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「笠間焼」で有名な、茨城県笠間市。
「ハワイアンズ」で有名な、福島県いわき市。
実は関係があった…?というお話です。

江戸時代の「藩」は、非常に複雑でして。

正確には「藩」という呼び名は
後付けでつけられたもの。
当時は「〇〇家中」と呼ばれていました。
いわゆる「大名」の家の中。
江戸時代には法人や会社という
概念があまりないので、
大名家の所有物、という感覚です。

この大名家が頻繁に「転勤」する。
「封建」時代の江戸時代なので
「転封」(てんぽう)ですね。

「今度から、お前はここの領主だ!
引っ越しして、ちゃんと治めてね!」

そう幕府に言われると、原則逆らえない。
時には縁もゆかりもない土地に
赴いて治めることになります。

いわゆる「鉢植え政策」です。
領民たちと大名たちが
仲良くなり過ぎて、一致団結して
幕府に歯向かわないように仕向ける…。

(「癒着」が起こらないよう、
国家公務員が全国各地に異動したり、
銀行の職員が何年かごとに
部署を異動したりするのと似ています)

そんな政策の中で、
とある京都にいた大名が
関東地方に転封されることになりました。

牧野貞通(まきのさだみち)。

彼が関東に向かったことから、
その後の歴史の風向きが
意図せずに少しずつ変わっていく…。

転封先は「笠間藩」(かさまはん)です。
本記事では、この転封に絡めた
歴史と地理を追っていこうと思います。

笠間、と言えば「笠間焼」で有名です。
今の茨城県の中央のあたりにある、
水戸市の西の街。

牧野貞通は、1707年~1749年の人。
18世紀前半に生きた人です。

彼の父親は「牧野成貞」と言いまして、
越後長岡藩主の甥っ子の生まれでした。
後の五代将軍、徳川綱吉の側用人になる。
綱吉が力を持つのに合わせて、
この成貞も、徐々に力を持っていく。
ただ、綱吉に妻と娘を「お手つき」に
されたという説があり、
ちょっと訳ありな感じで隠居する…。

この成貞が隠居後に、
74歳で側室に産ませたのが、貞通。
1707年のこと。

成貞は側室の子どもでしたから、
当初、本家は継げなかった。
この牧野本家は、三河(静岡県)、
日向(宮崎県)と転封されていきます。
将軍とちょっと色々あったので
江戸から遠い所に左遷されていた。

しかし本家を継いでいた成貞の孫が
21歳で早世したため、
貞通が牧野家、宮崎の日向延岡藩を
継ぐことになります。

この彼が、とんとん拍子に出世する。

28歳で奏者番、29歳で寺社奉行兼任、
36歳で「京都所司代」に就任!
この実績が認められ、
1747年、40歳頃の時に常陸の
笠間藩八万石に転封になったのです。

ここまでをまとめると、以下の通り。

◆父の成貞、越後長岡藩の出身
◆後の五代将軍、綱吉に仕える
◆出世、隠居、貞通が生まれる
◆本家は三河、延岡へ左遷
◆本家を継いだ貞通が出世
◆貞通、京都所司代から笠間へ!

つまり、訳ありで色々あった家が、
ついに将軍様の近くの関東地方、
笠間に戻ってきた、という感じ。

ところが、転封後の二年後に、
1749年に貞通が死去してしまう。
彼は京都所司代でしたから、
京都の近くにも領地を持っていた。

ただ、笠間と京都は、いかにも遠い…。
一緒に治めるのは、さすがに難しい…。

「じゃあ、常陸国(後の茨城県)の隣、
磐城国(後の福島県東部)にある領地と、
京都の領地とを、交換しません?」

…ということで、
笠間藩は「飛び地」として、
隣の磐城国の三万二千石の領地をも
治めることになった
のでした。

「…えっ? 茨城県の笠間市の藩なのに、
福島県のいわき市の領地も治めていた?」

そうなんですよ。

江戸時代は、家(藩)が全国で入り乱れて、
しかもしょっちゅう転封されるので、
こういうことは、ざらにあるんです。
現代の都道府県市町村の感覚だと、
いささかわかりにくい。

磐城国の笠間藩のこの飛び地には、
陣屋(本社に対する支社みたいなもの)
が置かれて、代わりに治める
「代官」が笠間から赴任していました。
神谷陣屋、と呼ばれます。

…以後、貞通から数えて九代目、
牧野貞寧(まきのさだやす)まで
笠間藩はずっと牧野家が治めたのです。

この牧野家の治世の下で、
「笠間焼」という陶業が盛んになったり、
剣術が盛んになったりしました。
「剣は西の柳河、東の笠間」
剛勇を讃えられたりしている。
東には大藩「水戸藩」がありましたが、
水戸にも武勇ではひけをとらない、
とまで言われていた。

ただ、幕末には難しい立場になります。

水戸藩は「天下の副将軍」徳川光圀が
いた藩ですから、基本、佐幕派、幕府側。
しかし「水戸天狗党」なども現れて、
尊皇派にも勢いがある。
(幕末の藩主である徳川斉昭は
「尊皇攘夷の親玉」とまで言われた)
水戸藩で内紛勃発、両派が殺し合う…。

その隣にある牧野家、笠間藩は
明治新政府側につきました。
ただし、東北諸藩はこの明治新政府に
対抗して「奥羽越列藩同盟」を結成!
いわゆる「戊辰戦争」が勃発します。

…今のいわき市の飛び地、神谷陣屋は?

そう、奥羽越列藩同盟に囲まれるんです。
四面楚歌。周りは全部、敵…!
抵抗する。衆寡敵せず、敗れる。
このままだと、全滅…!

というところで、はるばる笠間から
援軍が駆けつけ、持ちこたえます。
新政府軍の援軍も到着。
神谷陣屋は九死に一生を得たのでした。

最後に、まとめます。

本記事では、牧野家と笠間藩の
歴史と地理の動きを追ってみました。

なお、神谷陣屋の近く、
磐城国の笠間藩の飛び地では、幕末に
片寄平蔵(1813~1860)という
人が生まれています。

飛び地の関係で、本藩、
笠間藩の御用達の材木商になり、
商人として成長していく。

1853年には、ペリーの黒船騒ぎに遭遇。
「あの蒸気船は『石炭』という
黒い石で動いている」と聞かされます。
そこで平蔵は故郷のいわきの山を歩き回り、
「黒い石」を見つけ出したそうです。

これが、後の「常磐炭田」に発展する。
明治の近代化を大いに支えたのでした。

(現代ではいわき市はフラダンスの
ハワイアンズで有名ですが、
これは炭田発掘の際に出てきた地下水、
温泉が起源の一つ
になっています。
閉山の際に、雇用を保つために
大胆に業種転換したんですね)

将軍徳川綱吉からの牧野家の因縁。
京都領交換からの「いわきの飛び地」。
笠間焼。片寄平蔵とペリー。戊辰戦争。
常磐炭田。明治の近代化。
昭和の炭鉱閉山、ハワイアンズ…。

歴史と地理を紐解いていくと、
その因縁はなかなかに
複雑な絡み合いを見せていきます。

読者の皆様の近くの地域の
歴史と地理は、いかがでしょうか?

※燃える石に心燃やした「片寄平蔵」↓

『炭鉱遺構めぐり、常磐炭田の
「栄枯盛衰」に思いはせ』という記事↓

いわき市の「ハワイアンズ」のホームページ↓

笠間市の「笠間焼」についてはこちら↓

合わせてぜひどうぞ!

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