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脱出ゲーム:観客・監督不在、脚本なしのエンドレス・ロールプレイ劇場からの脱出

演劇で大切なのはセリフではない。
飲み込まれた言葉、脚本に書かれないこと、沈黙、一瞬の間。
”本当に大切なのは、目に見えないところなんだよ。”
言語化も、記録も、後世に残すこともできないところ。
最も価値があるのはそこだ。

人生は茶番劇なのか、茶番劇が人生なのか

いつからだろう、ずっと演劇の中にいるようだった。
誰に教わったわけでもないのに、職業、所属、そういったものによってとるべき態度が変わることがわかっていて、どんな場面でも立場とキャラによってどんな態度をとればいいかが分かっていた。
中学生なら中学生らしく。
社会人なら社会人らしく。
サラリーマンらしく擬態すれば内定をいただけたから、そのまま飄々と似非サラリーマンをしてきた。

「らしく」
それは、誰も直接は教えてくれない暗黙知のルール。
「らしく」が分からないやつは、怒られたり居残りさせられたり指導されたり就活に苦しんだり、他人からの干渉や時間拘束や障害物が多くてかわいそうだな、なんて思いながら、時間を費やして反抗しても結局理解されず、あるいは理解されたって認めてもらえず結局時間の無駄になるから、と自分の時間を守るためにひたすら擬態していた。
それらしくあること、流れにのることが、障害物と消費時間を最小化できる最良の方法なのだ。

それは日本文化の核ともいえるもの

言語化されない「それらしさ」「流れ」。
目に見えない部分に美が宿るのが、日本文化の乙なところ。
それゆえ日本社会には、明文化されないルールが山のようにある。

たとえば何か少し一般的でない許可をもらう時。
申請様式が公開されているからって、いきなり申請書を出してはいけない。
まずはしかるべき窓口に申請をしたい旨を申し出る。
それから担当者を紹介してもらい、話をする。
そして担当者と相談しながら書類を作成したりして、仮提出。
それで内諾がもらえたらようやく申請ができる。
申請書を受け取ってもらうまでが大変で、受け取ってもらえれば早い。
(その後、決定権を持つ人から指摘事項が出ることもあり、是正して担当者へ持って行って…云々はさすがに省略。)
そして、最後に残るのは、美しい許可書のみ。
だけど結果だけを見た人が、これを出せばいいだけかと適当に書いてボスに直接突きつけると、最悪心象を悪くして拒否されることもある。

許可を請う上で大事なのは、申請書ではなく、プロセスであり流れ。

格式高い料亭に行くとか、誰かを紹介してもらうだとか、何か物事を進めようとするだとか、そんな時も同様。

別に誰も意地悪してるわけでも、いたづらに相手の時間を浪費させたいわけじゃない。「流れ」こそが最重要で、それぞれが役割を果たしているだけ。
「暗黙知の中で与えられた役を果たす」
日本社会はそれで形成されていて、うまく回っていた。

組織は形骸化したのではない、形骸こそが組織の本質だったのだ。

だから、人が変わっても、劇は続く。
延々と続く。
監督も脚本も観客もないのに。
いくらトップが変わったって変わらない。
歴史は繰り返す。蕩々と、寸分違わず。
それぞれが、立派にお役目を果たしている限り。

代表や頭が、「お飾り」「抽象的存在」であるのは、おそらく古来から続くお家芸*。
代表宛の文書も、実際はその裏で実務部隊が処理して、代表名で出す。実働部隊がごりごり考えて計算して議論しまくって出した方策を、代表の権威で押し通す。
それが、暗黙知のルールだ。言っちゃったけど。
もしかしたら、〇〇の改新の多くも、〇〇自身によるものじゃないかもしれない。

正面と裏側で、見えるものが違う世界。
見かけと実体が違う世界。

どうだろう。
美しくもあり、愚かしくもある。
それが、日本だ。

でもそろそろ舞台から降りませんか?

無限ループもそろそろ限界だと思うんです。
何だかとっても馬鹿馬鹿しくなってきましたし。
人生の全てをロールプレイで終了する気ですか?
ずっと踊ってるのはしんどくないですか?
舞台裏か、楽屋で休憩しませんか?

あるいはいっそ、劇場を飛び出しませんか?
近くのカフェで、あなたをお待ちしております。 ほかる 


*参考文献:司馬遼太郎「殉死」

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