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行動を伴う共感と、伴わない共感の違いは何か?

生活が豊かになりモノが溢れかえり、またSNSで容易に不特定多数の人とコミュニケーションを取る方法を得た日本社会において、人は「モノ」ではなく「コト」をトリガーとして行動するようになってきました。

その行動への意思決定のプロセスの中で、「共感」が重要な鍵となっています。

ただ優れたモノだからという理由ではなく、はたまたただ有名な人が勧めているからという理由ではなく、対象やそれに付随するストーリーや哲学性に共感することが最も行動につながりやすいと言われています。


では「共感」とは一体何なのか?

「共感」が生まれたら必ず行動が伴うのか?


この記事ではポール・ブルームの「反共感論」の内容を参考にしながら、マーケティングやPRなどで「共感」によって人を動かそうとする側の立場から、行動が伴う共感と伴わない共感の考察をしてみます。恐らく今後プロダクトマネージャーとしての仕事の中で役立つ可能性が高いため、備忘的な役割も込めて。


「反共感論」とは

この書籍のカバーのそでには以下のような文章が書かれています。

次々と明かされる共感がもつ負の側面ー
欠陥のあるワクチン接種のせいで、かわいらしい八歳の少女レベッカ・スミスが重病にかかったとしよう。彼女が苦しむところを目のあたりにし、彼女や家族の話を聞いたとすると、あなたは共感を覚え、行動したくなるだろう。
だが、ワクチン接種プログラムを中止すれば、数十人の任意の子どもが死ぬとする。この場合、あなたはそれらの子どもに共感を覚えることはないだろう。統計的な数値に共感することなどできないのだから。(第1章より)

筆者の主張として「共感はスポットライト的に作用するため、その共感によって引き起こされた行動は、必ずしも全体にとって良い結果をもたらすとは限らない」と一貫して語られています。

詳しい書評はこちらに書かれているのでお任せします。

個人的には全ての主張に手放しで賛成できる内容ではなかったものの、特に第2章の「共感を解剖する」の内容に非常に学びが多かったため、自分なりの考察も含めた上で、共感を覚えてから行動するまでのプロセスを分解してみました。(独自の解釈も含まれているため、「反共感論」の主張とは異なる部分もありますのでご承知おきください。)

全体像がこちら。

順に見ていきます。

認知的共感

他者が痛みを感じていることを、必ずしも自分では経験せずに理解すること。

「反共感論」では後述の情動的共感とは明確に区別をし、こちらの共感の必要性に関しては認めています。

例えば、何かの交渉の際に相手の悩みを感じ取った上で、交渉がうまくいくように新たな提案をするようなことが認知的共感です。この場合は必ずしも相手の痛みを自分ごとにする必要はありません。

行動を伴う認知的共感/行動を伴わない認知的共感

認知的共感において、行動を伴うものと伴わないものの違いは何なのか。特に「反共感論」では言及されていないのであくまで個人的な考察ですが、単純に関心の有無だと思います。ここでいう「関心」はかなり広い意味で使っており、相手との人間関係や利害関係の有無という意味も内包しています。「今動いておけば後々に自分にとってメリットになる」みたいなイメージです。

相手が何かに苦しんでいて、それが特に自分ごとには感じられなくても取り除く行動をするかどうかを判断する際には、ある程度冷静に、そして打算的に「理性」で判断しているのです。こちらはどちらかというとリアルでクローズなコミュニケーション(≠SNS、広告)の中で働くものという印象です。

情動的共感

他者の苦難をあたかも自分の苦難であるかのように扱い、それを取り除こうとする行動へと人々を動機づけるもの。

「反共感論」で標的としている共感がこちらです。

例えば、自分の過去の苦い経験と似た境遇に置かれた子供を救うための行動を取りたくなったり、自分の主張を代弁してくれている団体を応援しに行ったり、というのが情動的共感です。自分の外にある苦難を自分の中にある(必ずしも表面化されていない)苦難とシンクロさせることで、行動へのエネルギーに昇華させるイメージです。

そしてのそのシンクロ率は、共感の対象が少数で具体的であればあるほど強くなります。冒頭のワクチン接種の少女の例にもあるように、「◯◯ちゃんが被害に」の方が「数千人が被害に」よりも情動的共感を掻き立てやすいのです。ワイドショーでも震災の被害状況を伝える際に家族を失った人を映すインタビューが多いですが、これは情動的共感の刺激が狙いなのでしょう(個人的には嫌いですが)。

行動を伴う情動的共感/行動を伴わない情動的共感

とはいえ、必ずしも情動的共感が行動を伴うわけではありません。「反共感論」にも書かれていますが、自分の中にある苦難を取り除く最も簡単な方法は「目を逸らす」ことです。要は見て見ぬ振りをして、自分の外にある苦難からのシンクロを防げば良いのです。

にも関わらず行動に移す人は何が違うのか。これは自分への関心と他人への関心の大きさの割合によります。これはもはや「性格」によるもので、いくら情動的共感が大きくても、ベースとなる性格が「自分にしか興味がない」という人なら何も利他的な行動は生まれません。情動的共感が人を直接的に動かすのではなく、その人が元から備えている「他人への関心」を刺激するようなイメージです。認知的共感が理性ドリブンで動くのとは異なっています。

行動を伴う情動的共感(応援/妨害)

情動的共感によって行動が発生したからと言って、それが必ずしも応援に繋がるとは限りません。

例えば、自分が喉から手が出るほど欲しい賞がありそれに向けて努力している最中に、自分の仲間がそれを受賞できるチャンスに恵まれた場合、そこまでの苦しみや努力に対して自分ごとのように共感できても、同時に嫉妬心が生まれるため行動が「応援」ではなく「妨害」に変わる可能性があります。逆に既に自分がその賞を受賞していたら、嫉妬心ではなく応援の気持ちが生まれる可能性が高くなります。


ここまでで重要だと思うのは「共感を得られたからと言って必ずしも人は協力してくれるわけではなく、寧ろ遠ざけられたり妨害されたりする可能性もある」点です。SNSマーケティングで共感ストーリーを押し売りのごとく打ち出す広告を目にしますが、共感すれば必ず人が動くという前提は捨てるべきだと思います。そのあたりの考慮を蔑ろにしている広告がよく炎上している印象です。

情動的共感によって人々の行動をコントロールしたいのなら、人に対してマスとして向き合うのではなく、性格や思考、コンテキストまで考慮することがポイントになると思います。


情動的共感による結果は理性でチェックする

「反共感論」の末尾の方で、情動的共感によって発生した行動(行動しない選択肢も含む)に対して、「果たしてそれによってもたらされる結果は本当に望ましいことなのか?」を理性を駆使した自問自答を推奨しています。情動的共感が度外視しがちな統計的要素や全体最適をしっかり理性によって考えることで、正しい行動の選択を可能にするという主張です。

個人的には、人の理性なんてものも大概曖昧で不安定なもので、感情やこれまでの経験によっていくらでもバイアスがかかるため、正しい行動へ導く最後の砦とはならないと思ってます。

行動が「正しい」かどうかは置いといて、情動的共感によって衝動的に行動を選択したとしても、実際に選択するかどうかの判断の前に理性が登場するという点は同意します。いくら強烈な情動的共感に導いたからといって、行動のハードルが高ければ理性がブレーキをかけます。

なので共感によって人を動かしたい場合、最後に相手の理性が働くことも忘れてはいけません。繰り返しになりますが「共感を得られたからと言って必ずしも人は協力してくれるわけではない」のです。



非常に抽象的かつ普遍的なことばかり書いてしまった気もしますが、共感が重要とされているこの時代において、この「共感の要素分解」と「行動への意思決定までのプロセス」は頭の中にインストールし、常々アップデートしておくべきだと思います。

また私は心理学専攻でも何でもないので、この考察が正しいかどうかはわかりません。逆に詳しい方からご意見いただけると非常に助かります。


(参考記事)


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