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約十一万七千人から約七千人へ。
1961年に約十一万七千人だった人口が
2022年に約七千人に減った街…。

北海道の夕張市(ゆうばりし)です。

なぜ夕張は衰退したのか?
その問題を考える中では
多くの教訓が得られると思います。

そんな想いを「夕張学会」
正式名称
『夕張「村」プロジェクト「夕張学会」』
という組織を作って、
考えている人たちがいます。

そのホームページから引用しましょう。

(ここから引用)

『縮小ニッポン。
日本のどこにも、夕張はあるはずです。
破綻すれば何ができなくなるのか。
できなくなって、
ほんとうに困ることは何なのか。
それで泣く人はどんな人か。
できなくなって、
むしろ良かったことはないのか。
それを知るだけでも、これからの
日本にとって大きな資産です。
今までの暮らし方にしがみつきたい人、
しがみつくしかない人を、
どれだけ新しい暮らしに向けさせるのか。
ささやかに見えて、
とても深い知恵が必要になります。
だから、夕張は英知の宝庫でもあるのです。』

『夕張は、もと来た道に戻らない。
破綻こそ、変革のチャンスです。
やるしかないからやれるのです。
いままで、おカネだけに頼っていた。
行政任せにしてきた。
文句は言うけれど、
自分では動かなかった。
おカネが詰まれば、知恵を動かし、
新しい豊かさをつくりだす。
そんな試みが、「夕張学」です。』

(引用終わり)

興味のある方は、ぜひ、リンクから
「夕張学会」のホームページを。

本記事は、夕張の歴史と地理について
書いてみたいと思います。

夕張市は、北海道の
空知地方の南東部の山あいの街です。
北海道の西に、道庁のある札幌。
北海道の中央あたりに
「北の国から」の舞台の富良野。
その中間あたりにあります。内陸部。

アイヌ語の「ユーパロ」から
名付けられたと言われています。
ユーパロとは、鉱泉が湧き出る場所。
明治時代に北海道の開拓が進むと、
夕張は炭鉱・鉱泉の街として
知られていくようになります。

1874年、アメリカの地質学者、
ベンジャミン・スミス・ライマン
という人が、夕張川の上流に
石炭層があることを推定。

その調査に同行していた
坂市太郎という人が、
1888年に石炭の露頭
(地表に出ている石炭)を発見します。
「夕張の石炭大露頭」
北海道の天然記念物にも指定されている)

この石炭産業は
1960年頃に最盛期を迎え、
人口は約十一万七千人にまで
膨れ上がったのです。

…しかし「エネルギー革命」が起こる。
石炭から石油にエネルギー源が変わる。
街を支えた炭鉱、および
石炭の会社は徐々に無くなっていきます。

そこで夕張は、どうしたのでしょうか?

中田鉄治、という方が市長になります。
1979年から2003年まで、6期24年在任。

企画室長だった1970年頃から
「石炭産業に未来はない」と考え、
早くから石炭産業の斜陽化に
警告を発していました。
助役時代の1977年には、
「炭鉱から観光へ」のキャッチフレーズで
「石炭の歴史村」事業計画を始めました。

1979年、その彼が市長に就任。

彼はまず、石炭に代わる産業を誘致しようと
試みますが、「石炭」のイメージがある
街には、なかなか企業誘致がうまくいかない。
観光客が集まるほどの魅力的な街づくりを!
長い目で見て企業が招致に応じる街を!
観光事業を、推進していきます。

「分不相応の投資をしなければ、
夕張市は再生しない!」


「石炭の歴史村」の各施設の建設。
ゆうばり国際ファンタスティック映画祭。
たくさんのイベントを連発していくのです。

◆1980年「夕張市石炭博物館」約15億円
◆1983年「石炭の歴史村(遊園地)」約55億円
◆1985年「めろん城」約6億5000万円
◆1988年「ロボット大科学館」約8億5000万円

1980年代と言えば、景気の良い時代。
竹下内閣の下で
「ふるさと創生事業」として
各市町村に一億円が配られた時期です。

夕張のみならず、全国各地で
リゾート施設が乱開発された時期…。
中田市長の施策も、言わば
「時代に応じた」施策だったのかもしれない。

…ですが、これが次第に重荷になる。

夕張市の中の地理を見てみますと、
北側には、炭鉱が多かった。
南側には、炭鉱住宅、メロン農地が多い。
南北に長い市です。

中田市長の地盤は北側。
助役時代に、夕張メロンを開発中だった
農協は市に援助をお願いしましたが、
観光重視の彼は、断った。
それ以来、南側は反市長派が多かった。

彼は、北側に観光施設をどんどん作って、
南側には企業誘致のための整地、
新たなバイパス道路を作っていきます。

「市長が私たちの仕事を作ってくれている」
「市長は中央に顔が利く実力者だ」
「市長は国からお金を引っ張ってくる」

そんな状況、雰囲気も相まって
観光施設拡充路線は止まらない。
財政も黒字だ…。

しかし実はこの黒字も、
不適切な会計処理の結果だったんです。
普通会計から観光事業会計に
資金を流して、第三セクターの
赤字補填に使っていく。
前年度会計と今年度会計の間の
出納整理期間を利用して
「抜け道」として見えなくしていたんです。

2003年、ワンマン市長として君臨していた
中田市長は退任し、同年、死去します。

その二年後、2005年度決算で、債務は
合計で632億円を超えるものになっていた。
2006年、後任の後藤健二市長は、
「財政再建団体」申請を行います。
夕張市の財政は、破綻しました。

最後にまとめます。

本記事は、夕張市の歴史と地理を
書いてみました。

財政破綻から約17年。
2022年の人口は、約七千人です。

石炭から石油へ…。
バブル経済から失われた〇〇年へ…。
夕張市は、戦後日本の目まぐるしい変化を
もろにかぶってしまった街だと言えます。


ただ、冒頭の夕張学会の文言にもあるように、
「もと来た道に戻らない」。

前を向いて歩いていくしかない。

これは、夕張だけではなくて
他の市町村にも
当てはまることではないでしょうか?

読者の皆様の住む市町村は、
どんな歴史と地理を持ち、
どんな未来を歩んでいきますか?

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