見出し画像

GPの原点となる創業時から今、そして未来 ~その1~

こんにちは。
株式会社ゼネラルパートナーズの進藤均(Shindo Hitoshi)です。

このnoteでは、僕がゼネラルパートナーズ(以下:GP)の創業に至るまでの過去やきっかけ、今までのこと、これからの未来について、を書いていきます。

全部で三部作の1つ目です。

少々長く感じるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。



なぜ起業するのか

なにをするか、よりも、なぜするのか

子供のころから不思議と起業家に憧れがあり、事業を興すことに興味をもっていました。気づけば学生時代には起業することが目標となっていました。

社会人として働きながら、「何のビジネスをやるか」「これから何が伸びるのか」と考えてきました。事業アイデアはいくつも出てくるものの、「本当にやりたいことなのか?」と自問自答しても、心が熱くなる事業はありませんでした。

考えることに疲れていたあるとき、ある本の中で「何をやるのか」ではなく「なぜやるのか」が大事という言葉に目が留まりました。事業をするには目的がもっとも大事なのだと気付いたのです。

当時は自分の出世やお金を得るために信念を曲げてでも働いている人が多い時代。これがダメということではなく、あまりにこれに執着する大人が多かったことに嫌悪感を覚えていたときでしたので、目的が大事という言葉はすっと心に入ってきました。


「何をするか」ではなく「なぜするのか」から決めよう。

このことは、なぜ働くのかを定めることでもありました。ビジネスの視点や市場ニーズを一切気にせず、心からやりたいことを考え始め、そして出てきたのが「社会のおかしいことを正していく」という思いでした。

自分の世代からみた社会はおかしいことだらけでした。常識的にみても人道的にも不正であることを解決できないだろうか。自分の力だけではどうにもならない困難な状態から抜け出せない人たちを救えないか。今の時代に合っていない古い慣習を変えていけないか。このようなものでした。大人たちはいったい何をしているのかと思いました。


正直いうと社会を変えるなんて無理だと思っていました。しかし、政治は変えないし、行政サービスは役に立たないし、民間に至ってはやる発想すらない。

誰かが動かないと変わらないではないか。この使命感が「社会問題を解決する」を掲げることになった原点です。

ソーシャルビジネスという言葉を耳にしたこともなく、社会起業家という言葉もなかった時代。当然、民間でそんなばかげた会社はありませんでした。もちろん不安でいっぱいでしたが、こんな面白い会社が一つぐらいあってもいいのではないか、という楽観的な気持ちもありました。



自分の問題意識は

障がい者が普通に生きる上での壁

多くの社会問題の中で、もっとも問題意識が高かったのは、障がい者に対する差別・偏見でした。社会保障はあるものの平等な機会はありませんでした。

教育格差。進学率や就職率の悪さ。昇進や給与の格差。結婚の壁。これらの状況を変えられないだろうか。これらは障がいのある本人の問題ではなく、社会側に心がないことが問題なのではないかと思いました。


そんなことを考えていたとき、TVで障がいのある人の生き方を取り上げるドキュメンタリーがやっていました。ヨーロッパのカフェで、イキイキと働く聴覚障がいのある女性の姿がありました。その方は、聞くこと話すことができません。それをお客さんは理解していて、身振り手振りで注文をし、お互いに確認し、飲み物を運んでいきます。アイコンタクトで御礼をし、ときにお客さんと談笑をする。自然のまま接していました。こんなふうに障がいのある人が普通に社会に溶け込んで生きている環境をつくりたい。そんな社会に変えていきたい。そんな考えを巡らせるようになりました。


障がいのある人には、「できない」「あぶない」といった否定的なイメージがついてまわります。さらに、「可哀そう」「悲しい」と同情されるような存在でもあります。

知的障がい者らが通所する福祉施設が建設されたり移設されるたびに、周辺住民から「何をするか分からないから怖い」「地価が下がってしまう」と反対運動が起こる話をよく聞きます。まったく根拠のない、間違った先入観です。貸す側からも「障がいのある人たちが怪我をしたら責任が取れない」という理由で断るケースが多いのです。何が問題なのでしょうか。障がいのある人が悪いことをしたのでしょうか。これが現実です。

ヨーロッパのカフェで働く聴覚障がいのあるスタッフとお客さんの間には、同情はありません。否定的なこともありません。不安もありませんでした。ただただ両者が自然に向き合って、受け入れながら生きていたのです。


障がいのある人たちが普通に生きていくには、当事者側を変えるのではなく、社会側にある「差別」や「偏見」を変える必要がある、という使命感が芽生えました。障がいのある人への「差別」や「偏見」は、一体どこから来ているのでしょうか。

そんなとき偶然、新聞社が実施したアンケート結果を目にしました。「駅のホームで車いすや視覚障がいの人がいたら、あなたはどうしますか?」という質問に対して、8割近くの人が「助けたい。だけどどのように助けたらいいか分からない」という回答をしていました。接したことも話したこともないので「よくわからない」ということが分かりました。当たり前のことですが、障がいのある人と接したことがある人は、普通に接することができるし、心の距離が近い。それは子どもの頃から接している人ほど顕著に出ているように思います。


これらのことから「差別」「偏見」問題をなくすためには、「障がい者を知ってもらうこと」が課題なのだと決めました。これが起業後の最初の活動ミッションとなる「障がい者の良き認知を広め、差別偏見のない社会を実現する」につながるのです。



事業構想

3つの事業構想と雇用支援の意義

このミッションを果たすべく私は、事業構想を始めました。当初考えた事業は、3つありました。

1つ目は、ヨーロッパのカフェのように、障がいのある本人がスタッフとして働くレストランです。働く機会を提供するとともに、お客さんが障がいのある人と触れ合い、理解を深められる場にする。

2つ目は、障がいのある人たちが製造したものを販売する事業です。各地域にある福祉作業所には、手先がとても器用な人や、独自の感性、特殊能力を持った人たちがいます。その人たちの能力を活かした商品をつくるのです。一般市場にむけて、「かっこいい」「かわいい」「つかいやすくてすごい」といったヒット商品を生み出せば、障がい者のイメージが変わるのではないかと考えました。福祉作業所で働く報酬(当時の福祉の平均報酬は13,000円)を大幅に引き上げて、自立した生活ができると考えました。

3つ目のアイデアは、今取り組んでいる障がい者雇用サービスです。採用企業と働きたい障がいのある人をマッチングするサービスです。一緒に働くことで、知る機会を増やせると思いました。


これら3つのアイデアの中で、最も取り組むべきことは雇用分野でした。なぜなら問題が大きすぎただけでなく、あちらこちらに問題があったからです。

日本では「障害者雇用促進法」が制定されています(2019年4月現在では社員数の2.2%の障がい者雇用を義務づけています)。

2002年ごろ、障がい者雇用数は減少していました。それもそのはず、雇用率を達成していない会社は70%以上にのぼり、その会社たちは何も策を講じていなかったのです。


当時、障がいのある人が仕事を探す手段は、ハローワークしかありませんでした(採用企業側もハローワークのみ)。私は話を聞いてみようとハローワークを訪れました。

訪問してみてまず驚いたのが、求人を紙で探すことでした。さらに、その近隣エリアの求人しか置いていないのです。机の上に厚さ1cmほどの求人票の束が置いてあり、1枚1枚手で探すのです。しかも、そのハローワーク管轄エリアの求人しかないので、別のハローワークに行かないとそのエリアの求人がないのです。インターネットの時代になんでこんなことになっているのか。

求人票の内容もひどく、仕事内容には「一般事務」「ファイリング」としか記載されていませんでした。年収も100万~200万円と低水準なものが多かった。「障がい者は仕事ができない」とばかにしている求人でした。さらに、採用意思ない企業が仕方なく出している求人も多く、全然信頼できないものになっていました。

そのハローワークでは就職には結びついていませんでした。せっかく就職に結びついたとしても40%が早期に退職していました。これでは「障がい者は使えない。まったく迷惑だ」というイメージを与えてしまいます。我々が変えたい社会とは真逆のことが起きていました。

いち早く、今のマイナスイメージを食い止めなければならないと思いました。これから先、障がいのある人が職場で活躍する事例をつくっていけば、良いイメージになる。その数を積み重ねていけば、差別や偏見は解消されていく。頭の中でそのビジョンを思い描くことができました。


同じ時期に、企業に訪問をし、「障がい者雇用で必要なサービスはありませんか」と聞くと、障がい者雇用はこれから考えていかないといけない課題であるという答えが複数社から返ってきました。私は、障がい者雇用分野に大きな可能性を感じたのです。


社会問題をビジネスで解決する。言葉にすると簡単なのですが、どういったビジネスモデルでできるのか、そもそもそんなことは可能なのか、ここがもっとも難しいことでした。今でいうとソーシャルビジネスという表現になるのですが、当時はそういった概念もなければ、他に類似する会社は見当たりませんでした。

NPOは法律ができたばかりでボランティアという印象でした。


自分なりにソーシャルビジネスを自転車で表現してみることにしました。自転車の前輪が社会問題解決、後輪がビジネスです。

前輪と後輪は同じ大きさの車輪が同時に回って前に進む。これを考えなければいけない。NPOの問題は、前輪の思いは大きいけれど、後輪のビジネスが小さいこと。しかもゆっくりとしか回らない。それでは自転車は前に進みません。やはり後輪のビジネスを大きくして、前輪後輪が同時に回るモデルにしないといけないと考えました。



周囲の反対

民間初サービス・株式会社へのこだわり

会社経営者や先輩に、事業アイデアを判断してもらおうと相談をしました。前向きな意見をもらえるだろうと思っていましたが、結果は逆でした。ありとあらゆる反対意見でした。

「障がい者でビジネスをやるなんて不謹慎だ」「障がい者団体から訴えられる」といった障がい者に対する悪いイメージの意見。「だれが障がい者にお金を出して採用するんだ?」といった彼らは仕事ができないという意見でした。障がい者というのは、危ない存在で、価値のない存在なのだ、中途半端に関ってはいけない、といわんばかりの声でした。

「マーケットが小さいからやめたほうがいい」「社会貢献とビジネスは両立できるはずがない」というビジネスモデルに対する批判的な意見ももらいました。

私はこのとき、これこそが差別偏見からくる意見なのだと思いました。なぜ障がい者支援領域に、今まで民間企業が存在していなかったのかがよく分かりました。差別や偏見が参入障壁を高めていたのです。


当時から必ず聞かれる質問があります。「なぜNPO(非営利)ではないのですか?なぜ株式会社(営利)なのですか?」です。女性向けに洋服をつくる会社は営利企業がよくて、車いすの人向けの洋服をつくる会社は非営利でないといけないのでしょうか。こういったイメージこそが差別偏見なのです。障がいのある人に良いサービスを提供してお金をいただくことはまったく問題ないのです。


「やるしかない」。私は、日本初の障がい者支援の株式会社、そして業界初の障がい者専門の人材紹介サービスを始めようと決意しました。

「障がい者分野で起業しようなんて人は他にいないだろう」と思ったときに、この問題はずっと変わらないままだと思いました。使命感のようなものが後押ししました。反対ばかりで折れそうな中、妻だけが賛成をしてくれて、家族全員で協力するよと言ってくれたことが大きな支えとなりました。


2003年4月、期待と不安の中、株式会社ゼネラルパートナーズは誕生しました。「ゼネラルパートナーズ」という社名は、“General”の「広める、行き渡らせる」という意味と、“Partners”の「仲間たち」を掛け合わせたものです。「社会を変えていく仲間たち!」という気持ちを込め、スタートを切ったのです。



続きます↓