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ばら撒かれた夢

 一昨年くらい前に書きました。
 男が内面を低いテンションで語っています。ちょっと物足りない感じの話ですが、自分的な目印として投稿します。原稿用紙22枚分(6840文字)


 今日もまた、気怠い朝が来る。
 晴れならまだしも、曇りや雨は尚のこと憂鬱だ。
 月曜から金曜まで、人の群れが交差点を行き交う。見えないレールが敷かれた道を、迷いもなく進む様は、まるで、意志を持った大きな川のようだ。
 僕もまた、その決まりきった流れに身を委ねる。時には土日を潰してまで。
 人波を泳ぐというほど優美じゃない。正直なところ、少々息苦しい。ジリジリと込み上げてくる透明な苛立ちに、いつだって急き立てられていた。
 昼から会議がある。書類は昨日のうちに揃えた。朝礼が終わったら、すぐに会議室を押さえて、コーヒーを淹れて一息つこう。昼までは特に集中しないと、きっと、定時までにノルマがこなせない。
 気が急いて、つい足早になった。大通り沿いで、細い声に呼び止められる。
「おひとついかがですか?」 
 振り返ると、白衣を身につけた女性が立っていた。薬のシンボルが描かれたバッジを胸につけ、個別包装された飴を差し出している。試供品の配布だろう。飴のひとつやふたつ、貰ったところで差し障りもない。
「どうも」
 僕は白いパッケージの飴をひとつ受け取って、ポケットにしまった。

 昼から開かれた会議は、些か言い合いじみていた。
 白い壁に囲まれた小さな部屋で、難しい顔を付き合わせて、ゆうに一時間は経つ。互いの意見を主張するばかりで、折れる気配は微塵もなかった。
「篠原さん、ちょっと休憩しましょうよー」
 一番若手の後藤が、真っ先に音を上げた。僕は肩をすくめた。
「じゃあ、十分後に」
 僕が言うと、彼らはようやく解放されたといった風情で椅子を引いた。後藤が胸ポケットから煙草をちらつかせて笑う。
「一緒にどうっすか」
「遠慮しとく」
 僕が顔をしかめると、後藤は呆れたように、
「ホント、酒も煙草も飲まないんっすね。ストレス溜まりません?」
「別に。いいからさっさと行け」
 僕は頭の後ろで手を組んだ。天井をぼんやり見上げる。ふと、立ち昇る白い煙が頭を過った。
 余計な事だ。僕はかぶりをふった。気を紛らわせるように、ポケットから小さな飴の包みを取り出して破った。中身は薄黄色く透き通った四角い飴で、特に香りもない。躊躇せず口に含んだ。
 甘いことには甘い。が、砂糖の甘さではない。どうも紛い物じみている。ミントのような爽やかさもない。のど飴の試供品にしてはでたらめだ。
 見ると、小さな包みは真っ白で、商品名すら書いてなかった。

 会議がどうにか収束した頃、窓の外はすっかり暮れていた。僕は席に戻るやいなや、ディスプレイにのめり込むようにしてキーボードを叩いた。
 定時後の休み時間になると、帰り支度をすっかり整えた後藤が声を掛けてきた。
「篠原さん、まだ働くんすか」
「ああ。今日中にやっつけたいんでな」
 僕は顔を上げずに答えた。
 八時頃にようやくケリがついて、伸びをしつつフロアを見回した。僕が最後のひとりだった。
 帰りに、今朝の女性が立っていた辺りを見回したが、薬局とは全く別の店舗だった。あの女性はどこの薬局の店員だろう。変なモノを食わされたんじゃなければいいが。
 浮かない顔をしていると、向こうから夜と同じ色をしたスーツを着た男が歩いてきた。細面の男はすれ違いざまに笑みを浮かべて言った。
「あなた、あの飴、食べましたね?」
 僕は眉をひそめた。
「あなた、誰ですか」
「あれは見えるようになる飴です」 
「なんだって?」
「見えなかったモノが見えるようになるんです。もう見え始める頃ですよ」
「おかしなことを言う男だな。からかってるのか」
「ふふ・・・」
 男は小さく笑うと、夜の色に紛れた。

                  *

 翌朝、僕はいつも通りに気怠く切り替わる信号機を眺めていた。
 ふと気づくと、横断歩道の中央辺りに、男がひとり立っていた。
 スーツ姿で、左手にカッターナイフ携えている。子供じみた狂気を片手に、行き交う車の波間に佇み、目を閉じていた。
 僕は慌てて辺りを見回した。誰ひとり、顔色を変えない。クラクションすら鳴らなかった。
 どういうことだ?誰も見えていないのか?
 男は目を瞑ったまま、左手を振り上げた。不意に、男のまわりの世界がカッターナイフで切りつけた紙みたいに裂けた。空もアスファルトも、あちこちが切り刻まれ、剥がれ落ちた。
 突然の出来事に惑っていると、背中を押された。信号が青に切り替わり、人波が堰を切った川のように動き始める。僕は呆然としながら、流れに抗えずに歩き出した。横断歩道の中程に差し掛かると、痛むような、冷たいような、熱いような、白い痛みを覚えた。

                 *

 昼休みに、後藤にカッターナイフの男の話をしたら、案の定、笑い飛ばされた。
「それって白昼夢ってやつでしょ。篠原さんは働きすぎなんっすよ。今度、ぱーっと飲みに行きましょう」
 すると、同期の鈴木が通り掛かって、
「飲めないヤツにたかってんじゃないよ」
と笑った。
「こいつはね、仕事が趣味なの。だって、誘ってもスキーもスノボも来ないんだぜ。なあ、篠原」
「刺のある言い方するな。あれは、たまたま忙しかっただけだ」
 僕は眉をひそめて笑った。
 昼休みが明けてすぐに机に向かった。今日は入力ミスが多い。ディスプレイに羅列された文字が意味を成さない。集中できていない証拠だ。
 気持ちを切り替えようと、抽出しからインスタントコーヒーの瓶を取り出した。給湯室でカップに粉を入れて、ポットの湯を注いだ。
 暖かい湯気が立った。脳裏に白い煙が過る。頭の奥がぼうっとした。

 まっ先に思い出すのは、白い煙が篭もる部屋。
 居間のテーブルの上には、ジッポと、黒色の煙草の箱と、ウイスキーのロック。家族で囲む食卓は誰も無口で、咀嚼の音だけが、枯れ木も山の賑わいとばかりに聞こえる。
 不意に父親が荒っぽく箸を置いて、食卓をひっくり返す。その時の僕の心持ちといえば、恐怖も失望もない。砂を噛むような色のない感情が広がるばかりだ。
 そのうち、父親の所業を覚えているのが面倒になって、浴びせられた罵詈雑言の一切を忘れた。

「いいっすか」
 振り向くと、後藤が立っていた。
「後藤か」
「へへ。篠原さんが給湯室に行くのが見えたんで。コーヒー、貰っていいすか」
「ほらよ」
「どうも」
 瓶を受け取りながら、照れたように笑う。スプーンを使わないで、粉をカップに直に振り入れるところが後藤らしい。
「篠原さんって、いっつも忙しそうっすね」
「さあ、どうだろうな」
「他のヤツにもっと作業を割り振ってもいいんじゃないっすか。俺だって、言ってくれりゃあ、手伝いますよ」
「そうだなあ。でも俺、家に帰ってもやることないしな」
「だからって仕事ばっかじゃ、つまんないっすよ」
 そう言ってポットに湯を注ぐ。白い湯気が立って、僕は曖昧に笑った。

                  *

 翌日、マスクをかけた女子高校生が雑踏に立っていた。通学には少し遅い時間だが、当たり前でありふれた姿だった。
 少女はそっと目を伏せてマスクを外すと、澄んだ声で歌い始めた。けれど、誰もが一切見向きもしないし、足も止めない。まるで彼女をいないものみたいに扱っていた。
 僕と彼女だけが人波に流されまいと佇む。透明度の高い歌声は、人混みに踏みにじられ、やがて聴こえなくなった。
 少女の顔は、昔の仲間に少し似ていた。

                 *

 十五になる頃、目に触れるものは傷つけずにいられなかった。美しいもの、整ったものが嫌いだった。世界のあらゆるものが、曲がって捻れて暗くて歪なものになればいいのにと願っていた。
 路地裏で屯したり、仲間の家に入り浸って部屋が真っ白になるまで煙草をふかしたりした。みんな尖っていて、些細なことで腹を立てて殴り合いになった。きつい酒をかっくらうと、口の中の傷にひどくしみた。
 十九になる頃、それらすべてが父親への模倣だと気付いた。心底馬鹿馬鹿しくなって、酒も煙草も故郷も一切合切、ゴミ箱に捨てた。

 キーボードを打つ手が何度も止まった。
 昼間までに書類を仕上げないといけないのにと、気ばかり焦る。
 太田主任が僕の脇にしゃがみ込んだ。
「篠原。先方は二時ごろ来るそうだ。出来ればその時にこの書類を見せたい。間に合いそうか」
「どうですかね」
 僕は唸った。いつもならもう仕上がっていてもおかしくない。主任もそれは承知している。それゆえ、声をひそめた。
「何か問題でも起きたのか」
「いえ」 
 認めるのは癪だが、間に合うか五分五分だ。僕と主任が顔を付き合わせていると、鈴木が僕の背後に立った。
「なんかトラブル?手伝おうか?」
 どうせ首を縦を振らないだろうけどと、鈴木の顔に書いてあった。僕は腕を組んで、少し考えた。期待外れの答えをしたら、こいつはどんな顔をするだろう。
「悪い。頼む」
 僕が言うと、鈴木はにやっと笑った。

                  *

 翌日、雑踏に少年が立っていた。小学生か中学生か曖昧な背丈で、耳に大きなヘッドホンをかけていた。カバンも持たず、涼しげな顔をしている。やはり誰も見向きしなかった。
 僕とのすれ違いざま、少年はヘッドホンを外した。目が合うとにやりと笑った。鈴木に少し似ていた。

                 *

 二十六になる頃、再三の母親の求めに応じて、帰郷を果たした。父親が白いベッドに横たわっていた。
 母親と僕と妹は、主治医から手渡された写真を代わる代わる見た。やけに色鮮やかな色をした、生々しいものが写っていた。
 奇麗だろう。悪の花さ。私の中に咲いているんだ。
 父親は皮肉な笑みを浮かべてやけに気障な科白を呟いた。囁く声は独白に似ていた。そうして主治医が病室から去ると親みたいな口をきいた。
「賢二。お前も体、気をつけろよ」
 僕は拳を固く握り締めた。
 時が経てば、すべてが水に流されるとでも思っているのか。ずっと昔に同じ口で、何と言ったのか。覚えていないというのなら、それこそ父親面など、どの面下げて出来る。
 俺は子供なんか欲しくなかったと、酒を煽りながら笑っただろう。
 母親が僕の顔を心配そうに見ていた。なにを察したのか、病室を出るなり言った。
「おとうさんは悪い人ではないんだよ」
 小さな頃から繰り返し聞かされてきたそれは、もはや呪いに近かった。僕と妹をここに延々と縛り付ける。僕は茶番みたいな言葉を聞くためにわざわざ帰ってきたわけじゃなかった。
 嗚呼。いっそ何もかも壊れてしまえばいいのに。

 定時近くになっても、ノルマがこなせそうになかった。ディスプレイをぼうっと眺めていると、後藤がガムを差し出した。
「噛むと結構、集中しますよ。プロ野球選手もよく噛んでるでしょ」
「へえ」
 返事もそこそこにガムを口に頬張った。メンソールが鼻腔をくすぐる。
 改めて、青白い光と文字列を眺めた。このまま時間を費やしても、でたらめな書類が仕上がるだけだった。
 僕は椅子の背もたれに背中を預けて、後藤を見上げた。
「今晩、飲みにいくか」
「マジっすか。ハナキンっすね」
「お前、若いのに変な言葉知ってるなあ」
「勿論、奢りっすよね」
「ホント、ちゃっかりしてんなあ」
 呆れる僕に後藤が八重歯を見せて笑った。
 定時明けに連れ立ってタイムカードを通していたら鈴木が物珍しそうに言った。
「残業しないなんて、今日は雨かな」
「うるせえよ」
 僕が苦笑いを浮かべると、鈴木もタイムカードを切って、呼んでもいないのに着いてきて場を仕切った。
 あっちの店は酒の揃いがいい。あっちは飯が上手い。あっちは何もかもが塩辛いし、値段の割にグラスが綺麗じゃないとひと通り述べる。鈴木に促されるまま間口の小さな居酒屋の暖簾をくぐった。座布団が敷かれた四人席に通されるなり鈴木が言った。
「お前らビールでいいだろ」
 右手を上げて店員を呼ぶと、幾つかつまみを見繕い、
「あと、生三つ」
 僕はそれを遮った。
「俺、ウイスキー」
「ええっ、どうした篠原。大人デビューか」
 大げさに驚く鈴木の隣で、店員がどうしますかと僕に尋ねた。
「生二つとウイスキーでお願いします」
 すると、後藤と鈴木が口々に、
「大丈夫っすか?」
「無茶すんなよ」
 そこまで心配されるほど僕は頼りなく見えるのだろうか。
「どうかな。まあ、大丈夫だろ」
 間を置かずに通しと酒が運ばれてきて、鈴木が音頭を取った。
「篠原との初飲み会に、かんぱーい」
「適当なことを言いやがって」
 琥珀色のウイスキーを口に含むと、枯れた匂いが鼻を抜けた。胃に熱く染みる懐かしい感覚。後藤がビールを煽りながら、
「ウイスキーって、セメダインみたいな匂いっすよね」
と笑った。
 食事がすすんでいくうちに、どちらともなく煙草を吹かし始めた。僕も胸ポケットから煙草の箱を取り出した。すると後藤が、
「あれっ。吸うんすか?そのロゴ、ラビエンローズみたいっすね」
「それを言うなら、イブサンローランだろ」
 すかさず鈴木が言った。僕には呪文にしか聞こえない。
「お前ら、何言ってんだ?」
「篠原、お前、女と付き合ったことないのか?ブランドもんはマストだぞ。それにしたって、ジョンスペってお前。きついぞ。やめとけ」
「知ってるさ。昔、吸ってた」
 鈴木が訝るような顔をした。僕は煙草をくわえて火をつけた。青い煙がゆらめく。やはり苦いし肺に響く。うまいと思ったことなんか一度もなかった。
「親父も吸ってた。もう死んだけど」
 吐き出す煙とともに、零した。

 その晩、酔って横断歩道を渡った。視界が揺れるし足元もふらつく。久々の感覚だった。すっかり忘れていた古い何かが脳の奥底でひらめく。離れ離れになっていたシナプスが再び手を伸ばし繋がっていくような感覚。
 そこには少年も少女も子供じみた狂気を持った男もいなかった。世界も壊れていなかった。胸ポケットに手を伸ばすと、煙草の箱は中身がすっかり空になって潰れていた。
 自動販売機で黒いパッケージの煙草を買った。すぐそばに人の気配があった。夜の色をした服を着た見覚えのある男が笑顔で立っていた。酔いが見せる幻なのか、それとあの飴のせいなのか。
「おや。ジョンプレイヤースペシャルですか。なかなか渋いですね」
 男は気さくに声をかけてきた。僕は黒い箱の封を破って、男に差し出した。
「あんたも吸うか」
「それではお言葉に甘えて。火をお借りしても?」
「ああ」
 男は僕からライターを受け取ると、煙草の先に火を灯した。僕はまじまじと男を眺める。
「あんたは幻じゃなさそうだな」
「さあて、どうでしょう」
 からかうように笑った。
「あの飴、一体何だ」
「何の変哲もない飴ですよ」
「そんなわけあるか。現に俺は変なものを何度も見た」
「ふうむ」
 男はふうっと煙を吐くと、不敵に笑った。
「何が見えるかは本人次第という曖昧な代物です。強いて言えば夢をばら撒いてるようなものです。あなたの夢のようにでいて、誰かの夢でもあるような」
「クスリの類か」
「まさか。先ほども申しました通り何の変哲もない飴です。けれど、ご存知ですか?ただの飴でも医者が薬だと言って処方すれば時に薬と同等の効力を発揮します。これは気まぐれな実験なんです。ところであなた、携帯灰皿をお持ちでしょう、お借りしても?」
 やけに見透かしたような言い方をした。僕が怪訝な顔をすると、男は薄ら笑った。
「あなたのような方は、道端に吸殻を捨てたりしないものです。潔癖で理屈に合わないことがお嫌いでしょう?正しさを貫くのがお好きですか?けれど、白過ぎるものもまた、無神経に人を傷つけるものですよ。目に見えない刃のように」
 男は僕が差し出した携帯灰皿に煙草を押し付けると、背を向けてスーツと同じ色の夜に溶けるように掻き消えた。
 僕は煙草に火をつけた。青い煙を目で追うと、黒い空に吸い込まれていった。それは泪色の空に消えていく弔いの煙に似ていた。
 死んだってなにも変わらなかった。むしろ失望が色濃くなるだけだった。それでも、ずっと考えていた。なぜ父親は笑ったのか。白いベッドに横たわり、子供なんか欲しくなかったと言った時と同じ顔でなぜ。実のところ自分が子を持つ親になるなんて思いもせずに生きてきたのだろう。だからこそ、こんなろくでなしが家族を持つ事になるなんてと、巡り合わせの数奇さに笑ったのではなかったか。
「俺には無理だなあ」
 誰に云うとも無く空に向かって呟いた。
 いまさら他人の人生を背負うのも億劫だし、そもそも家庭を持つ事に希望を抱いていない。それでも、そうだな、時々は今日みたいに、誰かと飲んでもいいし、たまの遊びに興じたっていい。そうしてたまには故郷へ電話の一つもしたっていい。僕の命が親の命の先にあるのは抗いようもない事実で、それがどうにも息苦しいけれど、生きていくのが苦しいけれど、同じものでは決してないのだ。
 僕は煙草の火を消して、封を切ったばかりの黒い箱をゴミ箱に捨てた。

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