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安土城下町とは?

こんにちは😃hm384352です♪
今日は安土山の眼下に広がった安土城下町についてお話します。

織田信長は安土城を築城開始した翌年の天正5年(1577年)、安土城下町宛に楽市楽座の掟書きを出しました。つまり信長は城の築城と同時に城下町を造り始めました。城下町は安土山南西にある南北に細長く延びる台地上に造られましたが、この土地には以前薬師寺領の荘園であった豊浦荘があった場所で、元々集落がありました。

なので、信長は真っ白な土地に町を造ったのではなく元あった集落を取り込み城下町を建設しました。

このように造られた城下町ですが、どのような町だったのでしょうか?現在も多くの人が生活している場所なので、大規模な発掘調査はされていません。しかし、小規模ながら城下町の成立や構造を考える上である程度成果は発掘調査で出ていますので、紹介していきたいと思いますので一緒に見ていきましょう!

安土城下町の範囲で城下町遺構が焼土や炭化物を伴って検出された地点は十数箇所ありますが、特に下豊浦十七地区(現在の安土郵便局付近)での調査では成果が出ていて、埋甕や井戸、区画溝、桝溜(便所)といったものが検出されました。これらは町屋に伴う遺構なので十七地区には町屋が形成されていたと推測されています。

この他の場所でも調査は行われていますが、城下町遺構が検出されていないところが大半を占めています。

また家臣達の屋敷についてですが、信長の家臣団の中でも羽柴秀吉や前田利家ら重臣達は安土山麓の大手道沿いに邸宅を構えていました。だが、この邸宅は安土に出仕し泊まる必要があった時にのみ使用されました。

一方、重臣以外の家臣達はどこに屋敷を構えたのでしょう。『信長公記』の記述では、信長は馬廻りや弓衆という直属の親衛隊のみに妻子共々安土に移住することを命じています。この命令に従わなかった家臣もいたらしく、罰を受けた者もいたと記されています。ただ、この家臣達が城下町のどこに屋敷を構えていたのかは分かっていません。。。

安土城以降に築城された豊臣や徳川の城や城下町では全家臣とその妻子の移住が命じられており、家臣団屋敷街というものを形成しています。
この点から安土城下町は確かに近世城下町の基礎となる町ではありましたが、首都としての機能を完全に発揮するものではなく、戦国時代から近世への過渡期に位置していたと思われます。


安土城下町全体図
十七地区出土遺物

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