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『Most Likely To Succeed』鑑賞記録

Most Likely To Succeedという、ドキュメンタリー映画を観た。

作品の内容は、日本でMost Likely To Succeedの上映会の主管をしているFuture Eduのウェブサイトに詳しい。映画の紹介部分を一部抜粋する。

「Most Likely to Succeed」 は、「人工知能 (AI) やロボットが生活に浸透していく21世紀の子ども達にとって必要な教育とはどのようなものか?」というテーマについて、「学校は創造性を殺しているのか?」TEDトークで著名なケン・ロビンソン卿、カーンアカデミーのサルマン・カーン氏、ハーバード・イノベーション・ラボ所属の、トニー・ワグナー氏などの有識者や多くの学校取材を2年間積み重ねられ制作されたドキュメンタリー作品です。2015年の公開以来、7000以上の学校や図書館、公民館といった公共施設や、SXSW edu を含む教育カンファレンスなどで上映されています。

米国のカリフォルニア州にある High Tech High というチャータースクールに通う二人の高校1年生の成長を追いかける過程で、日本と同様な受験偏重型教育と、生きる力を身につける実践的な教育のバランスをどう考えるかなど、国は違えど似た状況も多く、教育を取り囲む様々な視点について考えさせられる作品です。

 

予告編。オンラインでレンタルか買い切りで観ることができる。

 

わたしはこの作品のことを日本で紹介されはじめた頃から知ってはいて、ずっと観てみたいと思っていたのだけれど、教育ビジネスアレルギーみたいなものに罹っていたので、「お金があって情報にアクセスできてイケてる学びにアクセスできる、ラッキーな子どもたちの話でしょ、ならわたしには関係ないわ」と、斜に構えていた。あるいは、「AI時代に人間の仕事は......」みたいに始まる言説には、「あーーわかったわかった、皆まで言うな、脅すな」と耳を塞ぎたくなるような感じとか。

そういう態度になるということは、つまり、我が子の教育に不安があったのだ。

 上映会の情報もときどき目にしながらなんとなくタイミングが合わずに来たところ、今年の3月からオンライン配信に日本語字幕がついたことを知り、にわかに観たい気持ちが湧いてきた。

ちょうど新型コロナウィルス感染拡大の影響で、3月から息子の小学校が突然休校になったことや、その後の先生や学校や区や都や国の対応に疑問と怒りが湧いたことが背景にある。

また、ある子から、「学校で言われた通りの課題もこなせないような人間は、役に立つ大人になれない」と言われたことの衝撃も、大きな動機になっている。(あまりの衝撃でひと月ほどショックを引きずった。)

今、考える必要がある。
学校とは何か?
学びとは何か?
教育とは何か?
どんな社会をめざすのか?


この探究は息子のためでもあり、わたしのためでもあり、社会のためでもある。

その途上でときどきでまとまったことがあれば記録し、noteのマガジンにも記事をためている。

 

特にこの記事を書き(夏休みの宿題と親子関係たとえば4時間授業ゲームと学び)、ある程度自分の中での「こっちの方向ではないか?」という仮説も建てられた頃で、この映画から何かを学びとろうと意気込んで観られたので、とてもラッキーなタイミングだったと思う。

 

さて、映画の話。

ところどころ一時停止してメモを取りながら観ていたので、観終わるのにえらく時間がかかったが、ずっと感じ続けていたのは「やっぱりそうか!」という確信。

映画の中で話していたことと、自分の感想や考えが混ざってしまうが、わたしが受け取ったことを羅列する。

 ・「今学校は無意味に見えるかもしれない。でも将来大学を受験するとき、仕事を探すとき、学校にも意味があってよかったと思うよ。いつか意味がわかる。だから今がんばれ」は本当にそうか?「共通テストを受けたり、典型的な宿題をする。それは子どもの人格をつくり、幸せな人生をつくるのか?」という問いかけが冒頭にある。

・ただ大学を卒業しても、「いい仕事」につけないという時代にもう入っている。それは映画の中でも言及される「AIに仕事が取って代わられるから」ということもあるだろうが、わたしが思うに、「喜びを感じられる仕事がない」と同義ではないだろうか。

・仕事といえば、これまでの延長線上の継承ではなく、人々と協力し、アイディアを形にし、新たに作り出していく(伝統を変革することも含め)ことを指すようになっている。しかし教育がそれについていけていない。

・小学校に入学してから大学を卒業するまでの間に、残念ながら教育の中に組み込まれていない。(組み込まれている学校もあるが、そこには全員が入れるわけではなく、がんばって勉強して、対策して、お金をかけて、時には転居して、勝ち取る環境ともなっている)

・社会が変化しているのに、教育システムがこのままでいいわけがない。

・130年前に社会が大きく変化したときに、年齢、能力、科目別に指導する学校のスタイルがドイツではじまり、アメリカに輸入され、日本に輸入され、確立された。だから、今の社会の変化に合わせた、新しい学校のスタイルに変化していくことが必要......。

・学校が変わらなければならない理由として、「学習方法は人によって違う」がある。それは人間が個別の有機体であるという大前提に基づく。これは決して寛容な姿勢ではなく、事実だ。同時期に、平均的に、できるようになっていることを評価するための標準テストがあるが、それも誰かが便宜的に作ったものだ。

・まんべんなく知っておくことは、ほんとうに必要なのだろうか?まんべんなく知ることをやっている間に、何が作りたいのかわからなくなってしまう。それって本末転倒では?

・創造の過程で必要ならば、人は必要な知識を必要な分だけ吸収し、作りながら学んでいくのではないか。テスト前に追い立てられるように詰め込んで忘れてしまう知識ではなく、自分だけの創造の文脈の中で得た生き生きとした知識や経験が学びではないか。血肉になり、一生使えるもの。「作業」をどんどん機械に任せられるようになっていくから、企画や設計や表現の力のほうを鍛えなくてはならない。

・そもそも、まんべんなく知ることは年々難しくなっていると思う。インターネットの爆発的な普及により、この社会や世界にある物事にアクセスできる機会は増え続けている。すべてを知ることはできないが、解決せねばならない課題はどんどん見える一方だ。見えすぎると言ってもいい。子どもたちが生きる世界は、親世代が子どもだった頃と比べものにならないほど複雑で深刻な課題を持っている。いつまでも自分たちの時代を基準にして考えてしまってはいないか。

・なんのための教育か。その人の仕事(存在やはたらき)を通して、社会や世界にある課題を解決し、地球にかける負担をなるべく軽減しながら、人間誰もが住み良い場所にしていく行動に結びつけていくことを目指すのだとしたら、ほんとうはもっと好奇心をもって観察したり、他者との対話の中で批判的な思考力を身に着けたり、失敗しながら作っていく経験のほうが必要ではないか。

・学校の中で子どもたちの自治や決める権限がなく、大人が決めた制度や規則に良い子で従っていたら、学校の外に出たときにできないことが発生する。

・子どもが大人へ向かうプロセスだとしたら、自分で決めて(自己決定権)、責任を引き受ける主権者としてのトレーニングをするのが学校のはずなのに、今は逆のことをしてしまっている。

・学校はほんとうに子どものために作られているのか?
 なんのために大人は子どもを管理して、抵抗できなくするのか?命令に従う人が働ける場所は社会にはないのに?あるいはあったとしても、そこは働く人にとって幸せではないのに?

・好奇心でいっぱいの子どもが創造性をつぶさなければ、後年、無理に創造とは何かを教えなくても、人は勝手に学んでいくはずだった。もしかすると大人にとって子どもは脅威なので、自分たちより弱い立場として設定することで、自分たちの存在意義をなんとか保とうとしているのだろうか、とわたしは思うことすらある。

・映画は、カリフォリニア州サンディエゴにあるHigh Tech Highというチャータースクール(公認民営の学校)での取り組みをメインに進行する。この学校には予鈴がなく、時間割がなく、科目別の授業もない。その代わりにあるのが、Project Based Learningという学び。プロジェクトの基本要素は、観察(Observation)、考察(Reflection)、記録(Documentation)、展示(Exhibition/Presentation)。詳しくは映画を観ていただきたいが、このサイクルを回すことだという。確かに創造的な仕事というのは、このように回っている。それは学びの場でも有効だと証明している。

・今まで続いてきたことを突然転換することは難しい。レールの先が、大学、就職と強固につながっている。映画に登場する親たちも、「普通の高校で教わることを教わらないで卒業しても大丈夫なのか」「宿題がなくて不安」などを口にする。

・普通の高校の生徒たちは、「人生に役に立つ数学と大学に入学するための数学」のどちらをやりたいのかと問われると、「大学に入りたい」と答える。だって、そのように大人たちが作ってきたのだから、当然だ。子どもの頃から「そのために今は我慢して勉強するように」と教え諭されてきたのだから。

・教育と仕事。どちらからやるかといえば、どちらも同時に進めるのだろう。既存の学歴で評価しない採用、自由な職業の開拓、起業の支援、働き方の柔軟性があって、そのための学びが個別であることを受容していく。

・教育は、個別の人間を中心に、成長をもっと深く見る。それに携わる教師は何をどれだけ教えるか任されているため、共に葛藤し、共に成長しながら、自信をたくわえ、教師の仕事への誇りを深める。好きで好きでしかたがない、知りたくてわからなくておもしろい、そんなわきあがってくる衝動にしたがって学ぶほうが幸せではないのか。

・映画の中でも語られているように、変革はまだはじまったばかりで、長期的なデータが取られているわけではない。High Tech Highのプログラムが唯一ではないし、万人向けでもない。でも今までとは違う抜本的な見直しが必要。それこそ、思いつきもしなかったという発想の転換をするぐらいの変革が必要。それが、「最初から目に見えてやる気のある子」だけではない子どもたちにも、当たり前の選択肢として提供できたら。

・新型コロナウィルスの感染拡大に見舞われたときに、役に立ったのはどんな力だったか。少なくとも我が家に関して言えば、与えられたプリントを我慢強くやりこなすテクニックではなかったことだけは確か。


新しく何をすればいいかわからないときは、今までやってきた何かを止めてみたら、進む方向がわかるかもしれない。自分自身がどのような制度の呪いにかかってきたかも見えてくる。

不安と期待の葛藤に揺れながら、想像を絶する複雑な世界を生きていく者同士として、そして、わたしより(願わくば)長く生きる子のために、このままの教育、このままの毎日で良いのか、ということを常に考えていく。

 だらだらと細かく書いてしまったが、見る人によって注目する点はそれぞれだと思う。ぜひご自身の関心から、この映画を注意深く観てみていただけたら。この記事が架け橋になればうれしい。

 

★参考

▼HIGH TECH HIGH

▼HIGH TECH HIGHについての記事(2019)


▼映画にも登場するケン・ロビンソン卿のプレゼンテーション。

「映画の中で、生徒もみな人間である。感情があり、野心があり、モチベーションがある。それぞれの生活や過去や環境がある。データとして扱ってはならない」という語りが印象的。

TED "Do Schools Kills Creativity?" (2006)

TED "Bring On The Learning Revolution!" (2010)

 TED "How to escape education's death valley"


▼並行して読んでいる本。1970年に出版されたとは思えない。考えながら読んでいるので、非常に時間がかかるが、示唆に満ち満ちている。

"個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験を分かち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべきなのである。"

 

▼能力主義から解放された2040年を記す未来語りからはじまり、行き過ぎた能力主義の問題点を列挙していく。自分の行き辛さの根本はここにあったのでは、と読後は胸がすくような思い。

"「教育を受けていないと社会に出て成功できない」といった処世のための教育観は、社会は市場ではないというあたりまえのことが共通認識となったため消失したのでした。(2040年の未来語り)"

"何を、いつ、どのように学ぼうとするかは、本人の権利であり、その学びへの権利は常に自由の領域 として保障されていなければならない。"

"その内容をどのように学ぶか学ばないか(あるいは少なくとも今は学ばないか)は権利行使の側にゆだねられている”

"学校教育での知識の習得の程度(学力・能力の高低)がその後の生活、とくに就労の機会や賃金のあ り方に大きく影響すると信じられている。学校で提示される知識内容が実際の生活に不可欠なものと いうわけでもないのに、なぜ、学校で好成績を得ること、高学歴であること(=能力があること)が 生活条件の格差をも正当化するほどの力をもち得るのか。"

 

▼学制から昭和にかけての日本の教育の歴史。実は日本でも大正時代に既に知識偏重型の教育は問題視されており、新しいタイプの教育も目指されていたことに驚く。

"児童の日常生活に融合しない知識は、さながら糊で紙をはりつけたようなもので、糊の力がゆるめば、直ちに剥げ落ちてしまう。之を思うと、現今の小学校に於て法則・事実を注入し、さながら糊付けのような教授をしていることが少なくない"

"芦田(恵之助)は学力の「剥落」の因を「発動的学習態度」に基づかない学習にあるとして、教材よりも児童の側に目を向けることを主張する。" 

 "教育の世紀社は開校に先立って「『児童の村』のプラン」を発表しているが、そこには大正「新学校」とは異なる徹底した自由が主張されている。"村"の名称が暗示するように伝統的共同体精神の再興を基調にして、一切の管理、支配を心配し、子どもに教師を選ぶ自由、時間割を選ぶ自由、勉強する場所を選ぶ自由などを謳っている"