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流星群の夜に

その夜は何十年ぶりだという流星の群れが夜空に尾を引き、眼の見える人々は空を眺めて手を広げ、自分のちっぽけさを証明するのに夢中になっていた。
随分と長く暗闇に身を浸してきた盲の男は、そんな喧騒から身を引いて海へと続く川沿いの部屋で、窓を開けピアノを弾いていた。右隣に住む寝たきりの老爺の唯一の願いは男が弾くピアノの曲を、眠れぬ夜に聴くことだけだった。特に半ば腐った片足の先が疼く夜には。
盲の男がまだ若く夜を明るく感じられたころ、老爺は洒脱な衣服に身を包み高い酒を呑み女を抱き、幾つも店を持っていた。男は老爺の店でひと時、ピアノを弾いていたことがあったが二人が会話をするということは終ぞなかった。

男にはその頃からピアノしかなく、
光を失ってからもピアノしかなく、

老爺やその男のピアノの旋律を夜に願うのだ。昼のあいだ老爺はひとり、窓を開けて川の流れを見つめ続けている。病に朽ちかけていることも、その足の痛みも、失ったことを罵倒して去った家族とまだ温かな抱擁と言葉が交わされた頃の想い出にも、老爺を助けてやろうとやってくる役所や施設の職員や看護師たちにも、ただ飽いている。彼のなかの感慨は乾いている。

陽光に輝く川面も、川面をすれすれに舞い降りてくる鳥がまた高く舞い上がる飛翔も、川の流れる水音も澄んだ空さえ、ただただ過ぎ行く時の流れでしかなかった。

しかし、夜が来る。

すると川面が暗く沈んで沢山のものを運び、それを老爺に流し込んでくる。失ったすべてのものがやってくるのだ。それは身体をどれだけ丸めても避けられず、老爺の乾いた感慨を濡らしていく。
老爺は薄い壁を叩く。そうすると盲の男の演奏が夜の多くの音を、老爺の噎び泣く声も包みこんで宵闇を震わせる。かつて老爺の店に響いていた旋律を、自分にとってもピアノしかなかったかのようにその旋律を夜に願うのだ。

二人は言葉を交わさない。
しかし言葉にならない語りかけが
薄い壁越しにあった。

流星の群れが夜空に尾を引き、多くの人々が空を眺めて手を広げ自分のちっぽけさを証明するのに夢中になっている夜にも、それは変わらない。

橋を渡っていた少年は夜風の中に混じる旋律を耳にとめた。少年もまた流星の群れを見上げない者のひとりであった。しかし、彼には未来があり水面をすれすれに舞い降りた鳥がまた高く舞い上がり飛翔するように旋律から遠ざかっていくのだった。その先の光を目指して。


※これは二十年前に書いたものです。当時の作品は全て燃やしたつもりでしたが、ほんの一部残っていました。二十年前は僕は少年だった。しかし、今はどうだろう。盲の男か、果ては老人だろうか。どんな心境だったのかも思い出したくもない。

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