽くなったリュックサックを預け、そういえばそろそろ何か食べようと思い、ランチ定食の看板を出している居酒屋にはいったが、何を食べたか覚えていない。今回の旅行で一番印象の淡いごはんだった。おぼえているのは、店の座敷で発泡酒の缶を飲みながらテレビを見上げ、白日のもとにさらされた、中古車販売業者の悪行の数々を睨みつける店主の姿のみ。
 なにせホッとしたし、この一週間強で蓄えたさまざまなものどもで体は膨らんでいる。発泡酒片手にレジを打つ店主に礼をいって店をでて、去年も訪れた、長崎に関するものを扱うお店にお邪魔した。

 店主自らデザインした長崎にまつわる意匠のグッズの並ぶ店内で、一年ぶりにやってきましたとあいさつをし、旅の報告を聞いてもらう。去年は長崎市についてたっぷり話しあったものだけれど、今回は諫早や島原天草はもちろん、太宰や平戸へと、言及の範囲が広がる。退店し、路電でむかったショッピングモールで涼む。喫茶店にでも入って原稿のチェックの続きをしようかとも思うが、やらない。
 暑い盛りの時間が過ぎてから、大浦天主堂の方面に行く。天主堂のすぐ裏手には諏訪神社があり、また仏式の墓地もあり、3つの宗教がぎゅっと集まっているなかを縫う細い道をたどれば、眼下に出島を望む見晴らしのよい場所に出る。ここに座って、蚊がくるのを許しながら、ぼんやり遠くを眺めたり、なにかを思い出したりして夕方を過ごした。


天主堂の裏の道

 荷物を回収してから、懇意の書店を訪れる。閉店作業を見守ったり手伝ったり。店主と常連さんと3人で、浦上の立ち飲み屋に移動した。わたしと常連さんとが話しているのを店主が見ている、という時間が多い。互いの来し方や、文章を書くことについての話が中心だったような気もするけれど、とにかくこの日は(も?)おおいに飲んで、かつ酔っぱらったんで本当にあまり覚えていない。懐かしめの曲がかかっている立ち飲み屋だった。なにを食べたのかも記憶はおぼろで、へろへろになりながら退店し、路電に乗った。書店店主のお宅に停めてもらう。お風呂を借りて、さらにいろいろとお話をし、それから押しつけるのも厚かましいけれども、小さなリトグラフを何点か貰ってもらった。
 店主宅は中古の一軒家で、前の住人が施したリフォームの跡があるのでおもしろい。単に昭和の住宅建築というだけでなく、手すりが取り付けられていたりだとかの改造跡があって、ここに今の住人の生活が乗っかっている。場所の地層が明確にあらわで、それが長崎にある。自分にとって非常に意味深なスポットにも思われる。
 翌朝、景観のよい道を気分よく散歩しいしい、店主常連の喫茶店でモーニングセットを食べる。店のおばちゃんがサービスで自家製の紫蘇ジュースをくれる。本をよく読むような人で、しかも自分からもがんがん話をしてくれる人と話すときはだいたい、いつもよりもより一層ものすごいマシンガントークになりがちなのだけれど、この朝もそうだったような気がする。朝からしっかり語らい、空港行きのバスの出るところまで案内してもらって、開店作業へむかう店主を見送った。
 
 うつらうつらして、気がつくと海が見える。空港に近づいている。
 
 お土産をなにも買っていない。空港でテキトーに調達することにした。博多の「通りもん」に似た食品サンプルが目についた。「通りもん」はおいしいから、このお菓子をひと箱買って、仕事を休ませてもらった先含め、むこう一か月くらいのうちに会う人に配ろうと考え、実際に購入した。その箱のなかにあるお菓子が予想の倍以上のサイズで、ひと箱に4つしか入っておらず、賞味期限は一週間しかなく、しかも鹿児島のお菓子だということに気がつくのは3日後である。出発ロビーで放心し、飛行機内では原稿の赤入れを行う。ほんの数時間で羽田空港に到着する。
 狭い廊下に並んだ客室乗務員たちの「ありがとうございました」を体の側面に受け、出番を終えてライブハウスの楽屋に戻るバンドマンになりながら到着ロビーを抜け、預けた荷物を受け取るエリアも通り過ぎると、棒を持った警備員が数人おり、進行方向をアシストしている。棒の示す方向に進むと自動ドアがあり、その外は屋根の下だが屋外で、バスが待っている。促されるままバスに乗り込んで、一番奥の座席に座る。飛行機を降りた人たちは同様に、次々に乗り込んできて、バスはすっかり満員になる。『バトルロワイヤル』の冒頭のシーンを思い出す。どこに連れていかれるんだろう‥‥‥



2.  歴史について


 
 南蛮貿易にしても遣隋使にしても、元寇・倭寇にしても、長崎という土地が海のむこうからのアクセスによいのは明らかで、そのため国の要所として栄えてきたことは間違いがないけれども、それでも、もともと人が住んでいる場所ではなかったらしい。そりゃそうで、畑をつくるには土地が急峻すぎるし、急峻だから陸路の移動は骨が折れる。遊動時代の人類はともあれ、定住生活をはじめた人類にとっては、あまり魅力的な場所ではなかったかもしれない。

 太宰(いまの博多)から平戸、平戸から長崎、と、栄えているスポットが南に降りていった歴史もある。ある場所が栄えるというのは、「攻撃されたらつらい場所」がはっきり生じるということでもある。船に対して無防備な場所を長く繁栄させるのはちょっとこわい。それで、ホットスポットが南下していったのかもしれない。

 もともと人が暮らしてきた場所が、自然ななりゆきで賑やかな場所になっていったのではない。「なにもない土地に、なにもないからこそ鉄道レールをひくことができて、そこに駅を作ったら、人が集まるようになった」みたいな成り行きだったのかもしれない。

……なんて「かもしれない」「かもしれない」が続くと文章がきもい。私は研究者ではない。すべてに確証はない。しかし一方では、作家だと自称しているから、独善的な連想を出発点にしてパラノイアを深めても罪悪感がない。ということでこれから断定口調になりますが、内容は偏見であり、フィクションでありさえする。
 
 旅の道中おもしろく思った事柄のうち歴史に関するものの感想を並べるブロックです。が、その前に情報を整理しましょう。

 十六世紀にヨーロッパ人たちがやってきた。「宣教」師という言葉もあるものの、「侵略者」と呼んでも、まあまったくの間違いにはならない。だってちゃんと植民地化の狙いがある。しかし彼らがビジネス的にキリスト教信者であるはずはないのだから、宗教を「それはそれとして」と割り切ったうえでのドライな植民地化企図を持っていたはずもない。相手をあなどっているからこそ抱ける正義を行使する使命感を胸にしていた。
 その頃の人々の持っていた知識の量と、海の広さを考えあわせれば、船に乗って、どことも知らない陸地を目指すことはものすごいことだ。「神への愛や信仰を強化する道行きだったに違いない」という遠藤周作の想像は、感傷的ではあるものの、納得感はある。また一方で、長崎で、ひろいひろい海を見続けて生活している人がつぶやいた、「海の向こうに行こうとする気持ちが、最近どことなくわかってきた気がする」という言葉も忘れられない。保証なく、未知へと航路を進む。
「船に乗って遠くの知らんとこに行ってこい」は、「まあ死ぬかも知んないけど、頑張ってね」って意味でもある。それなりの家柄で生まれ育っているものの、本国での立身出世は目指せない事情のある人が宣教師になっているパターンも珍しくない。

 長崎のキリシタン史のなかには、「日本二六聖人殉教」という話がある。1597年に、26人もの信者がいっせいに死刑になった事件で、そのためにこの26人は全員が聖人として列聖されている。キリシタン記念館で、この殉教事件を描いた版画を見た。「26人が殉教しているシーン」を描いたもののはずなのに、23人しか描かれていない。なぜならそれは、「処刑された日本のキリスト教徒」の絵ではなくて、「処刑された日本の、フランシスコ会の教徒」の絵だからだ。3人のイエズス会士はカウントされていない。日本じゃ「キリシタン」と一声でまとめているけれど、キリスト教社会のなかでは、やれイエズスだの、やれクエーカーだのとわかれ、対立している。
 
 出身国や教派にヴァリエーションのある宣教師たちだった。彼らははじめ南島原の、いまの「玉峰寺」のあるところに集まって戦略会議をした。日本にキリスト教をひろめるためにはどうすればいいのか話し合い、日本人の宣教者を育てる方針が結論され、教育者を育てるための学校がつくられるはこびとなる。
 この学校に通うことになったのはしかし、日本人ばかりではなかった。むしろ、渡来してきたヨーロッパ人の子供や、マカオやフィリピンから留学しにきた子供まで、日本人以外の割合が高く、とにかく国際色豊かな教室だった。繰り返すが、十六世紀の話である。語学や印刷技術、西洋音楽や油絵の技術についてみっちり学ぶ学校では年に一回文化祭があって、近所の人も大勢見物しにきて、ワイワイ賑わっていた。クリスマスの時期には生徒たちがランタンを持って近所じゅうを練り歩いて、ちょっとしたお祭りというか、パレードというか、やはりこれも、地元の人をわくわくさせるイベントだった。
 それがほんの数年で禁じられ、かつ締め付けが激しくなって、あるとき一揆が起こる。
 
 中世に遊郭街のようなものが育ったのかはわからないけれど、昭和初期の大火災まで、長崎半島南端の樺島はおおきな遊郭だったらしく、客のおおくはガイジンであるために、血が混ざるケースもあったそうだ。女の子なら育てて売り飛ばし、男の子なら生まれてすぐに間引く。(遊女の体を傷つけないために、堕胎はさせない)
 遊郭の話はともかく、十六世紀時点でも、さまざまな国から人がやってきており、子どもだっていて、そこに生活を営んでいたのだから、さまざまなルーツが混ざり合った人はあったはずだ。① 当時の日本人が、西洋人から聖書の話を伝えられたとき、頭のなかでイメージする聖者の姿は、目の前で話をしている西洋人の見た目を借りて想像したものだったろうことと、② 天草四郎が赤毛だったという証言がいくつか残っていることを、胸の中でなんとなく結びつける。少年・天草四郎時貞は、明らかにアイコンでしかなく、裏側にたくさんの知恵者たちがいたわけだから、逆に言えば、外見的な特徴に、まさにカリスマとして擁立させられるべきなにかが備わっていたとして、まったくおかしくない。
 
 島原の乱で使われた陣中旗はじめ、書籍等でみてきたものたちを実際に目にすると、素直に感動がある。勉強してから訪れる資料館はたのしい。

 さて話の舞台は一揆と弾圧の前、文化祭やクリスマスパレードの時代に戻る。といってもほんの数十年のことだが。
 ヴァチカン美術館の壁画にもなっている天正少年使節団の渡欧は一大行事であった。日本の少年4人がルネサンス花開くヨーロッパへと渡り、教皇から歓待され、さまざまなものや見聞を持ち帰って帰国したわけだ。彼らは秀吉の前でバイオリンを弾いて土産話をぶつ。ローマにはローマで、日本から、すごい少年たちがわざわざきたぞ、とおおいに評判の高い出来事となる。
 が、そのあとキリシタン一揆が起こり、このために幕府は鎖国を開始し、そして天下泰平の江戸時代がやってくるわけだが、この時代に天正少年使節団は、日本の歴史からまったく削除される。中世の世にヨーロッパまで渡り、超偉い人に歓待され壁画にまでなって帰ってきた少年たちは、200年間忘れられていた。江戸幕府がついえ、明治政府がおこり、新しい時代だ、これからヨーロッパを見習って、よい国にしていきましょうと意気込んで岩倉具視が実際にヨーロッパを見聞しにいって、そこで「発見」するまでの200年間、天正少年使節団は「なかった」。




(つづく)



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