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党派性の本質

キリスト教的信条でも、政治信条でも、僕個人としては、同意不同意と好悪は別だ。

1.同意するし好き
2.同意するけど嫌い
3.同意しないけど好き
4.同意しないし嫌い

この4通りは全部ある。自分は福音派に同意する。しかし過激なまでに筋を通す人は同意するかしないかに関係なく好きだ。

そして、好き嫌いに関係なく、総ての人を愛すべきだと考えているし、愛するのが自分の責任だし、神の御心だと考えているし、愛したいと願っている。実際愛せるかどうかは、また別の話だが、努力目標として。

陰湿な手法、汚い手法、権威主義的に圧をかけて来る人、人を人として尊重しない人、そういう人は例え自分と同じ主義主張で、自分が同意するとしても、嫌いだ。嫌いだが、愛すべき人であると思って、愛そうとはするし、嫌いなので愛するのは難しいので、愛せるよう力をくださいと神様に祈る。

困るのは、不同意を憎しみや敵意と勘違いするタイプ。こっちは憎しみも敵意も実は無く、好き嫌いはあるにせよ、逆に愛そうとしている。だが、通じない。対話ができない。不同意の表明イコール宣戦布告だと捉えられて人間関係を遮断すらされる。同意しないことに同意したままで、友人になることは可能なのに。

自分も自分の信条に同意できなければ親しくなるのは難しいと感じていた時期はあったが、そんなのは杞憂だった。人間意見が違っても友達になれる。なってみれば分かる。それをできなくするのが「党派性」だと思う。人を人として扱わず陣営で色分けして扱うのが「党派性」の本質だと思う。

「党派性」は良くない。

キリスト教における福音主義と自由主義、政治における保守や革新、それ以外のどんな違いでもそうだが、党派性に飲まれると、人間関係を作るのが圧倒的に難しくなるのを何度も経験した。逆に、その党派性さえ克服できていれば、主義主張、信条が正反対だとしても、人間関係を構築できることも学んだ。多様な敵と多様な友ができた。

不同意であることに同意できる相手なら、友人になれる。色々な形があるとは思うが、それがイエス・キリストの言う「敵を愛すること」「平和を創ること」の一つの実践形式だと思う。逆に主義主張に同意できる人でも党派性に飲まれた人とは付き合いにくい。自分の友人にその人の「敵」がいるからだ。

他者は4つに分類できる。

1.党派性に飲まれた同意できる人
2.党派性に飲まれた同意できない人
3.党派性に飲まれておらず同意できる人
4.党派性に飲まれておらず同意できない人

1の人たちとは戦わずとも付き合いが浅くなる。
2の人とは戦うしかない。
3と4の人たちとはだいたい友人になれる。

人間の主義主張や信条は移り変わるものだ。党派性に飲まれていると、主義主張や信条を転向するたびに敵味方が慌ただしく変わり、友人関係も絶交と新規構築を繰り返すことを余儀なくされてしまう。昨日の友が今日の敵になる可能性が常にあり猜疑心に苛まれる。心の許せる深い人間関係を持つことを恐れ躊躇してしまう。

イエス・キリストが打ち壊そうとした「壁」の一つが「党派性の壁」なのではないだろうか。人種、性別、思想、信条、国籍、民族、文化、言語、貧富、老若、健病が、人と人の付き合いを壁のように分けてしまう。「身内」で身を固め、壁の向こうを「外者」呼ばわりし排除する。そんな壁は壊してしまおう。

党派性に飲まれた人は、例え同じ党派の人間で、主義主張が同じだとしても、異物を壁内に引き入れる人を嫌悪する。その嫌悪感が神の敵であり、神の愛の否定であり、イエス・キリストを十字架につけた罪なのだろう。神の子はその罪を背負って死に、復活した。死ぬしかなかった関係に命の息を吹き入れた。

最も大切な戒めは何かと問われたイエスの答えは、神を愛すること、隣人を愛することだった。では、我々は誰を隣人とするのか。党派性に縛られては誰も真の隣人とすることはできない。人は神の前に総て等しく尊い子とされる時、他の人もまた自分と同様に神が尊ぶ子なのだと信じる時、尊ぶことができる。

壁を超えて人を愛するための前提条件は、壁など無関係に総ての人を等しく愛する神から、自分も他人も愛されていることを受け入れることだ。そのような神の愛を受け入れた人なら、同じように分け隔てなくどんな他人でも愛せるようになると自分は信じるし、今すぐ完璧には無理でも、そう生きていきたい。

写真:Sgt. 1st Class Gordon Hyde

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