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「オー・マイ・ゴッド(わたしの神よ)」の意味するところ

 高校の卒業式を終えた18歳の春、私は、アメリカ合衆国のど真ん中、カンサス州(通称:ハート・オブ・アメリカ)にあるミッション(宗教)系の学校に留学しました。
英語を覚えるために、ハイスクールのシニア(3年生)に再入学し、寮での生活が始まりました。

カトリック(キリスト教の最大教派)の学校でしたので、寮長は、神父(ファザー)と呼ばれ、講師の方も、80%が、神父、又はブラザー、そしてシスターでした。

興味半分に、最初のミサ(祭儀)に参加したときには、無宗教、且つ宗教嫌いの自分は、一人で白けていたことが思い出されます。
案の定、アジア系の私を見ると、参加者の一人が、「あなたの宗教は何ですか?」と聞きました。「ほら、おいでなすった!」と思い、事前に用意していた回答を発しました。

「私は、ブディズム(仏教徒)です」
しかし、次の突っ込みは想定外でした。

「それは、どのような宗教ですか?」 なんと、英語で回答できないどころか、日本語でも答えられないことを質問されたのです。
私は、何も言葉を返せませんでした。

これが、アメリカでの第一印象です。

きっと相手は、「こいつは、自分の信じているものを、説明できないやつだ」と思ったことでしょう。つまり、自分が何を信仰しているのかわかっていない、妄信者と思われたに違いありません。

この経験を皮切りに、アメリカ人は、突っ込んでくる人種であり、きちっと説明しないと、理解してくれない社会であると、その後の経験で、幾度も実感するようになりました。

学校では、ディベートと呼ばれる授業があり、一つのテーマに対して、反対派と賛成派に分かれて、お互いの主張を繰り広げます。
この手の授業は、日本人のように、黙っている民族にとっては、苦手意識が強くなります。
相手の繊細な気持ちを考えながら会話していては、とてもついていけません。

アメリカ人は、お互い、率直な意見を交わした後に、歩み寄るという交渉を日常的にやっていますが、この手法は、精神的に、日本人には、ダメージが大きいことばかりです。

理由は、日本人は、単一民族であり、おおむね相手の表情や、言葉(日本語)の節々から、相手の考えを「察する」ということができるからです。
これに比べて、他民族がモザイク的にいるアメリカでは、「言葉で伝える」ことは、極めて大事なことです。

日本人は、相手の気持ちを考えるとYes, No,をはっきり言えないのです。
政治家や、弁護士のような論争を仕事にする職種以外の一般的な日本人には、不向きなことです。
私は、聖徳太子が十七条憲法の冒頭に掲げた「和をもって貴し(たっとし)となす」という日本人の根幹にある意識によるものだと、そのとき、思いました。

話を、アメリカの根幹にあるキリスト教に戻します。

OMG(オー・マイ・ゴッド)、ジーザス・クライスト(イエス・キリストよ)など、よく使われる言葉があります。何か驚くべきことが起こったとき、アメリカでは、頻繁に使われます。

アジア系のアメリカ人が多くなった最近では、「オー・マイ・ブッダ」(仏さまよ)も、聞くようになりました。

アメリカは、大半がキリスト教であり、物事の考え方や生活のベースが、同宗教観の上に成り立っています。

アメリカ、ハリウッド、70年代の有名な映画「ポセイドンアドベンチャー」も、キリスト教の思想が、強く反映されています。
物語は、豪華客船が、津波によって、真っ逆さまに転覆して、時間の経過とともに、沈没していくパニック&サバイバル映画のはしりです。
主人公の神父は、乗客が助かる道は、ひっくり返った船の船尾(スクリューのあるところ)の近くまで、自力で移動して、助けがくるのを待つという提案でした。(下記のYouTubeは、ハイライト動画です)
もし、船尾だけが、海上に顔を出している状況なら、助けが来ても、救助される可能性が高いと主張します。しかし、自力で、船尾にたどり着くには、それなりの覚悟が必要です。

もし自分が、沈みゆく船に乗り、可能性は低くても、船尾が海上に少しでも出ている状態なら、そこに向かって進み、助けをまつのか、それとも、その場に留まり、ただ、神に助かるように、祈りを続けるのか、どちらの道を選択するのでしょうか?

その神父の言葉で印象的なのは「祈るだけでなく、行動せよ」でした。

ここでも、自力か、他力かの選択に迫られます。

まさに、「天は自ら助くる者を助く」
Heaven helps those who help themselvesという教えに由来しています。

当時、この話を聞いた時、私は、キリスト教という一宗教を超える概念に聞こえました。
後に、この言葉は、英国の作家、サミュエル・スマイルズが1850年代後半に著した「自助論」の冒頭に出てくる言葉だと分かりました。

私は、「オー・マイ・ゴット」(わたしの神よ)の叫びは、人それぞれの宗教観により、神に対する捉え方が異なることや、特定の宗教を超えるニューエージ思想(次回言及)から、後には、ホリスティック的な信仰心の礎にもなっているのだと学びました。


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