ド素人が語る、少子化と性差についての妄想

※筆者は専門家でもなんでもないただの債務者(現在進行形)なので、その稚拙な妄想、もしくはフィクションかも?とわかっていながらそれでも気になるもの好きな方向けである。


聖徳太子は言った。
仲良うしなさい
と。

これは人間みんな仲良く、という意味ではない。
男女でせっせと子作りせえよ、という意味だ。

何故か?

当時の人類にとって、脅威であるものに数で対抗するためだ。
その脅威とは、「野生動物」。

では現代ではどうか?

害獣とされる生物は居るが、都市部で多くの人が生活する分には全く問題ない程だと思う。
むしろ、人間が多すぎて煩わしく思う日々もあるのでは無いだろうか?

そう。

現代社会において、
外敵は野生動物ではなく、
増えすぎた人間になってしまった――。


あ、ヤバい妄想かな?
いや、漫画の読みすぎ?大丈夫?
と思っていただいたそこのあなた、正解です。
ド素人筆者も、こればかりでは無いとは思っている。

ただ、話そうとしているものはこれがベースにあるので、ヤバい!と思ったら逃げて欲しい。

人間の敵は増えすぎた人間に変わるくらい、
人間は生活に余裕が出来た。
つまり、これ以上増えても仕方がない状態くらい、大多数の害獣からの危険を感じることなく暮らせるようになった。

突然だが、楽園実験というのをご存知だろうか?
複数のラットを食に困らず外敵もいない空間に閉じ込め、その繁殖等の経過を見るものだ。
検索したら出てくるので、詳しいことが知りたい人はそちらで確認して見てほしい。

この実験の中で一番興味深く印象に残ったものが、
無気力なラット」が出てくるところだ。
ある程度ラットが大繁殖したのち、もう新しいラットが住めなくなるくらい窮屈になってくると、その傾向のあるラットは現れた。
他の階層の高いラットが子作りをする中、基本的には寝て食べて寝て、を繰り返すような個体達だ。

これを最初に見た時、正直「なんで????」と思ったが、
その後の己の妄想によれば、
これ以上ラットが増えれば、土地の広さに対してより窮屈に、より格差が出ることになる。
つまり、彼らは適切な種族の数を守るものとしてのブレーキ役。

ここまで読んでピンと来たひともいるかもしれないが、そう。
現代の人間にも同じことが起きているのではないか?
寝そべり族……。という言葉も数年前からあるが、
「欲というものに顕著に興味がもてず、もしくは競争が嫌で、何もせずに過ごすことを良しとする人間たち」

たとえそこまで行かなくとも、
現代日本において「子を作る」こと自体、
まあまあの富裕層でない限りは、かなりリスキーなことだと、今の適齢と言われる世代の人達は肌で感じているのではなかろうか。

それは、
「制度的にそうならざるを得ない」以上に、
「人間がこれ以上適当に増えると今の人間がやばい」
という部分がでかいのではないかと思っている。

そもそも、子を作る、とはなんだろう?
種の存続、という以外で、
いつから我々は
「子を産み家庭を持つことが善である」と
思いこまされていたのか?

それは「外敵である野生生物を数で圧倒する為」であって、
人間が増えすぎた時代から、人間同士の土地などの争いが頻発する始末。

「人間同士の殺し合いのために新たな人間をつくる」
「人間が人間を使うために新たな人間をつくる」

方向に行っているように思う。
はたして、これは種族としてどういう状態なのか?

人間とラットではまあ様々なものが違う訳だが、
楽園実験の最期は必ず「全員滅びる」だったと記憶している。

つまりアレだ。楽園実験をなぞるなら、このまま増え続けると多分全体の人類は滅びるかも。
少子化という現象自体、それを抑制しようとしているのかもしれないが、
ただでさえ小さな島国の日本でそれが起きるということは、
他の国でそうじゃない状態の他国か攻めてきたら
普通に血の数が足りなくて日本の血は滅びる運命にあるのかもしれん。嫌だが。。。
それにしたって、日本は小さな都市にぎゅうぎゅうになって住んでる人間も多いので、
そんなぎゅうぎゅうなアイランドで無気力になる人間が沢山出てくることは、不思議ではないのではなかろうか?

ニートであったり。ニートであったり。ニートであったりだ。あとニート。それから社会不適合者とか弱者とか周りから言われるような存在。(筆者は鬱ニート経験者です)

だが正直なところ、そういう存在というのは、昔の古くさい考えを抜きにして考えると、とてもラッキーなのではないか?というのは後述する。


少し生物学的な話をしよう。
例えば、女性が子を成し産む時、女性が死ぬことは昔はよくある事だった。
それくらい、マジでガチに危険な所業。
命をかけなければならないこと。
産んでから命が助かったとしても、エネルギーの消耗も酷ければ、子が無事であるかどうかも微妙な世界。

それが人間の女性が出産時に起こるヤバい事柄の、生物としてのデフォルトだ。

そんなこと知ってる。でも今は医学の進歩でそんなこともないでしょ?」と思う人も多いかもしれない。

しかし、人間の脳や防衛本能というのは、100年や500年そこらじゃ変われないものだ。
人間が最近でてきたSNSというものにどう対応したらいいのかわからないのもそのひとつで、承認欲求バグりまくりみたいなこととか
「スマホ脳(著:アンデシュ・ハンセン)」とかでも読めるので(すんごいおもろい)興味があったら読んでみて欲しい。

ここ何百年かで、医療の進歩があり、出産時の女性が死に至るリスク、赤ん坊が死に至るリスクは軽減された…とはいえ、女性の身体の構造自体が変わった訳では無いのだ。

つまり、女性の身体を持つ人間というのは、
その「死のリスク」に対して身を守る必要があり、その警告機能が備わっている。
どういう意味か?
「死ぬかもしれない行為を回避する」こと、
すなわち
「己の命を守るため、男性からの性的接触を回避しなければならない」
ということだ。

性犯罪が何故"犯罪"とされるのか?
それは、

女性にとって男性から性的接触をされることは、
「殺されることと同義」だからだ。

そんな大袈裟な、と思うかもしれないが、
彼女らはその「防衛本能」をコントロールする事は極度に難しい。医学が進歩したとて、それを本能が理解できる訳では無い。適切な医療環境があるところでなければ、例え99%適切な環境があったとしても、絶対ではない。彼女らは死ぬかもしれないのだ。
参考までに、ここ5年ほどの妊産婦死亡率がわかるURLを貼っておく。
https://japan-who.or.jp/factsheets/factsheets_type/maternal-mortality/#:~:text=2020%E5%B9%B4%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%BB%E3%81%BC,%E3%81%A7%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

もし、1度男性に対して「防衛本能」が酷く働くようになってしまうと、普段過ごしている日常の中、見知らぬ男性が隣にいるだけで「常に首に包丁を当てられているような恐怖感」を、
自ら制御出来ない「防衛本能」から、与えられ続けられる事になる。
もし、日常的に会話をしなければならない特定の相手によって、日々身の危険を晒しながらその場に居なければならないというストレスは、常に死と隣り合わせの戦場に居るようなもので、その苦痛は想像を絶する。

それらに対し、

現代日本の男性は、「子を成すことは善」
「つまり子を成すことの延長の行為は善」という、

前述した防衛本能とは正反対の独特のすり込みがあるように思う。

それは、古くから続く100年200年前1000年前の古典ドラマであったり、古い世代からの教え、漫画やアニメ、男に求められることとは何か?何をすれば男として認められるのか?家庭を持ち大黒柱として働き、女性を孕ますことで喜ばせる事。そのような洗脳が国全体であったとみている。
それらの考え方に幼い頃から知らずにすり込まされてしまうことは実は大変悲劇的で、聖徳太子の時代からねじ曲がった古くさいもので、人類飽和状態の現代においては全く順応できていないものなのではないか。
異性が殺されることを警戒せずに子作りしろだなんて、本来あまりにも理にかなっていないのだ。

今現代日本において既に野生動物の脅威はほぼ無く、国全体においても人間が飽和状態であるのに、
そのような古い大きい呪いのようなもののせいで、
男性の身体を持つ人間は、
ひとりみというだけで自ら自分を蔑み、古くからの呪いのかかっている他人からも蔑まれるような目線の中に居るのではと思う。
そのような目線の中にいると、子を産むという1人ではできないこととして、自分に興味を示さない女性や自分を警戒する女性(コントロール不要とは知らず)に対して責められているようで敏感になるし、
(例えばそんな状態で女性に慣れてないすり込みのある男性が、ほぼ他人の女性に「人間として」接されただけで「ついに俺にも子作りokのサインが?!」と、異性の人体構造についても詳しく知らないまま全力で誤解してしまい、笑い事ではなくその女性は死の恐怖を覚え、男性不信になってしまうことだろう。)
代々その時代を超えた呪いのすり込みがされてきた男性側からすれば、
なぜあれだけ子を成すことが善だと言われてきたのに、目の前の女性達は自分の思う通りにならないのか、
その原因を目の前の仮想敵女性や弱者女性に押し付けることで、
歪まされた認知からの自らの正当性を見出そうとする、地獄のような状態になっているのではないか。

また、そんな呪いの中、半ば病気とも言えるような男性達からなんの悪気もなく過去の責任を勝手に押し付けられる形で、
死に直面するのと同義の被害にあってしまった女性達は、自ら制御出来ない防衛本能により死ぬかもしれない恐怖を常に抱えながら苦しみ、
互いに最悪の対立になっているように思う。
忌むべきは、現代にあっていない古くからの呪いや、
双方の肉体構造や防衛本能への無理解によるものであるというのに。

では、何故そこまで女性が男性に対して自らの死を警戒するのに、子どもは今も生まれているのか?それは恐らく2パターンあって、

①心無い異性に死を強要されてしまった
②殺されてもいいと思うほど愛する相手に身体を許した

個人的にはこれしかないと思う。
異論は認める。

②ばかりであることを心から祈るが、
日本での痴漢被害の頻度を思うと、
性的接触によって、女性が死ぬリスクに心から怯えて苛まれてしまうことを認識していない、
むしろ性的接触は善だとすりこまれたまま、
その後理解をする機会もない男性がとても多い
のでは無いかと見ている分、実質①のような事も多いのではないかと思う。統計を取ったことがないので予測の域を出ないが。…ただここで、痴漢というものをする男性が、それを摘発された場合社会的に死ぬと分かっている男性が多いかもしれないという点だ。
この行為が悪質だとわかっていて、このくらい良いだろと異性への身体構造への無理解で無遠慮な判断基準によって甘く見、己の中の異性という幻想に依存し物理的に八つ当たりしているということになる。
その行為自体、女性にとって死に直結する行為の前触れであり、酷い防衛本能を呼び起こし一生分の傷を追うかもしれない事を理解している人間は、男女共にどのくらい居るのか。


……この予測にそうと、現代において男性から見た「モテ」とは、「=殺されてもいい相手になること」なのだろうが、実は女性の身体は変わっていないので現代においてではなく、
昔から「殺されてもいいと思えるような相手になること」がモテの条件だった。
余談だが、女性の身体というのは「精神的に深く安心した上で、殺されてもいいと感じるくらい性的に高められることが出来る」機能が備わっているらしい。
そうでないと「子を産む」という自身が死ぬような事を率先してしようとはとても思えないからだと推測している。であるからこそ、命を差し出しても良い相手なのかどうかは、常に慎重に見ている。
(※子どもは除く。生死と己の人権についての判断力が備わっていない・育っていないうちから、大人の幻想を子どもに被せ、本人が自立して生きていく力を持たぬうちから同意を演じさせることは、一人の人間の一生のその殆どを奪う人間という種の中において卑劣で最悪で最低な行為だと個人的に思う。)
それらは、男性側からすれば純粋な性行為における、命のリスクが現代においてはほぼ無い(トイレとかお風呂レベル)、むしろ、行為においては精神的なプレッシャーの方が多いまであるかもしれない男性にとっては、ハニトラを除く常に行為に命の危険を伴った女性の警戒は、なかなか理解し難いことかと思われる。そもそも、よく考えてみればハニトラ自体も、体格差ある男を自分の生死が関わる行為を伴うのだから、余計に命をかけている行為だと言える。女性が体を売る水商売であっても、男性の体を持つ人間と比べて、妊産婦死という本能的な恐怖を無理やり押さえ込み、どれだけ笑顔であったとしても常に喉元にある包丁に気を配りながら、恐らくは精神をすり減らしながら命をかけてやっている事には変わりないはずだ。
日常の話、男性が女性とともにいる時、常に女性から包丁を喉に当てられているような気分になるか?という話だ。
おそらく、そういった特殊な異性へのトラウマ等がない限り、全くの他人が横切ったりするときフツーに過ごしてるかぎりはそういうのはないはずだ。
だが、それが女性となると話は違う。こちらに相手を襲う気は一切無かろうが、同じ空間に居るだけで女性の包丁を喉に当てているほど警戒されておかしくない、それ程彼女らの防衛本能とは本人達に制御出来ない、強く困るものなのだと思ってほしい。そのくらい、男性にはそういったリスクがないのだ。

……セックスという行為が、性的接触という行為が、目の前の相手の命を奪うようなものなのだと、もし現代の男性側全てが自覚できていたとしたら?
目の前の愛する人を殺すようなことをしたいと思うだろうか?愛する人でなければ、無害な相手に手を出し、殺してもいいのだろうか?

少子化が進む現代で、1人でも子がいなくても十分生きていける、昔と比べたら楽園のような現代で、わざわざ愛する人に、そして道行く他人に死ぬリスクを負わせる必要がどこにある?

どうか、1000年以上前から続く古くさい呪いから目を覚まして欲しい。
よく考えてみてくれ。
もし女性が命をかけて子を産んだとする。その女性と子を、男性は命をかけて子を育て、守らねば、人間という生物としての命をかける割合に合わんのではなかろうか?

(追記:……ここだけの話だが、300年前までは、男性の乳房からは母乳が出たそうだ。女性が持つ乳房は男性のそれが使えなくなった時のスペアである。つまり、「かつて命をかけて子を産むことは、女性の身体を持つ人間しかできないが、それ以外のことは他の人間でもできる。男性の身体を持つものでも、赤ちゃんを乳飲み子のころから育てることが出来る」。
生みの親である人間というのは、産むだけで命を懸けた一大事を終えたことでもう害獣から国を守るため種を残す人間として十分な仕事を果たした者であり、その後の子育ては主に男性の役目だった。
完全に口頭で聞いた話なのでネットでソースを見つけたかったが見つけられなかったので、もし詳しい文献などを知っている人がいたら教えて欲しい。そんなの聞いたことないって人は、眉唾だなあと思って頂ければありがたいし、もし興味がある男性なら母乳を出せる可能性にかけて練習してみてもらっても構わない。)

それが、命をかける行為が人類飽和状態の今では
「子を成すかどうか選べる」のだ。
人生の中で他人へ命を預け他人の命を預かり、命をかけずとも、野生動物からの脅威には滅多に困らない。
男女共に、もうしばらく子をなさずとも生きていけるのだ。なぜなら人間が多すぎるから。

・・・それってつまり、めちゃくちゃボーナスタイムな時代じゃない?!

人間を増やさずとも住むところにも、飲食店にも、美しい人間を観ることにもほぼ困らない。豊富な性グッズやコンテンツ(まあ呪いを受けた世代が作った呪いを助長するような性的搾取コンテンツも多いが)があり、それ以外も面白いものはたっくさんある。

我々が生きる現代とは、昔の人間達がすごく頑張ってくれたおかげで、子作り以外のことを思いっっっっっきり楽しめる時代なのだ。
子を成すことに縁のない無気力なラットでいることを、恥に思う必要は全くない。
むしろ、死のリスクを負わずとも白い目で見られることが少なくなってきた現代を楽しむ方が、何倍も「人生の遊び」においては有意義な時間を、昔の人間よりかなり自由に選ぶことが出来るのないか。

子を成さんでも幸せを感じていい世代、むしろ子を成さなくてもいいことに幸せを感じる世代というのは、もっと社会全体で味わっていいと思う。

1000年前は祈りだったかもしれないが、
1000年後においてはクソ古い呪いに等しい。
そんな腐りきったものに縛られるな。

それでも子が欲しい、いつかはパートナーと子をもうけたいと思う人達はいると思う。
それは何故なのか、今一度考えて見てほしい。
自分の老後を見てもらいたいのか?それとも、自分が出来なかったことを子どもに体験させたい?血を絶やしたくない?子孫を残したい?戦力が欲しい?
いずれにしても、子ども自身のことを思っているのではなく、現代において子作りというのは外敵から数で身を守るためではなく、人間本人達のエゴ、そして人間同士の戦いの中に本人の意思とは関係なくくりだす行為であることをまずは自覚して欲しい。
そこに、愛はあるか?
こんな世界で、子どもが自立するまで教育し、生きて守りきる事ができるのか?その覚悟、そして財力、知力、いざとなった時協力してもらえるような縁が、果たしてあるのか。
そして、殺されてもいい、殺してもいいと思える相手同士の行為であるかどうかの確認は、お互いの事を本当に思うのであれば、必須であると思う。

色々と言いつつ、人類の敵は増えすぎた人類、という理由で
少子化についてさほど気にしていない筆者だが、
体験したことで言うと「子どものパワー」というのは体感として凄まじく、もうそこにいるだけで""""善"""""であり、"""""この世の宝"""""と思ってしまうほど尊いものだと感じている。
何においても出産とは、子どもの成長とは
どう足掻いても奇跡で、皆が尊ぶべきものだと思っている。
だからこそ、彼らが時代の犠牲になることはなるべく避けたいと。女性の体を持つ多くの人間が命をかけて産んだ新たな命に対して、自分が出来ることは何かと考えざるを得ないところも、ある。

もし今後も子を成す予定は無かったとしても、現代の子どもに対してできることはたくさんあるはずだ。
防衛本能について学んだり、小学校とか中学校で必ず、「子どもを産むという行為は下手をすれば死にます、医学も進歩はしていますが、子作りというのは愛する人を殺してもいいかどうか、殺されてもいいかどうかの同意が必ず必要です」みたいな風に教えてもらえる時代が、すぐそこまで来るようになったら、とか。

……死のリスクを負わなくて良い現代を、ひとりで、そして時々同性、時々異性、時々人外と、お互いに死のリスクを認められるような相手と出会い財力に余裕がありまくっているなら子も作り、

せいぜいこの楽園を謳歌しようではないか。
などと思う、徹夜明けであった。

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