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読むものも「みんなちがってみんないい」

病気になった落ち着かない自分を寝かしつけるために、山本周五郎の朗読を数えきれないほど聞いた。それを聞いているといつか寝入る。その睡眠が病気療養の助けになった。
朗読を聞いていると、どこかに置き忘れていた人間的な感情や覚悟を思い出した。だからと言って、自分がすっかり清くなったわけではない。
そんな「耳からの多読」を経験して私が感じるのは、高校、いや、中学・小学校の授業で、生徒が好きなものを選んで読むことが許されたらどんなにいいだろうということだ。
読む他作品も、「みんなちがってみんないい」とならないだろうか?
国語教科書に収録される文学教材は、どうしてこうもしち難しいものが多いのだろうか。そして、その一つの教材を生徒全員が読まなければならないということは、本当だろうか?
しち難しいものを読むことに喜びを感じる生徒は読めばよい。それも許されるが、別の作品を読むことも許されるような授業は不可能だろうか?そういう授業のほうが、生徒一人一人の読む力がより効果的に伸びると私は考えている。
検定教科書は使うけれど、それ以外の作品を読んで学んでもよいということになれば、国語の読みの時間はもっと楽しくなるだろう。そして読む力も高まるだろう。と私は考えている。
ただし、そのうえで、受験対策が必要な生徒は、何処を受験するかに応じて、それに役立つような受験対策をしたほうがよいと思う。
学校の国語の授業が受験対策一色になるのは、あまりにももったいない。と私は思う。

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