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連載「『公共』と法のつながり」第7回 弁護士と学ぶ刑事手続の基礎

筆者 

大正大学名誉教授 吉田俊弘(よしだ・としひろ)
【略歴】
東京都立高校教諭(公民科)、筑波大学附属駒場中高等学校教諭(社会科・公民科)、大正大学教授を経て、現在は早稲田大学、東京大学、東京都立大学、東京経済大学、法政大学において非常勤講師を務める。
近著は、横大道聡=吉田俊弘『憲法のリテラシー――問いから始める15のレッスン』(有斐閣、2022年)、文科省検定済教科書『公共』(教育図書、2023年)の監修・執筆にも携わる。


【1】はじめに:弁護士から学ぶ刑事裁判の基本

 読者の皆さん、こんにちは。第7回と第8回は、「刑事法と刑事手続」をテーマに取り上げます。新科目「公共」の学習指導要領は、法に関わる現実社会の諸課題の解決に際し「適正な手続き」に則って解決することを明記しています。しかし、紛争等の解決に際してなぜ「適正な手続き」が求められるのか、その「適正」とは何を意味するのか、これを理解するのは決して容易とはいえません。今回、取り上げる「刑事手続」についても同様であり、指導する先生からみても、「刑事手続」の基本原則や考え方を生徒に的確に説明するのは大変かと思います。

 そこで、今回は、私が1人で論じていくという、いつものスタイルをとらずに、実際に刑事弁護の現場で活躍されている戸塚史也弁護士をゲストに招いて、お話を伺うことにしました。「公共」の教科書に書いてある基本的な事項であっても、ここではもう少し深く掘り下げ、ご自身の経験を踏まえながら語っていただく予定です。

 ご参考までに、戸塚さんのプロフィールを簡潔にまとめて下記に掲載しておきますが、私との関係でいえば、戸塚さんの高校3年時の担任として、また、公民科担当教員として、さらには中学・高校のテニス部の顧問としても接点があったことを付記しておきます。

【戸塚史也弁護士 プロフィール】
1991年生まれ。Kollectアーツ法律事務所所属。日本弁護士連合会刑事弁護センター法廷技術小委員会幹事、東京弁護士会刑事弁護委員会委員。
豊富な刑事弁護の経験を有し、警察の捜査の違法を認めた無罪判決や高等裁判所での逆転無罪判決など複数の無罪判決を獲得している。

 今回は、〈Q(吉田=囲み部分) & A(戸塚) 〉のスタイルで進行していきます。いつものようにがんばってまいりましょう。

【2】刑事裁判の特徴

Q1.民事裁判と刑事裁判の違いは何か?

 戸塚さん、こんにちは。お久しぶりです。今回は、本連載のゲストとしてお迎えすることができ、大変に嬉しく思っています。
さて、今回は、刑事裁判や刑事手続(註1)を取り上げることにしました。その理由は、法に関連する学習の中でも刑事裁判や刑事手続をきちんと理解し、中高生に説明することがきわめて難しいからです。このテーマに関連する一連の法律知識を把握するのも大変ですが、刑事手続に関する基本原則をどのように指導し、法的な見方や考え方を身に付けてもらうにはどうしたらよいのか、悩んでいらっしゃる先生が少なくないように思うのです。

 そこで、本日は、刑事弁護の分野で活躍されている戸塚さんにお願いし、刑事手続に関する基本原則や大切なポイントを取り上げ、解説していただくことに致しました。進め方としては、私から、刑事手続の基本原則や法的な概念の根っこの部分が理解できるように、できるだけプリミティブ(素朴)な問いかけを行い、戸塚さんからお答えいただくというスタイルで進行したいと考えています。それでは、どうぞよろしくお願いします。

 では、本論へと進みましょう。戸塚さんもご存じの通り、私は筑波大学附属駒場中高等学校に勤務していた頃、授業の一環として裁判の傍聴を企画し、毎年、東京地方裁判所に出かけていました。そのとき、気になったのは、民事裁判と刑事裁判では、法廷のカタチや登場するアクター(登場人物)に違いがあることです。下の法廷内配置図を見てください。

 どこに違いがあるかというと…、Aの民事裁判は、訴える側の原告と訴えられる側の被告、両者の間に立って裁定する裁判所という3つの関係によって成り立っています。この場合、審判者である裁判所が中立・公平な立場に立つという仕組みが比較的わかりやすく学ぶことができるように思います。

 これに対し、Bの刑事裁判は、捜査過程で警察が関わっていますし、裁判では、検察官が被疑者を起訴し(被疑者は起訴されると被告人と呼ばれます)、裁判所が審判者として裁定します。不思議に思うのは、民事裁判の場合は、被害者が原告となって損害賠償を請求したりしているのに、刑事裁判では、被害者やその家族が原告となって加害者を訴えるような仕組みになっていないという点です。

 同じ裁判なのに、この違いはどこからくるのでしょう。民事裁判と刑事裁判では、なぜこんな違いがあるのでしょうか。とくに刑事裁判において、被害者やその家族ではなく、検察官が起訴する仕組みになっているのはなぜでしょうか。

A1.

 民事裁判は、私人対私人の争いごとを解決するもので、常に国家が乗り出して裁判で決着をつける必要はありません。当事者の合意が成立すれば、判決で黒白がつく前に和解をして裁判を終らせることもできます。

 これに対して刑事裁判は、国家が刑罰を科すかどうかを判断する裁判です。刑事手続においても、必ず一方の側に国家がいて、国家対私人(犯人と疑われている人)の関係で手続が進められます。刑事事件の犯人と疑われた被疑者は、国家機関である検察官や警察の捜査の対象となりますし、検察官が被疑者を裁判所に起訴するかどうかを判断し、裁判でも検察官と被告人が対立当事者となります。そういう意味で、刑事裁判は、国家対私人たる被告人という構造になっているということができます。

 日本ではもちろん「私刑」は許されていません。もし「やられたらやり返す」ということが法的に認められるということになると、結局、腕力や財力の強さによって結果が左右されることになってしまいます。例えば暴行を受けたからといって、正当防衛が成立するような緊急状況下のやむを得ない場合を除いては、やり返してはいけません。犯罪が起きた場合には、それに対して、法の手続に則って国家が刑罰を科す、それによって規範、秩序を維持しようとするのが、日本の法制度であり、そのための手続が刑事裁判です。

 犯罪に対して、被害者の財力の有無などに左右されることなく、国家が刑罰を科すことによって規範を維持する、そのために、捜査機関が国のお金を使って捜査をして、検察官が公益の代表者として起訴、不起訴を判断するという仕組みになっています。被害者の感情を満足させるために国家が裁判に乗り出し刑罰を科しているわけではない、という点も刑事手続の学習において確認しておきたいところです。

 なるほど。民事裁判と刑事裁判の違いが少しずつわかってきました。裁判の構造をアクターに即してきわめてシンプルに図解すると、こんな感じでよいでしょうか。

 「やられたらやり返す」というのは人気ドラマの決め台詞としても用いられ、覚えている人も多いでしょう。でも、刑事裁判は、「やられたらやり返す」という被害者の報復感情の延長線上に位置づけられているわけではないようです。裁判の結果、犯人が国家により処罰されるなら、それによって被害者の感情が満足させられることはあるかもしれませんが、国家は被害者のためだけに刑罰を科しているのではありません。市川正人ほか『現代の裁判』(有斐閣)という本には「刑事手続は、個々の犯罪の被害者の権利・利益の救済を直接の目的とした制度ではない」(註2)と書かれていました。刑事事件では、捜査の段階から国家機関が登場し、刑事裁判においては国家対私人という構造になっている…、刑事事件において、必ず一方の側に国家が登場してくる意味を「公共」の授業でも考えてみたいと思います。

【3】刑事手続上の基本的人権

Q2.憲法や刑事訴訟法が被疑者や被告人の地位の強化を図っているのはなぜか?

 そこで、次の質問に入ります。犯罪が起こると、早く犯人を見つけてほしい、身柄を拘束し、罰してほしいと思う人は多くいるのではないかと思います。凶悪犯罪のニュースに触れたりすればなおさらです。ところが、憲法や刑事訴訟法は、被疑者や被告人の地位の強化を図り、捜査や処罰の必要性とのバランスを確保しようとしています。この点、もどかしさを感じている人も少なくないように思います。そこで伺いたいのは、憲法や刑事訴訟法が、被疑者や被告人の権利を守るための手続を詳細に定めている理由です。法が被疑者や刑事手続きを詳しく定め、被疑者や被告人の権利を保障しているのはなぜでしょうか

A2.

 憲法や刑事訴訟法が手続を詳細に定めているのは、国家権力が行き過ぎた行為をすることを縛るためです。

 刑事手続というのは、人を逮捕したり、強制的にプライバシー空間を捜索して物を押収したり、市民の重大な権利、利益を制約するものですから、濫用された場合には大変なことになります。しかも、犯罪をしたと疑われた人や捜査機関がこの人が犯人だろうと考えた人に対しては、多少行き過ぎたことをしてもいいという風潮、雰囲気になりがちです。そこで行き過ぎたことが行われないように、市民の自由が不当に侵害されないように、法が手続を規定しているのです。行き過ぎた捜査は、過酷な取調べによる虚偽の自白の強要など、真実の発見をかえって妨げることにもなりかねません。正確な刑事裁判を実現するためにも、手続の適正さは必要です。

 国家権力の行き過ぎた行為を縛る…、ここで先ほどの国家対私人という構造が出てくるのですね。国家は刑罰権を独占し、犯罪を捜査する権限も国家の捜査機関が握っています。この権力が、いくら捜査のためとはいえ、自宅などのプライバシー空間に勝手に侵入してきたり、長期間にわたって私人の身柄を不当に拘束したりすると、1人の私人の人権なんて吹き飛んでしまいます。このことをほかならぬ自分自身の問題として想像してみると、その大変な状況がよくわかるように思います。いまのお話しで憲法や刑事訴訟法が刑事手続を詳細に定め、そこに被疑者・被告人の権利について詳しく書いている理由がより具体的に見えてきたようです。

Q3.戸塚弁護士にとって最も大事にしたい規定は何か?

 憲法や刑事訴訟法は、弁護人依頼権、拷問の禁止、自白のみによる処罰の禁止など、被疑者や被告人の権利を守るための手続を詳細に定めています。戸塚さんは、これまでの刑事裁判の経験から、憲法や刑事訴訟法などが定める権利や規定のうち、どんな権利や規定が大切だと考えていますか。この点、興味があるので聞いてみたいと思っていました。簡潔に答えるのは難しいかもしれませんが、ぜひ聞かせてください。

A3.

 適正手続を定めた憲法31条以下の規定とそれを受けた刑事訴訟法の規定はそれぞれとても重要です。どれも公正な刑事裁判のために欠かせないものです。

 でも、あえて1つだけ一番大事な規定をあげるのであれば、刑事手続についての規定ではないのですが、個人の尊重を定めた憲法13条を挙げたいなと思います。

 被疑者、被告人であっても、法の定める制限を除いては、人権、自由が保障されなければいけません。被疑者、被告人も、私たちの社会の一員です。

 人間には様々な面があります。目の前で会えば、犯罪をしてしまった人だって、いい面はあるのです。私自身は、これまでたくさんの被疑者や被告人と出会ってきましたが、いいところが1つもないような被疑者や被告人にあったことはありません。尊厳を持った、私たちと同じ対等な個人なのです。仮にいいところが1つもない人がいたとしても、その人の人権を認めることができることがその社会の成熟度を示しているのではないでしょうか。そのことをみんなが理解していなければ、手続法の運用も形骸化してしまうのではないかと思います。

 憲法13条の「個人の尊重」の規定が刑事手続全体の理念となり、その根幹を支えているということでしょうか。この規定は、どうしても理念的かつ抽象的に捉えてしまい、「公共」の授業で説明するときにも具体的なイメージをもって説明するのが難しいところです。でも、刑事手続の観点から捉え直してみると、その意義がくっきりと浮かんでくるようです。それに加えて、刑事事件に取り組む弁護士の魂を垣間見ることができたようなお話を伺うことができ、感銘を受けました。
 

Q4.黙秘権はなぜ存在するのか?

 ところで、「公共」の授業でいえば、黙秘権をどのように授業で取り上げるのか、これが難しくて困っているという先生方の声を聞くことがあります。実際に、刑事裁判を傍聴すると、裁判長は、被告人に向かって話したくないことは話さなくてもいいという黙秘権と、法廷で被告人が話したことは被告人に有利にも不利にも働く証拠になることを説明しています。そのとき、傍聴していた高校生は当たり前のように裁判長の言葉を聞いているのですが、後になってから、「犯罪をおかしていないなら堂々とやっていないと言えばよい」と述べたり、「黙秘しているなら、それ自体が真犯人であることの証拠のように見えてきます」と言ったりしています。そこで、あらためて伺いたいのですが、刑事手続において黙秘権を保障することの意義は何でしょうか

A4.

 黙秘権を保障することの意義は、それだけで1時間は語れるようなテーマです。

 まず、「犯罪をおかしていないなら堂々とやっていないと言えばよい」というのは、現実には難しいことです。

 刑事手続の場面とは違いますが、私には1つ辛い思い出があります。高校の体育の授業中に、いきなり教師に呼ばれて、他の生徒たちから少し離れたところに連れていかれたことがありました。そこで教師にいきなり、「ガム噛んでただろ」と強い口調で言われたのです。確かにその日は鉄棒の授業でつまらないなとは思っていましたが、私は、本当にガムを噛んでなどいなかったので、噛んでいませんと言いました。そうしたら、教師は、「今呼ばれて飲み込んだんだろう」と問い詰めてきました。私が、飲み込んでなどいないと言っても、教師は嘘つくなよと責めてきました。押し問答をしているうちに、当時黙秘権など知らなかった私は、最終的に「すみません」と謝って、その場から解放されました。そのとき本当に悔しかったのを覚えています。

 逮捕された被疑者に対して、連日、長時間に及ぶ密室での取調べが行われる中で、虚偽の自白がなされ冤罪が生まれてきたことは、歴史からも明らかです。自分を疑う取調べ官に対して、やっていないと説得することなど、現実には困難なことです。人間には当然記憶違いや言い間違いもあり、そういう矛盾を後で指摘されて冤罪に問われてしまう恐れもあります。「やってないなら正直に話すべきだ」という道徳観が広がっていますが、現実には酷な、誤った認定につながりかねないのです。その意味で、黙秘権というのは、真実を守るためにも必要なものです。 

 では、本当は犯罪をおかしている人が黙秘をすることは許されるのか。この場合も、黙秘権が保障されていると考えるべきです。まず現実的には、その人が犯罪をしたかどうかは、刑事裁判の結果として判断されるもので、その前に「あなたは、本当は、犯罪をしているから黙秘権はない」などと決めつけることはできません。より実質的な理由としては、個人の尊厳、人格権が根拠となると思います。たしかに道徳的には、罪をおかしてしまった人は自ら進んで罪を認めるべきとはいえるかもしれません。しかし、最初に話したように、刑事裁判は、国家が刑罰を科すかどうかを判断する場であり、国家対個人の場面になるのです。国家の刑罰権にさらされた時、特に日本では死刑もまだありますから、自ら進んで刑罰に服するよう供述を強制することは、個人の尊厳、人格を侵害するものだと考えられます。そこは、国家の側がきちんと捜査をして、本人の供述以外で証明できるかが判断されるべきだということになるのだと思います。黙秘権については、これから法学を学んでいく方は、是非とも考え続けてほしいテーマです。

 お話を伺い、自分の道徳観にだけとらわれていると、なかなか黙秘権の本質に迫っていくことはできないなと感じました。それから、自分が知っていることを正直に語ったとしても、人間には記憶違いなどがあり、それがかえって誤った認定につながりかねない、というようなお話は、そんな視点から問題を捉えたことがなかったので、大きな衝撃を受けました。そんな意味でも、多様な視点から問題を捉え、本当に深い思考を必要とする、授業で取り上げるにふさわしいテーマだと思いました。
 

【4】犯罪事実の証明責任とその水準

Q5.「疑わしいときは被告人の利益に」という原則の意味は何か?

 それでは、少し視点を変えて質問させてください。「疑わしいときは被告人の利益に」という言葉は、よく用いられ、授業でも教えられることが多いフレーズです。でも、「被告人が疑わしいのに無罪にするのはおかしい」と考える高校生がかなり存在するというのも事実です。とくに、この「疑わしい」ということの意味、つまり「何が疑わしいのか」についてきちんと理解している人は少ない、というのが私の見立てです。多くの人が知っている言葉だからこそ、その意義をきちんと捉えてほしいと思います。そこでぜひ、「疑わしいときは被告人の利益に」という原則の意味について、説明をお願いします

A5.

 ここで「疑わしいときは被告人の利益に」というのは、被告人を有罪とすることに疑いがあるときには、その不利益になるような判断(有罪判決)をしてはならない、という意味です。「疑わしい」とは、被告人が疑わしいということではなく、検察官による十分な証明がされているか疑わしいという意味です。証明されたと言い切れるか、どっちともつかないときに、どちらに有利に判断するかということを述べた原則です。

 被告人が犯人であるかという点について、確かに被告人は怪しいけれど、証明されていると言えるかというと、どっちとも言えないな、証明されたと言い切れるかは疑わしいな、という時に、検察官に有利に判断すれば有罪となります。逆に、「疑わしい時は被告人の利益に」という原則に従えば、無罪となります。

 刑事裁判では、被告人が無罪であることを証明しなければならないのではなく、検察官が、被告人が有罪であることを証明できたかが問われますそれができていると言えなければ、被告人は無罪という結論になるということです。黒であれば有罪、白であれば無罪なのは当然ですが、黒とは言い切れないグレーであれば、無罪にしなければいけないということです。

 国家は、捜査機関の豊富な資源を使って組織的に捜査をして、強制的に逮捕できるし捜索・押収もできる。これに対する被告人はあくまで個人です。被告人が無罪を証明できなければ有罪となるというのでは、市民の自由は簡単に奪われてしまいかねません。ですから、このような原則が重要なのです。この原則は、私たちが社会で安心して自由に暮らすために必要な原則であると言えると思います。

 刑事裁判では、被告人を有罪とするための事実を検察官が立証しなければならないのですね。「疑わしいときは被告人の利益に」という言葉の「疑わしい」とは、被告人が怪しいという意味ではなく、検察官による証明が「疑わしい」のであって、有罪の立証ができていなければ被告人を有罪とすることはできない、ということをきちんと理解しておきたいですね。それから、被告人自らが自身の無罪を立証する責任を負っているわけではない、ということも把握しておきたいところです。 

Q6.「合理的な疑いを超える証明」とは何か? 

 近年、法教育が普及し、弁護士など法の専門家の皆さんが法的な知識を授けてくださるようになりましたので、学習の水準も少しずつ高度になってきているように思います。その1つに、「合理的な疑いを超える証明」(註3)というものがあります。これは、一般には馴染みのない言葉なのですが、刑事裁判の被告人に有罪判決を下すためには、「合理的な疑いを残さない程度」の証明が求められる、という意味で用いられています。この要求を満たせないときは「犯罪の証明がない」ものとして無罪の判決をしなければなりません。

 理屈ではわかったような気がするのですが、刑事裁判において、検察官は具体的にはどの程度のレベルで証明すればよいのでしょうか。他方で、弁護人は、検察官の証明に対し、どのように対峙するのですか。

A6.

 先ほどは、立証責任の所在、証明すべき側が検察官なのか被告人なのかという問題でした。今度は、証明基準の問題です。どの程度まで証明されれば「証明された」と判断してよいかという問題になるのです。

 不確かなことで人を処罰してはいけない、刑罰という重大な不利益を科してはいけないことは当然です。そこで刑事裁判では、「合理的な疑いを超える程度の証明」が求められます。もう少し平易な言葉を使えば、証拠を検討した結果、常識に従って判断して間違いないといえるか、という説明になります。

 弁護人としては、間違いないとまでは言えないな、という程度に疑いを生じさせればいいわけですから、この証明基準は、弁護側にとって本来大きな武器ではあります。

 ただ、合理的な疑いを差し挟む余地がないかどうかということは、判決ではどうとでも説明できてしまう部分はあります。判断をする裁判官も人間ですから、被告人が犯罪を行ったことが間違いないと考えるかというところは、裁判官によっても基準に多少のばらつきはあると思いますし、判断の過程では、結局のところ、どちらの言い分が信頼できるかという衡量の要素も大きいと思います。
弁護人としては、検察官の立証のここがおかしいという部分的な指摘に留まらずに、アナザーストーリー、真実はこうですという、事件の全体を説明できる別の物語を提示できるように証拠を検討して主張を組み立てるべきだと考えています。

 有罪が確定されるまでは無罪と推定される「無罪の推定」の原則のもとで、刑事裁判の被告人に対し有罪判決を下すためには、その被告人が犯罪を行ったことについて合理的な疑いを差し挟まない程度の証明が求められる、というわけですよね。検察官にはかなり厳しい証明責任になるように感じます。しかし、どのようなレベルでの証明が必要かどうかは抽象的に頭の中で考えるだけではわからないので、授業では模擬裁判などの実践を通して考えてみることが必要かもしれません。弁護士などの法律家の指導が得られるならば、そのような授業にも取り組んでみたいですね。
 

【5】おわりに:「常識の逆転現象」に向き合い、考える

 今回は、「民事裁判と刑事裁判の違いは何か?」という論点から始まり、刑事手続の基本原則や基本的な見方や考え方を取り上げ、考察してきました。その過程で気づいたのは、刑事手続に関係するルールや権利の中には、多くの人の常識とは異なるものがあることです。黙秘権などはその典型的な例かもしれません。多くの人が「真実を話すべきだ」という道徳的義務に従うことが正しいと考えているときに、あえて黙秘権を持ち出すことの意義が問われるわけです。

 刑事訴訟法の研究者である笹倉宏紀さん(慶應義塾大学教授)は、「黙秘権をどう教えるか」という論文において、「正解志向からの脱却」、「高校教員の役割」、「素材の選び方」について考察を加え、最後に黙秘権の教え方について提言をしています(註4)。全体が知的刺激に満ち溢れた論考の中で、とくに印象に残ったのは、「常識の逆転現象」ともいえる黙秘権の教育においては、黙秘権に関わる知識を天下り式に与えることではなく、教師が生徒とともに対等の立場で一緒に考えることの重要性です(註5)。実は、今回の戸塚さんとの対談も、刑事弁護の専門家である戸塚さんに対し、教育サイドの私からプリミティブな問いを投げかけ、その応答を通して一緒に考えていこうという試みでありました(註6)。この点、「公共」の授業においても、生徒の素朴な疑問に向き合いながら生徒と教師が一緒に考えていくような方向性が追求されて良いのではないでしょうか。いつか、そのような実践を持ち寄り、法の専門家と先生方、高校生がともに語り合えるような場を持つことができれば素晴らしいのではないかと考えてみました。

 次回は、今回の戸塚さんの解説をふまえ、その応用として刑事手続に関係する演習問題にもチャレンジしてみましょう。また、「法学部で学ぼう」プロジェクトとしては、戸塚弁護士との対談というめったにない機会を利用して、戸塚さんが高校時代にどのような学びを経て法学部に進学したのか、法学部での学びや経験、弁護士志望へのきっかけなども紹介します。それでは、引き続きよろしくお願い致します。

【註】

  1.  刑事手続は、裁判だけでなく捜査や刑の執行を含めた刑事事件を解決する司法手続全体のことを意味しています。また、刑事裁判は、刑事手続のうち裁判所で行われる起訴から判決までの手続のことを指しています。

  2.  市川正人ほか『現代の裁判〔第8版〕』(有斐閣、2022年)29頁参照。

  3. 法教育の実践と研究に弁護士などの法律の専門家や法学者が参加するようになってから法的な学習内容の水準が高度になってきています。例えば、「合理的な疑いを超える証明」というような概念は、1990年代までの中学校や高等学校の教科書や参考書にはほとんど記述がみられませんでした。しかし、2004年に法教育研究会がまとめた「報告書」(中学校社会科公民的分野における「司法」に関する教材)の中に「合理的な疑いを超える証明」に相当する記述が登場してきます。具体的には、「検察官の負う立証責任の重さ」を説明する際に、「刑事事件が、人を処罰するという重大さから、裁判官が合理的な疑いを差し挟む余地がないと信ずる程度まで、検察官は事実を証明しなければならない」という記述を見出すことができます。法教育研究会『我が国における法教育の普及・発展を目指して――新たな時代の自由かつ公正な社会の担い手をはぐくむために』(2004年)111頁を参照してください。オンラインでは、下記のURLから読むことができます。https://www.moj.go.jp/content/000004217.pdf

  4. 笹倉宏紀「黙秘権をどう教えるか」橋本康弘ほか編著『日本の高校生に対する法教育改革の方向性――日本の高校生2000人調査を踏まえて』(風間書房、2020年)157頁以下。刑事訴訟法の研究者である笹倉宏紀さん(慶應義塾大学教授)は、「刑事訴訟について『罪を犯し人を裁く』手続だ、『犯罪者を処罰するための』手続だと教えている高校教員は少なくないと思われる。しかし、この表現は『法教育』におけるそれとしては失格である」(178頁。原文では太字箇所に圏点)と注意を促しています。笹倉さんが強調している「罪を犯し人」「犯罪者」に注意して、なぜこのような表現が「法教育」の上で「失格」となるのかを授業の中で考えてもらってもよいでしょう。

  5. 笹倉・前掲註4)。とくに181頁以下。笹倉論文は「黙秘権をどう教えるか」というタイトルがついていますが、黙秘権の教え方のみならず、法と教育の全般に関わるさまざまな論点に波及していくような鋭い見解が示されています。刺激的な論考であり、法と教育に関する視野を広げ、深く考えていくためにもご一読をお薦めします。

  6. 同様の問題意識のもとで、憲法分野においてプリミティブな疑問を大切にしながら掘り下げていくスタイルの書籍としては、横大道聡=吉田俊弘『憲法のリテラシー――問いから始める15のレッスン』(有斐閣、2022年)があります。手前味噌で恐縮ですが、紹介をさせていただきました。

【連載テーマ予定】

Ⅰ 「契約」の基礎  〔連載第1回~第3回〕
Ⅱ 「契約」の応用:消費者契約と労働契約を中心に  〔連載第4回~第6回〕
Ⅲ 「刑事法と刑事手続」の基礎と問題提起
Ⅳ 「憲法」:「公共」の憲法学習の特徴と教材づくり
Ⅴ 「校則」:身近なルールから法の教育へ

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