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南国土佐を後にして〜一豊の人生part5〜

こんにちは♪hm384352です!
今回は山内一豊の生涯の最後です。土佐に入った一豊でしたが、その後わずか5年後にこの世を去ることになります。

前回の振り返りをしつつ、一豊の最期を見ていきましょう。

慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、かつて一豊と同じく豊臣秀吉についていた石田三成に豊臣側につくよう手紙で催促されても、それを断り東軍(徳川家康側)についた山内一豊。

関ヶ原の戦いの勝利に貢献した一豊は、徳川家康から土佐国(現高知県)を拝領し、56歳にしてついに一国一城の主となります。

関ヶ原の戦いの翌年に土佐国に入国を果たすと、鏡川と江ノ口川(えのくちがわ)に挟まれた大高坂山(おおたかさかやま:現高知県高知市)に築城を開始します。

この当時の土佐では長宗我部氏の除封による混乱の状態にありました。

長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こしましたが、これを鎮圧する一方で一豊の弟であった康豊は旧来の制度を踏襲し領国統治を行う旨を示すなどの懐柔策を展開しました。

弟康豊の懐柔策と一揆鎮圧の後、一豊は慶長5年(1600年)の暮れ、大坂を出発し、翌6年(1601年)1月2日に甲浦に上陸、8日に浦戸城に入城しました。

高知城は2年かけて土佐藩2代藩主の山内忠義(ただよし)の治世でようやく完成します。

一豊は慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されて、従四位下・土佐守に叙任されました。

そして慶長10年(1605年)、幼い頃から苦労して天下人から厚い信頼を受けて出世の階段を一歩ずつ登り土佐藩主とまでなった一豊は61歳で高知城で亡くなりました。

決して楽な人生とは言えないものでしたが、最後は土佐の一国一城の主となった山内一豊。

一豊の生涯を知った上でもう一度大河ドラマ「功名が辻」を見るとまた違う一豊の一面が見えてくるかもしれません、、、


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