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家康、秀吉にどう立ち向かう?結末へ!

こんにちは!hm384352です!
前回の記事で小牧・長久手の戦いの背景をお話しました。

羽柴秀吉と戦う大義名分を得た家康は越中の佐々成政、紀伊の雑賀・根来衆、関東の北条氏政、四国の長宗我部元親等に要請し「秀吉包囲網」を形成します。

包囲網を形成している天正12年(1584年)3月13日、それは家康が清洲城へと到着した日でした。織田家の譜代大名で清須会議では家康に味方したものの、その後の去就が注目されていた池田恒興でしたが、突然秀吉側へと寝返り犬山城を占拠してしまいます。

一説によると恒興は秀吉からこの戦いで秀吉側につき、秀吉側が勝利したら尾張1国を与えると約束されていたそうです。

犬山城を占拠されてしまった家康はすぐさま小牧山城へ出陣し、占拠します。
この小牧山城占拠と同日、秀吉の恒興軍と森長可(ながよし)軍が犬山城に近い羽黒砦に着陣していました。しかし、秀吉側のこの動きは家康方の間者(かんじゃ)により家康に知られることになり、同じ日の夜、家康軍の奇襲を受け森長可軍300余りが討死しました。

秀吉は森長可軍が敗れたことを聞き、直ちに自ら大軍を率いて出陣、各武将に家康が占拠した小牧山城を北東から包囲するように布陣させ、秀吉自らは小牧山城がほぼ真正面に見える楽田城(がくでんじょう)に本陣を構えた為、家康・秀吉両軍睨み合いの状況となりました。

ここからついに小牧・長久手の戦いが開戦となります。
結果はどうなっていくのでしょうか!?
戦いの続きを一緒に見て行く事にしましょう!!

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