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日本の「第二代」内閣総理大臣は?

…と聞かれてもすぐには
出てこないのですが、
黒田清隆(くろだきよたか)です。

現在のほぼ鹿児島県、薩摩藩の出身。
1840年生まれ、1900年に死去。

彼の話で真っ先に出てくるエピソードは、
「酒に酔って妻を殺害した」
というものではないでしょうか?

…確かに彼には
酒乱の気があったと言われます。
酒に酔って船から大砲をぶっ放し、
誤って海岸の小屋に当たり住民を死なせ、
示談金を払って解決したこともある。

ただ、彼の妻は清(せい)という人で、
黒田との長男と長女はいずれも夭折、
彼女自身も気落ちして
もともと体調がすぐれなかった。

1878年、清が「肺の病で亡くなった」際、
「團團珍聞(まるまるちんぶん)」という
週刊の戯画入り時局風刺雑誌に
「酒乱の黒田が妻を殺害した(…かも)」
書かれたのが
このエピソードが広まった原因だそうです。

現代で言えば「〇春砲」や
「週刊実〇」やSNSの投稿などで
世の中に拡散されるようなもの…。

彼自身は自分が酒乱であることを
自覚していたのか黙して言い訳せず、
上司の大久保利通が
腹心の川路利良(日本の初代警視総監)に
命じて捜査させたところ
(お墓から遺体を掘り出して捜査)

「(黒田の妻の死因は)病死です」

と結論付けられました。
真相は藪の中ではありますが…。

そんな強烈過ぎるエピソードが独り歩きし、
あまり他の事績が知られていない政治家、
でも実はかなり有能だった黒田清隆。
本記事では彼の生涯を
かいつまんで書いてみます。

1840年、わずか「四石」の
薩摩藩の下級武士の家に生まれます。

もともとは「砲撃手」
江戸にあった江川英龍という
「砲撃の先生」の塾に通って、
大砲の学習をするんです。
佐久間象山、大鳥圭介、橋本佐内、桂小五郎。
他の藩の有名どころも彼の塾で学んだ。
黒田は、彼らの同窓生。

当時の薩摩藩は「島津斉彬」という
開明的な人が藩主です。
西郷隆盛もこの人が見出した。

…ただ、斉彬は死去。西郷は島流し。
薩摩藩は1862年に生麦事件という
イギリス人殺傷事件を起こして
1863年「薩英戦争」を行います。
薩摩藩単独でイギリスと戦う。
黒田もこれに参加している。

「…イギリスは強い。攘夷は無謀。
長州と結んで幕府を倒そう」

そこで白羽の矢が立ったのが、
長州藩の桂小五郎と知己の黒田清隆。
西郷と桂を会わせて「薩長同盟」です。
坂本龍馬が仲介人としては有名ですが、
黒田清隆も尽力したんですね。

このように「敵を味方につける」
不思議な魅力が彼にはあった。

大政奉還、戊辰戦争と進む中、
黒田は討幕軍の参謀として進撃します。
最後の敵は箱館(函館)に籠った
大鳥圭介・榎本武揚・土方歳三たち。

元新選組の土方は戦死しますが、
大鳥や榎本は降伏します。
黒田は彼らを死なせるには惜しいと思った。
何しろ、これから「新しい日本」を作る。
有力な人材は活かすべき…!

「榎本を殺すのなら、そんな新政府、
自分は辞めて坊主になります!」

何と黒田、そう西郷に言い放って、
本当に髪を切って坊主頭になりました。
桂小五郎(木戸孝允)は
厳罰を主張していましたが、
それに逆らってでも榎本助命を申し出る。

…1869年から1872年、ずっと
榎本は牢獄にいましたが、
特赦により助命されます。
牢を出ると、命の恩人である
黒田清隆の下に行き、開拓使になる。

そう、北海道を落とした黒田は、
1870年に開拓使次官に就任していたのです。

あまりにも広い北海道。
黒田は自分だけでは無理と悟ります。

「広い土地を開拓するなら、
広い国から広い土地を開拓することに
長けた人を呼んでくるに限る!」

何と黒田、欧米諸国にじかに赴き、
アメリカからホーレス・ケプロンという
農務長官を顧問として日本に呼んできた。
岩倉使節団より前のことです。
仕事が速い!

1871年、ケプロン来日

彼は、北海道の開拓に力を尽くします。
札幌の大通公園には、黒田清隆像と
並んでケプロンの像が建っている。
「少年よ、大志を抱け」で有名な
クラーク博士はケプロンの後任です。

さて、北の状況に明るい黒田は、
「樺太・千島交換条約」や
「日朝修好条規」などの締結に尽力。
同時に留学生の派遣にも力を入れる。
立派な国際政治家。酒さえ入らなければ。
その後ろには、同じく国際派の
盟友、榎本の助力もあったのでしょう。

しかし、ここで大事件が起こる。

1877年、西南戦争が勃発!
旧薩摩藩の西郷と大久保の全面対決。
黒田は新政府軍側で参戦、
北海道の「屯田兵」を率いて活躍します。
…ただそのため旧薩摩藩では
「西郷を倒した男」として評判が悪い。

先に書いた
「酒乱の黒田が妻を殺害した…そうだ」
というニュースも、1878年、
西南戦争の頃に広められたもの。
敵には好かれるが、味方には嫌われる…。
(余談ながら、黒田の葬儀委員長は
薩摩の人ではなく、榎本が務めています)

1881年、開拓使廃止。
国有の施設や不動産が払い下げられる。
ところが黒田と同郷の五代友厚に
払い下げられることが決まったことから、
時の有力者、大隈重信が大反対します。

伊藤と黒田は大隈をクビにする。
「明治十四年の政変」です。

…ただですね、この政敵の大隈を、
黒田は取り込む。
敵を味方にすることは大得意。
1888年、第二代の総理大臣になった
黒田清隆は、伊藤博文に引き続き、
外務大臣に大隈重信を留任させます。

1889年、イチハヤクつくる
「大日本帝国憲法」発布!
明治憲法の発布は、この
黒田内閣の時のことです。

ただ、条約改正交渉を進める
大隈を、テロが襲います。
爆弾を投げつけられて右脚を失う…。
黒田は大隈をお見舞いし、こう言いました。

「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、
私の片足を失ったより残念じゃ…」

こういうことをサラッと言えるところが、
黒田の魅力ではないか?
ただ、この事件で条約改正は頓挫、
黒田は辞表を提出することになります。

最後にまとめます。

◆薩摩藩と仲が悪かった長州藩の桂小五郎
◆戊辰戦争で戦った榎本武揚
◆アメリカ合衆国からのホーレス・ケプロン
◆政敵だった大隈重信

黒田清隆は、敵だった人たち、
親しくない人たちを結び付け、活用し、
国の政治へと役立てました。

もちろん、酒が入ると始末に負えない。
これは紛れもない彼の弱点です。

幕末の頃、酒席で暴れ出した黒田を、
武術家でもある桂小五郎が
取り押さえ、布団でぐるぐる巻きにし、
「すまき状態」にされて
自宅に送り返されたこともあったそうです。
(以後、桂には頭が上がらなくなったとか…)

「酒は飲んでも飲まれるな」という
格言を、身をもって後世に伝える
第二代内閣総理大臣、黒田清隆。

彼の生涯からは、様々な人事上の
ヒントが得られると思われます。

読者の皆様も、酒席が増える時期です。
ぜひご注意を。

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