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W・B・イェイツの二つの評論と、象徴主義の歴史における位置

 W・B・イェイツの評論には『肉体の秋』(1898)という、象徴主義こそが世界を復活させる光だと書いたものがあって、この逸脱なタイトルはレーモン・ラディゲの『肉体の悪魔』やジャック・ベッケルの『肉体の冠』を思い出させもする。

 象徴主義作家といえば文学ではシャルル・ボードレールやヴィリエ・ド・リラダン、ステファヌ・マラルメ、ポール・ヴェルレーヌ、アルチュール・ランボー、そしてもちろんイェイツを、絵画ではギュスターヴ・モローやオディロン・ルドンなどを挙げることができる。
 しかし過去のあらゆる芸術の形態に慣れてしまった現代人たちは、象徴主義の形式的な定義を聞いてもさっぱりわからない。ボードレールの『悪の華』における最も安全な詩は18世紀のフランス詩と一体どういう違いがあるのかがわからない。それは象徴主義が方法論ではなくあくまで哲学でしかない、というところにも原因はあるのだろう。

 だから象徴主義を捉えるのに一番いいやり方は、象徴主義以前の主流であった自然主義と対比して象徴主義を捉え直すことだ。『肉体の秋』はその点を書いている。

 イェイツは評論の中で象徴主義の発生のことを、アイルランドの詩を引用して「太陽の光がまさに疲れ果て、野良仕事をやめるときがきた」と例えている。
 これこそがまさに象徴主義的な手法であると考えられるが、ここで述べられているのは人類がこの時代において「疲れ果てている」ことである。イェイツはそのことを「階段を降りる」とも表現している。
 降下は最初の詩人から始まって、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテ・アリギエーリ、ウィリアム・シェイクスピアを経て、果ては自然主義なるものまで生み出してしまった。

※余談だが、本文の該当の箇所は「最初の詩人たちは、もし『カレワラ』にその面影をしのぶことができるとすれば、ホメロスのように事物に心を奪われることも〜」と始まるのだが、『カレワラ』についての文章は意味不明である。『カレワラ』はフィンランドの神話を集めた叙事詩であるが、面影をしのぶと言われても一体何が言いたいのか要領を得ない。

 自然主義とは、人々の生活のありのままを文学において描写する、実験的な試みであった。写実主義文学(ギュスターヴ・フローベールやオノレ・ド・バルザックなど)に起源を持つ。一般的にはエミール・ゾラが創始者と言われる。
 自然の事実を観察し、忠実にそれを描写し、いささかの美化も許さない、その徹底的なゾラの理論は科学における実証主義の影響が強い。ニュートンの時代より哲学から分裂を始めた自然科学一派は人々の生活を飛躍的に豊かにし、それを眺めているだけだった文学にも焦りがあったのかもしれない。
 ともかく、より科学的になっていた文学に対する反動として、象徴主義が台頭し始めるのだ。

 イェイツは自然主義が象徴主義へと変化した理由を論理立てて説明することも、あるいは政治的なことと関連づけて説明することもない。それは単に人類が疲れてしまっただけ、肉体に木の葉が吹き散らされるような秋が来ただけ、と説明している。
「この変化が私自身の精神を超えたところに生じたものであるとは、その頃の私には理解できなかった。」とも述べている。

 また、別の評論である『詩の象徴主義』(1900)ではこうも言っている。
「しかし聖なる生命は私たちの外的形態とあらがい、私たちが武器と動きを変えるたびにかならず武器と動きを変えるものであるがゆえに、霊感は美しい目ざましい形をとって彼らを訪れたのである。」
「つまりこの文学は、意見や、雄弁や、写実的な文章や、絵画的な描写のなかに、ないしはシモンズ氏の言う『一冊の本の中に煉瓦と漆喰で家をたてる』試みのなかに迷いこみがちな文学であった。だが、いまや作家たちが関心をよせはじめたのは感情喚起の要素であり、私たちが偉大な作家の象徴主義と呼ぶところのものである。」

 ここでようやく象徴主義の哲学の話に入る。象徴主義とは簡潔に言えば「感情喚起」のことだ。
 しかし象徴主義とは方法論ではなく哲学のことであるからして、感情を喚起させるものは19世紀になって唐突に姿を現したものではない。イェイツはロバート・バーンズやウィリアム・ブレイク、シェイクスピアといった過去の詩人の一節を引用して、どんな文章が象徴主義的なのかを説明している。

 また、象徴の発生段階については次のように述べている。
「ちいさな抒情詩がひとつの感情を喚起する。この感情が周囲にもろもろの感情を引きよせ、これらを融合してある偉大な叙事詩をかたちづくる。この感情は強力になるにつれて、あまりに繊細に過ぎぬ状態をつねにたもちうる実体、つまり象徴を必要とするようになり、最後にはみずからが引きよせたすべての感情もろとも外にあふれて日常生活の盲目的な本能のなかに滲透する。」

 象徴といえば、絵画でよく使われるアトリビュートという手法、つまり十字架がキリストを暗示させるといった使い古された手法を思い出させるが、こちらが意味深長な、例えばキリスト教への教化のような役割を持っているとすれば、象徴主義では単に感情を喚起させる道具のようなものとしてしか書かれていない。感情=刺激的・快楽的なものと取れば、象徴主義が快楽主義・耽美主義と混同される一因とも考えられるだろう。
 また、イェイツが芸術を瞑想のようなものだとしている点はシュルレアリスムを先取りしたものと考えられないこともない。

 象徴主義における、外的事物は常に人間の目を通して見られるがゆえに外在的でありえず、言葉によって「世界そのものをすら創造し解体する」ことができるという哲学は、神秘的なものを廃棄しきれていないとはいえ後のフランスの言語学・構造主義・ポストモダンの萌芽と見なせないこともない。

 また、感情的象徴と知的象徴という語を導入し、前者の例をシェイクスピア、後者の例をダンテとしたうえで、知的象徴は読む人に神を感じさせることができる、という説は興味深いものがある。イェイツとT・S・エリオットは特にダンテに対する評価が高い。

 つまるところ、象徴主義とは「象徴による感情喚起がすべての芸術の感動の根源である」という主張と取れるだろう。

 このようにして、僕たちが澁澤龍彦などによって知っているような一般的なフランス像、つまり象徴主義や芸術至上主義に始まり、耽美主義、デカダンス、そして20世紀初頭のシュルレアリスムに向かっていく流れの端緒を掴むことができたように思う。(今更ではあるがイェイツはアイルランド人であってフランス人ではない。イェイツがフランスから受けた影響はまだしもその逆は僕の知るところではなく、類似性を述べただけに過ぎないのかもしれない。)

 これら二つの評論を書いたイェイツは、親交の深く、20世紀前半の文学を代表するエズラ・パウンドとともにファシズムへの転向を見せることになる。モダニズムは結局この程度の思想でしかなかったのだろうか?
 これについては以下のリンクに詳しい。

ジョージ・オーウェル『W・B・イェイツ』

 最初の方で、自然主義文学は勢力を広げる科学への焦りと書いたが、象徴主義を通過したイェイツたち芸術家のあと、時代は「前衛」の芸術、モダニズムへと進むことになる。パウンドや『ユリシーズ』のジェイムズ・ジョイス、『荒地』のT・S・エリオットなどがいる。
 ここで僕が思うのは、前衛という語句は「継続して発展するテクノロジーが世界をよりよくする」という道徳観を前提にしてはいまいか、ということである。これは楽観的資本主義の見方だ。前衛という語句は、常に芸術が何かを目指して発展している、という妄想を前提にしてはいまいか? もしそうならば、芸術は科学的道徳観をひとつも捨てきれていないだろう。

参考文献:
Yeats,W.B.(1898).THE AUTUMN OF THE BODY.(水之江有一(訳)(1975).肉体の秋 筑摩書房)
Yeats,W.B.(1900).THE SYMBOLISM OF POETRY.(水之江有一(訳)(1975).詩の象徴主義 筑摩書房)

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