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こちふかば、ねこ

都会の弱小個人事業主が狭い賃貸の室内飼いで猫を迎えるのは覚悟がいる。
特に「途中から新たに飼育数を増やす」場合、よほど何も考えてないか、よくよく考えた上でないと決断はできないだろう。
何しろ室内飼いは逃げ場がない。
先住猫と新入猫との相性が極端に悪かった場合、
猫と人合わせ全ての居住者が閉じられた空間の中、不穏な気持ちで日々を過ごさねばならないのだ。

上京し、1匹の猫と暮らし始めはや4年。
2匹めを迎えるに踏み切れた事の理由の一つは、先住猫〝そよ〟に対する信頼だった。
この猫は出会った日から一度として誰かを威嚇したり引っ掻いたり噛んだ事もない。
穏やかで思慮深く冷静な判断力もある。
たまにしか会わない私の妹からも「そよは人の心を読む天才だ」と太鼓判を押されるほどで、少なくとも、自分が一番・我儘タイプの猫ではない。
新入りが来ても、最初は威嚇したとて時間をかけて「それなりに優しく」接してくれるのではないかー。そんな期待があった。

梅の花があちこちで咲き誇るの3月の半ば。
生後6ヶ月の新入り猫が保護主の元からうちにやってきた。
7.5kgあるビッグな先住猫の半分以下の体重だ。
生物的には半年経てば大人の仲間入りかもしれないが、巨大な猫を見慣れた我が家の目線では、新入りはまだ小さな仔猫にも見える。

果たして2匹の関係はどうなるのか。
結論から言えば、そよは「それなりに優しく」接するような猫ではなかった。

新入り猫は、元野良猫だ。
駅の飲食店のゴミ置き場の様なところに身を潜めつつ、廃棄食品を漁りながら、たった1匹で生きる親無しの子猫ー
通りがかり偶然発見した人に保護されたらしい。
その様に生まれ育ちが過酷なだけあって、彼は食への執着が凄まじかった。
小さな体で自分の皿の食事を猛スピードでガツガツとたいらげると、当然の様に先住猫の皿を狙いにかかる。
今、奪える食料を奪わねば明日の保証はない。そんな危機迫る形相だ。

ここでご想像頂きたい。
突然テリトリーに現れ自分の食事までも横取りする小さな若輩猫に対し、先住猫はどう行動するだろうか。
激怒。威嚇。ぶん殴る。これが普通だろう。
或いは余裕のある穏やかな性格の猫なら、すっと身を引いて飯を譲るかもしれないがー

そよは、飼い主の想像を超えた行動に出た。
目の前で自分の食事を奪い貪る無礼極まりない小さな新参者に対しー
その大きな先住猫は、そっと背後から身を寄せて
仔猫の頭の辺りをペロペロと愛しむように舐め始めたのだ。

「そんな馬鹿な....」
異様な光景に目を見張る。
突如縄張りに現れ飯を奪う無礼者に、先住のオス猫が真っ先に取る行動としてイメージがかけ離れている。
無条件に優しく面倒を見る猫もいるだろうが、それは多くの場合、我が子を見守る母猫ではないだろうか。

どんな気持ちでそうしたのかは、そよ本人にしか分からない。
極限までお腹を空かせ死に物狂いで生きてきた仔猫の人生そのものを、慈しみ労っているのだろうか...とあれこれ想像してしまうが
きっと、もっと直感的に彼の本能が「怒るな」「優しくしろ」「守れ」と命じたのだろう。

「それなりに優しい」なんて生半可なものではない。そよは、とびきりの慈愛心の持ち主であった。

同じ保護猫の出身ではあるが、2匹は全くタイプが異なる様だった。
しかしながら、貪欲で自由奔放な新入猫も、決して馬鹿な訳ではなかった。
最初の数回は家具で爪を研いだりもしたが、 
そよが専用の段ボール爪研ぎを使う姿を見れば、慌ててそれを真似し
そよが専用のマグカップで水を飲んでいれば、同じ様にカップで水を飲む。
トイレも保護先から譲り受けた仔猫用のがあるのに、そよのトイレを共有したがった。
また、猫の爪切り・目やにの掃除など必要な身繕いに人間が手を出しても、意外にも新入りは暴れる事なく、じっと終えるのを大人しく待つのだ。
粗野な育ちながら、この家の猫として一生懸命小さな頭で考え新しい生活に馴染もうとしている様だ。

そんな新入り猫を疎ましむどころかお気に入りの「ねこちぐら(自室)」ですら譲ってしまうのが、先住猫のそよであった。
体も心も大きいとはこの猫の事だろう。
彼にとっても同種の仲間が出来たのは歓迎すべき事だったらしい。
追いかけっこしたり戯れあったり、2匹で寝ていることもある。
毛繕いについては、そよの方から一方通行ではあるが、その気持ちは伝わっているのではないかー
と記事を書いている正に最中、ついに2匹がお互いに舐め合っているのを目撃してしまう。
予想よりもずいぶん早く彼らはお互いを家族と認めた様だ。

新入りは、人間に対しても全力で甘えてくる様になった。とかく距離を縮めたがる猫だ。
チャンスがあれば膝に乗り、まるで犬のように私の衣服を舐めては誠意だか好意を示そうとしてもくる。
食への貪欲さは相変わらずだが、少しずつ「やっちゃいけない事」を覚えつつある...気がする。

春の訪れと共に現れた、そのキジシロ柄の猫を
〝こち〟と名付けた。
菅原道真の歌にも登場する、風だ。
こちふかば にほひおこせよ うめのはな
実家で長年使っていた皿に書いてあった為
幼い頃から馴染み深いこの歌に思い入れがあったかといえば全くそうでもないのだがー 
風の名を調べているときに目に留まった。

東風(こち)が吹くようになると寒気が緩み
春を告げる風として人々に喜ばれたそうだ。

春よこい 早くこい
おんもへ出たいと泣いている
童謡のみーちゃんに感情移入してしまうのは
昨今の自粛な日々で自由に出歩けない事ばかりではないが
春は美しく明るく絶望的で危なかしい
やりたいこと やってはならないこと
行けない場所 会えない人 会えなくなった人
思考がめぐり夢にまで出た朝は起き上がれないほどに体力を消耗するが

風の名前の猫たちは知るよしもなく
部屋の隅から隅までを全力で駆け抜け
網戸から陽の光を浴び風を感じ鳥の声を聞き空を眺め
限られた世界でそれなりに楽しそうに生きている。

彼らが走った後には、ひっくり返ったゴミ箱や棚から落ちた本などが転がっているが、私はそれが嬉しい。猫が1匹の時はなかった変化だ。

本気で遊べる相手がいること。
猫のQOL(クオリティオブライフ)の向上が図れた気がして、微笑みながら散乱した部屋を片付ける私がいるー 

こちふかば、春である。

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