見出し画像

江戸時代に、奇妙な藩がありました。

喜連川、きつれがわ、という藩。
現在の栃木県さくら市のあたり。
宇都宮の北東、那須高原より南です。

…ふつう、大名は「一万石以上」ですよね。
しかしこの喜連川藩、
五千石くらいしか無かったそうです。

特権も認められていました。

◆「国勝手」(参勤交代免除・妻子は国許OK)
◆「諸役御免」(幕府からの諸役賦課の免除)
◆「無高にて五千石」(表面上は石高ゼロ)

(「自主的に」江戸には行っていたようですが)

…こんな大名、他にいない!
なにこれ、こんなこと、認められるの?

江戸幕府は、参勤交代や諸役で
各藩の財政を悪化させることが多い。
人質として大名の妻子を江戸に住まわせ、
石高に応じた格式を求めるものです。
なのに、なぜ、喜連川だけ特権を認める?
ひいき?

実はこれには、深いわけがあるんです。
本記事ではこの喜連川藩の由来と、
その顛末について書いてみます。

喜連川家、喜連川藩は自分たちのことを
「天下ノ客位」「無位ノ天臣」
呼んでいたそうです。

…これ、江戸幕府の将軍様に対して
けっこう失礼ではないですか?
俺たちは江戸幕府の家来じゃないぞ!
と宣言しているようなもの。

つぶされても、おかしくない。

しかし、幕府もこれを認めてきたんです。
というのも、実はこの喜連川家、
元を正せば、名門「足利家」の流れだから。
実は、室町時代の関東地方の「主」だった。
だから、江戸幕府も尊重したんです。

その流れを、確認していきましょう。

足利尊氏、という人が征夷大将軍になり、
京都に幕府をひらいた時のこと。

京都の次期将軍は、長男の「義詮」に。
鎌倉の鎌倉公方は、次男の「基氏」に。
そう、尊氏は自分の息子を
京都と鎌倉にそれぞれ配置した。

この足利基氏(もとうじ)が、
喜連川藩のもともとの祖先です。

京都の「室町幕府」「室町将軍」と、
鎌倉の「鎌倉府」「鎌倉公方」は、
いわば本社と支店、
「本社社長」と「支店長」のようなものです。
大事なポジションだから
一族に任せた、というわけ。

しかしこの足利基氏、
1340年生まれなのに、
1349年には鎌倉に行かせられる。
わずか九歳くらい。幼い。
なので、上杉憲顕(のりあき)という
34歳年上の家臣が補佐します。

この上杉憲顕が、なかなかのやり手。
京都にいる尊氏に反抗したりして
一時、没落して追放されたりしますが、
尊氏が亡くなると、基氏によって呼び戻され
重用されていきます。

幼い頃に助けてくれた恩を忘れていなかった。

ここに、鎌倉公方の「足利基氏」(足利氏)、
関東管領として補佐「上杉憲顕」(上杉氏)、
というポジションが確立する。

「足利〇〇」が支店長として君臨し、
「上杉〇〇」がその下のやり手専務。

これが、室町時代の関東の基本構造なのです。

…しかし、色々あって、これが分裂する。
詳細はとても書ききれないので割愛します。

鎌倉公方は、
「古河公方」と「堀越公方」に分裂。
上杉家も
「山内上杉家」「扇谷上杉家」に分裂。

ざっくり言えば、

◆古河公方:古河(関東平野の真ん中)のボス
◆堀越公方:伊豆半島の支店のボス
◆山内上杉家:上野(いまの群馬県)のボス
◆扇谷上杉家:武蔵(東京・埼玉)のボス

「四国志」状態です。

誰が偉いのかわからない。
権力あるところ、権力争いがどうしても
勃発しがちなものです。
支店長と専務の一族が、争っている。

(ちなみに、扇谷上杉家の有力武将、
太田道灌が「江戸城」をつくったりしました)

この関東地方を統一していったのが
「後北条氏」。北条早雲の一族です。
伊豆半島、東京埼玉、群馬、古河へと
どんどん勢力を拡大していきます。

1582年、本能寺の変が起きた年。

古河公方である足利義氏が死去します。
男子の跡継ぎがおらず、
足利氏姫(うじひめ)という女性が後を継ぐ。
この女性は、後北条氏の
北条氏康の孫でもありました。

1590年、豊臣秀吉が関東地方の
後北条氏を滅亡させた時。

秀吉は関東の名門である足利氏が
無くなることを惜しんだんですよね。
(織田信長と敵対した将軍、
足利義昭も助けたくらいですから…)
この氏姫と、親戚の足利国朝とを
結婚させて、「喜連川」というところに
所領を与える
ことになります。

…ただ、これ、あからさまな政略結婚。
氏姫は「喜連川になんか行かないんだからね!」
と言って、ずっと拒否していたそうです。
後に、国朝が死去、その弟の頼氏と再婚。

この足利頼氏が、喜連川藩初代藩主です。

息子の足利義親が跡継ぎとなりましたが、
母親が喜連川に行かないから、
彼もまた、喜連川には行かなかった。


その息子、足利尊信(喜連川尊信)の時代に
「喜連川騒動」という家臣同士の争いが勃発。
尊信は責任を取って隠居、七歳の息子、
昭氏(あきうじ)が家を継ぐことになります。

…ここまで書いてきて
なんだか切なくなってきました。
まとめてみますと、

◆古河公方、後継ぎがいない…
◆女性の氏姫が跡を継ぐ
◆政略結婚
◆でもその相手は病死…
◆弟と再婚し、子どもをもうける
◆でも氏姫と息子は、喜連川に行かない…
◆その息子の代に、家臣同士の争い
◆責任を取って隠居、七歳で家督相続…

みんな、若くして死んだり、
無理やり結婚させられたり、隠居したり、
ちょっと不幸な感じなんですよ。

この頃にはすでに、江戸幕府の第三代将軍、
徳川家光の時代になっていました。
この喜連川昭氏が、頑張った。
1713年まで長生きして、72歳で死去します。

「でも、江戸時代の藩って
取りつぶされたり、国替えさせられたり、
ころころ変わるんでしょ?
喜連川藩も、そうなったのでは?」

それがそうじゃないんだな。
何しろ、名門ですから。足利氏の流れ。
江戸幕府、ノータッチ。アンタッチャブル。
「あそこは特別だから」ということで
ずっと存続させる。
徳川家康が関東に来る以前から
関東の主として存在した家柄ですから…。

第11代、喜連川縄氏(つなうじ)の時に
幕末、明治維新を迎えます。
この人、実は水戸藩の徳川斉昭の十一男。
養子として喜連川藩に入っていました。

第15代将軍、徳川慶喜の実の弟です。
実の弟なので、直接対決はしのびない。
縄氏は、明治新政府に従う一方、
名前を「足利」に戻し、隠居します。
江戸幕府に特別に認められた
「喜連川」という名前だと、
差しさわりがあったんでしょうか?

第12代、足利聡氏の時に
版籍奉還、廃藩置県。
喜連川藩は日光県に合併されて、
のちに栃木県の一部になりました。


最後にまとめます。

とても奇妙な藩、喜連川藩。
そのルーツは、足利尊氏にありました。
苦難を経て、明治まで生き残った藩…。

この地の「喜連川温泉」は、
国内でも有数の良泉です。

ぜひ、皆様もゆっくり湯に漬かって、
喜連川藩の数奇な運命に
想いを馳せてみてはいかがでしょう?

※記事内で、はしょって書いてしまった
『室町時代の関東地方』
ついては、こちらの記事を↓

後北条氏の躍進はこちら。
『戦国時代の関東地方』

合わせてぜひどうぞ

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!