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「ニーチェとフーコーの視点の違い」について

フーコーは、諸著作で、ニーチェの名が参照されているにもかかわらず、ニーチェの「力相関性」の認識論的核心を受け取っていない、と哲学者竹田青嗣氏は指摘する。

近代 認識論 の 根本的 な「 謎」 が、 カント、 フッサール の 超越論的 問題 領域、 フロイトの「無意識」世界の探求の領域、そしてハイデガーの「存在論」(「存在論的差異」)の問題領域に最も象徴的な仕方で定位されているとフーコーの指摘は、現代的な説得力をもつかに見える対象相対化するフーコーの視線とニーチェのそれとは、見かけほど一致していない。

竹田青嗣. 欲望論 第1巻「意味」の原理論 (p.637). 講談社. Kindle 版.

ニーチェは近代哲学の総体に対し、その根幹をなす「主体ー客観」の構図を否認して「力相関性」の原理的構図をおいた。このことがニーチェを近代認識論への総批判へと導いた。

「力相関性」とは
人間、猫、トンボ、アメーバ、魚、異星人・・・・といった無数の生き物のリンクが対象を取り囲んでおり、それぞれが身体(欲望)のありように応じて、自分なりに対象の存在の在り方を認識している。完全な認識がないので物自体は存在せず、ニーチェはカオスと称している。

それぞれが、自分の見方で対象物を認識するのであるから、相対主義的であるとも言えるが、ニーチェの認識論的核心は「主観ー客観」的な見方を、つまり本体を解体することにある、と竹田は主張する。

しかし、フーコーが独自の構想によって提示した「近代認識論」の基本構図に対する疑義は、ポストモダン思想の根本方法である相対主義を武器としている。

つまり、批判的相対主義によって近代認識論の枠組み全体を相対化するという対抗方法である。近代の知は、人間自身を「自己同定」することはできないし、あらゆる分野における知的権威づけはなんら妥当性と正当性をもたず、それゆえ欺瞞的な権力による知のゲームしか生み出すことができない。これが知の不可能性の言説の一般的帰結であるというものである。

竹田は、こうした見方に次のように反論する。

何もの も 知的 な 同一性( 真理、 本質) へと 到達 する こと は でき ない。 何もの も己 れ の 主張 を 正しい と する こと が でき ない。 ただ、 われわれ は 知 の 営み の 隠さ れた目論見を知っており、これを正しく暴露する言説のみが正しい。

ここにあるのは、 しかし、 決して 自ら を 根拠 づける こと の でき ない 論理、 他 の 主張 の 不可能 性を 指摘 する こと によって、 自己 の 立場 を 正しい もの と 見せかける、 根拠 を 欠いた 正当 化、 承認 の 契機 を 欠い た 正し さの 主張、 世界 の 矛盾 に対する「 イロニー」の観念的抵抗に立場にほかならない。

竹田青嗣. 欲望論 第1巻「意味」の原理論 (p.638). 講談社. Kindle 版.

「主観ー客観」の不可能性という根本問題は、ニーチェやフッサールの原理がその困難な隘路を切り開き、原理的な解明をもたらしたことを、フーコーもまた(他の現代哲学者、現代思想家とともに)完全に見過ごしている、と竹田は諸著作で主張している。

さらに、認識 問題 に対する 相対主義 的 解決 は、 必然的 に 社会的な正義や公正の根拠に不可能性に帰結すること、そして現代の相対主義思想は例外なくこの重要な問題を看過しているということ。相対主義によるあらゆる根拠と正当性に否認は、既成の権威と制度の正当性を疑義に付してこれを相対化するが、どんな代替しうる正当性も示せないことによって必然的に力の論理に屈伏するほかない、と叙述する。

こうして、フーコーを始めとして、デリダ、ドゥルーズなどの現代哲学者の批判を繰り返しているので、日本の他哲学者から異端者扱いされるのは、無理もないことだと思う。

だが、すでに竹田氏、西研氏、苫野一徳氏の著作からは、異端どころか、これが、正統なんだろうと思うようになってきた。数年前まではフーコー、ドゥルーズを好んでいただけに、心の痛みを感じつつではある。



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