2学期の終わりに

息子の2学期はきょうまで。6時間授業で、1,2時間目が終業式、5,6時間がお楽しみ会だそうだ。5〜6割いる中学受験組は、3学期はほぼ登校しないので、最後にみんなで思い出を作ろうということらしい。息子は楽しみにして出かけて行った。大人がつくった受験と能力別選抜というシステムに、ある意味「分断」されていく子どもたちの姿を見ていて、わたしは複雑な思いが湧いた。(中学受験を選択する人に対しての非難ではない)

今年の3月から家庭内では試練が続いた。
休校措置への対応、欠席期間、進学先検討。
ここまで歩いて見えてきたのは、我が子の持つ力と成長、学校という場の意味、日本の公教育の課題、社会の力を握っている大人の役割、そしてわたしの教育への態度。

小学校は、「生活」と「交流」が意図的に設計されている場。だから場を営む人たちが健全で寛容で誠実なら、大概の異なりや違いは包摂される。公教育がたとえ基礎学力というものを設定し、年齢別の輪切りのシステムをとっても、どうにかなってきた。

中学校は、そこから切り離され、ひたすら「外部評価」されていく世界だろう。年齢別に輪切りされ、目標設定された学習内容が課せられ、それを定められた期間のうちにこなすための統一テストの力がどんどん強くなっていく。少なくとも息子が通おうとしている学区制の公立中学校はそうだ。学校外でいくら豊かな学びを重ねても、統一テストの結果や学校内での振る舞いが重視されていき、人は次第に学びの定義を狭めていく。人間は「男」と「女」の二項に分けられ、制服によってそれを表現させられる。指導という名の下で、管理、統制、隷従させられる。もはや学びとは言えないもの、人を損なう隠されたカリキュラムを誤って学んでしまう。

すべて大人がつくった。この社会が能力主義を捨てない限り、そのレールに乗れない人たちは、10代の初めに、自分への信頼を手放しやすい。大人に向かうとても大切な時期に、自分にとっての学びを見出し、探し求めていける時期に、大人のつくったシステムの中で萎縮し、批判、抵抗する力を奪われ、自分のコントロールを失っていく。一つの社会の問題をとっても、その要因は星の数ほどあるが、そのうちの一つ、思春期、日本でいえば中学校にあたる時期の教育制度を見直す必要が大いにある。

ずっと違和感を抱き続けていたことが、一つの考察に至った。
来年、仲間をつくって取り組んでいく。