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階下から聴こえるギターの音色⑥(後編)歓喜のふうせん

そう。
あえて、言葉にしてみれば
ということではあるけど
たぶんその方が思考につかまらず
自分の意図を超えやすい。
慣れてないからこそ。

たとえばそのひとつの気づき、
というか体感の記録が
前編冒頭で引用したメモなんだ。

そのようなことを、考えさせられたのです。



さて、見開きで進む本、書物は
テキストが横書きならば
右に頁をめくる方向へ
時も進んで行きます。基本的に。
絵本は特に視覚的にも
そう設定されることが多く自然です。

で、わたしは書き手としても
そういう世界に住んでいます。
が、いつかのとき
詩にまつわる大きな気づきがありました。

それは、詩における時の流れは
過去→今→未来
という場合に限らないというもの。

一編の詩、その
はじまりとおわりは当然あっても
内実、時空はひっくり返っている
…かもしれない。

というか、
書き手と読み手を
時の流れから解放するのが
詩なのだとわたしは思いました。

ヨガや呼吸法で瞑想するときに、
内観を通して
細い針穴からもれる光を見ていたはずが
いつのまにかとてもひろいところに
浮遊する、ことがあります。

というかアサナの動き!

身体を動かし、それにより感じる
心地よさだけではないものにも
呼吸を連動させる。

俯瞰して見つめるそのうちに
身体が自分なのか
呼吸が自分なのか
何か曖昧になるようなことがあります。

外界と接触する側の身体の自分、
言ってみれば外向きの自分から、
内に広がる空間へ
それが現実的な外側にと
繋がったときの静けさはちょっと
言葉に代えがたいものがあります。
宇宙意識とよぶとどうでしょう。

ともかくわたしは、たいていの時間
思考をしています。
たぶん多くの人がそう。

そして、そういうなかで、
ピンときたものを
ときに追いかけるようにして
ノートにメモしたりすることを
仕事にも使っています。

でも、言葉や思考で
追いかけるほど
ピンときた最初の感覚は
遠のいてしまうことがあります。

起きぬけに、
さっきまで見ていた夢の記憶を
思い出そうとするのと同じです。

夢の中でたしかにあった
せっかくの実感
(たいてい、夢見心地の至幸感)
が薄らいでいったり
冷めていってしまうと
そんな自分にがっかりします。

絵本のアイデアも、
そうだったりするのです。

そうなるとわたしはとても
横暴な行いだったと密に恥じ入ります。
待てなかった自分を悔やみます。

それでも尚のこと、重ねてきました。
そうすることでしかないと
どこかであきらめて。

でも、そのひとつの苦しみの解放が、
たてもよこもうえもしたもない
という宇宙の空間の認識であり
詩からの、気づきだったのです。

それを、自分自身の内に
感じられるようになれば
いいだけだと知りました。

わたしにとって、いま、
自分の胸に手をあてることは、
地面に手をあてることであり
空に手をかざすことであり
背中にあたるひざしになり得る。

意識をのせることで
わたしたちは
なんでも撫でることができるのです。

それが例え
自己完結しているように見えても
その制限さえ手放すと決めたらいいだけ。

結果を求めないというのは
たぶんそういうことではないかなあ。

力まずに、
ただふっと
そうしたいように
よろこびをもって
そうする。

歓喜。

からだじゅうに力をこめて
おたけびをあげるエネルギーを
つくりだすとどうじに
あまりにも
ふうせんみたいにほわほわと
りんかくさえもなくして
自由に。

そこが、
いのちの地点なのかもしれない。

言葉に今こうしたことで、
確かに始まった変容を
わたしは、自分自身に響かせています。


わたしの創作活動をサポートしてくださる方がありましたらぜひよろしくおねがいいたします。励みとし、精進します。